第十話:0円の告白
三崎の夜は、潮騒と静寂が交互に街を包み込みます。街灯の少ない小道を歩き、日ノ出バス停付近にある「ヨルクマ」の古い引き戸を開くとき、お客さんは現実の騒がしさを一度脱ぎ捨てなければなりません。
今夜の客は、一人の不器用な青年。
彼が1,000円という「静寂の入場料」を払ってまで求めたのは、誰にも言えない心の予行演習でした。
店主と、そこで待つ100体の熊たちが、その震える声に耳を傾けます。
……。
神奈川県三浦市三崎、日ノ出バス停付近。
夜が深まると、築50年の古民家は「ヨルクマ」という名の、星空を内包した空間へと姿を変える。黒い漆喰の壁と天井には、スローテンポで明滅するイルミネーションが施され、まるで宇宙の片隅に迷い込んだかのような錯覚を覚える。
私は土間の奥、6畳間に身を潜めていた。フリースにサンダル履き。これが私の「正装」だ。
入り口には受付もスタッフもいない。ただ古い木箱が置かれ、客はそこにヨルクマの滞在料金一律1,000円を投げ入れる。それが、この場所で何時間過ごしても構わないという、静寂への通行手形だ。
20時を過ぎた頃、「カサリ」と千円札が木箱に吸い込まれる音がした。
続いて、迷いのある足音が土間のコンクリートに響く。私は襖をわずかに開け、中の様子を伺った。
現れたのは、20代半ばと思われる、ひどく緊張した面持ちの青年だった。リクルートスーツのネクタイをキッチリ緩め、手にはコンビニの袋。中には缶ビールが2本入っているようだった。
彼はキョロキョロと室内を見渡し、やがて本棚の隅にいた、鮭を咥えていない「腕組みをした座り姿の熊」を手に取った。
彼は一番端のカウンター席に座り、熊を自分の正面に据えた。
壁に貼られた簡素なメニュー表を、穴が開くほど見つめている。
「……あの、すみません」
消え入りそうな声。私はゆっくりと6畳間から土間へと降りた。
「はい」
「これ……本当ですか? 『店主との会話、0円』っていうの」
青年は、まるで疑うような目で私を見た。私はメガネの縁を直し、短く頷いた。
「ええ。ただの暇つぶしですよ。私で良ければ」
青年は、持ってきた缶ビールの1本を私に差し出した。
「あ、これ。お礼っていうか……飲んでください」
「ありがとうございます。いただきます」
私は彼と一つ席を空け、カウンターに腰を下ろした。適度な距離感。それが私の流儀だ。
青年は自分の缶を開け、一気に半分ほど飲み干すと、深く、重いため息をついた。
「練習させてください」
「練習?」
「告白……の、練習です」
彼は目の前の熊をそっとなでた。その熊は、どこか威厳のある頑固親父のような顔立ちをしていたが、青年に触れられると、心なしか首をわずかに傾けたように見えた。
「3年付き合ってる彼女がいるんです。でも、僕は口下手で。大事なところでいつも噛むし、何を言ってるか分からなくなる。明日の夜、彼女の誕生日なんです。奮発して予約したレストランで、美味しい肉料理を食べて……そのあとに、ちゃんとプロポーズしたくて」
私は黙って頷いた。49歳の「フツーのおじさん」にできるのは、ジャッジすることではなく、ただそこに存在することだけだ。
「いいですよ。私がその彼女だと思って始めてください。それとも、その熊が彼女ですか?」
「あ、いや、この熊は……僕の死んだ父に似てるんで、見守り役です」
彼は大真面目に言った。それから、不思議な時間が始まった。
「美紀。僕は、君の作る……いや、君と一緒に食べるご飯が好きだ。これからも、ずっと……」
「……あ、今のダメだ。もう一回。美紀、結婚してくