第十五話:星空を運ぶ人
三浦半島の先端、三崎。潮風が錆びたバス停の看板を揺らす夜、古民家の扉を叩く音がします。今夜の「ヨルクマ」に現れたのは、星を操る仕事を持ちながら、自分自身の星を見失いかけた一人の女性でした。店主の「私」と、新しく家族に加わった柴犬「こまる」が、彼女の静かな告白を静かに受け止めます。
……。
三崎の夜は、都会よりもずっと暗い。
日ノ出バス停に停まるバスの排気音が遠ざかると、辺りには波の音と、岸壁に当たる風の音だけが残される。
私は土間の奥にある6畳間の端で、いつものように文庫本を広げていた。視線の先には、黒い漆喰で塗り固められた「ヨルクマ」の空間が広がっている。天井には星空のようなイルミネーションが、ゆっくりとしたテンポで明滅している。
入口の古い引き戸がカラカラと開いた。
「いらっしゃい」
私は立ち上がらず、声だけを投げた。
入ってきたのは、30代前半とおぼしき女性だった。濃紺のロングコートを羽織り、首元には星座を思わせる深い青のストールを無造作に巻いている。肩には、たくさんの機材が入っていそうな、少し重たげなリュックを背負っていた。彼女は入り口にある料金箱に、1時間分の1000円を、そっと差し入れた。
受付はない。案内もしない。それがこの店のルールだ。
彼女は土間を見渡し、少しだけ迷ったような足取りで、100体の木彫りの熊たちが並ぶ棚へと向かった。
ヨルクマの客は、まず自分の「相棒」を選ぶ。
彼女が選んだのは、四つん這いではなく、後ろ足で座り込み、少しだけ上を向いて口を開けている小ぶりな熊だった。まるで、空から降ってくる何かを待っているような姿の熊だ。
彼女は一番端のローソファーに座り、その熊を膝の上に置いた。
その時、足元で寝ていた柴犬の「こまる」が、ふわりと立ち上がった。
こまるは最近、このキボクマに居着いた迷い犬だ。少し高齢で、顔立ちが常に何かを困っているように見えるので「こまる」と名付けた。こまるは彼女の足元まで歩いていくと、その靴先に鼻を軽く触れさせ、そのまま彼女の足元に丸くなった。
彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を和らげ、こまるの頭を一度だけ撫でた。こまるは特に愛想を振りまくわけでもなく、ただそこに「いる」という態度を崩さない。
15分ほど、彼女は天井の灯りをじっと見上げていた。
やがて、ふと入り口の方へ視線の戻した彼女は、料金箱の隣に置かれた「お品書き」に目を留めた。
「……あの、すみません」
躊躇いがちに、けれど少しだけ勇気を振り絞ったような声が、6畳間の静寂を揺らした。彼女はこちらをじっと伺っている。
私は開いていた文庫本にそっと栞を挟み、机の上に置いた。一度眼鏡の位置を直し、ゆっくりとした動作で膝をさすりながら立ち上がる。急ぐ必要はない。ここはそういう場所だ。
「……はい。何か必要ですか?」
「この……お品書きの、会話っていうのは、本当にいいんでしょうか」
「ええ。まあ、たいしたお返しはできませんが、聞き役くらいなら。0円ですから」
私はそのまま、適度な距離を保って彼女の斜め向かいにあるソファーに腰を下ろした。
「私、星を売っているんです」
唐突に、彼女は言った。
「プラネタリウムの投影技師をしています。毎日、何万という星を、お客様の頭上に映し出しています」
私は黙って頷いた。
「1等星から6等星まで、色も、瞬きも、完璧に再現できます。デジタルの星空は、本物よりもずっと綺麗で、雨が降っても曇っても、決して消えません。解説も完璧にこなします。どこにどんな神話があって、どの星がいつ爆発したのか」
彼女は膝の上の熊を、愛おしそうに撫でた。
「もっとも、時々、息ができなくなるんです。私の指先一つで動く星空が、あまりに冷たくて。偽物の完璧さに囲まれているうちに、本当の夜空がどんな色をしていたのか、わからなくなってしまったんです。だから、ここに来ました。三崎の空なら、何かが違うかと思って」
「三崎の空は、特別綺麗というわけじゃありませんよ」
私は言った。
「ただ、暗いだけです」
「それがいいんです」
彼女は小さく笑った。
「暗闇がないと、星は光れません。私の仕事場には、本当の暗闇がないんです。常に次の投影の準備があって、制御された光があるだけ。」
彼女はそれから、自身の好きな星座について語り始めた。
北の空にひっそりと輝く、かんむり座の話。
半円形に並んだ星たちが、まるで誰かを待っている王冠のように見えること。
その中の一つだけが、時折、不思議な変光を見せること。
彼女の語る星の話は、専門知識を超えて、祈りのような響きを持っていた。
「いつか、投影機を通さない、本当の星空の一部になりたいんです」
彼女はそう締めくくると、ふう、と深い溜息をついた。
「十分、星を運んでいるじゃないですか」
私がそう言った瞬間だった。
天井の、スローテンポで明滅していたはずの灯りが、ふっと一箇所に集まるように強く瞬いた。
「あっ……」
彼女が息を呑む。
漆喰の黒い天井に、彼女が先ほど語っていた「かんむり座」が、くっきりと浮かび上がっていた。機械制御されたプラネタリウムの完璧な光ではない。古民家の湿気や、潮風の揺らぎを含んだような、どこか不器用で、けれど温かい光の半円形。
「あなたは、偽物の星を映しているんじゃなくて、誰かの心の中に、本物の夜空を思い出すための『きっかけ』を運んでいる。そうは見えませんか」
彼女は顔を上げ、メガネ越しに私を見た。それから、頭上に輝く小さな王冠を、涙を浮かべた瞳で見つめ直した。
「……きっかけ。そうですね。私、忘れていました。私が映した星空の向こう側に、誰かの大切な思い出があることを」
膝の上の熊が、嬉そうに彼女の指先に鼻を寄せた。こまるもまた、くぅ、と静かに喉を鳴らした。
彼女はそれから、閉店までの時間を静かに過ごした。
立ち去り際、彼女はこまるの耳の後ろを優しく掻き、「ありがとう」と呟いた。料金箱に、お礼のつもりなのか、もう1000円を入れようとしたので、私はそれを止めた。
「また、星に疲れたら来てください。ここはただの古い家ですけど」
彼女が去った後、三崎の夜は再び静寂に包まれた。
翌朝。
私はキボクマの開店準備のために、1階の土間へと降りた。
朝の光の中で、ふと天井を見上げた私は、手に持っていた箒を止めた。
天井の星空の配置は、私が設置した時から一度も変えていないはずだった。だが、そこには昨夜の余韻がまだ静かに息づいているかのように、小さな半円形の星の並びが淡く灯り続けていた。
彼女が抱いていたその熊もまた、今も少しだけ首を傾けてその「冠」を見上げているように見えた。
「……気のせいか」
私は呟いたが、足元でこまるが、わかっているよ、と言いたげな顔で私の顔を見上げていた。
今日も三崎には、バスの音と潮風が流れている。
彼女が運んできた星の欠片は、この古い家の天井で、誰にも気づかれぬまま、静かに、しかし確かに瞬いていた。
……。
完璧なものばかりに囲まれていると、私たちは時として「不完全な暗闇」を恋しく思うことがあります。
彼女が置いていった星の話は、ヨルクマの天井に新しい星座を刻んだようです。
キボクマは、何かを解決する場所ではありません。ただ、迷い込んだ誰かの心が、ほんの少しだけ軽くなるのを待つ場所なのです。
さて、次はどんなお客様が、あの古い引き戸をカラカラと鳴らしてくれるのでしょう。その新しい出会いを、私とこまるは、ほんの少しだけ楽しみに待っています。




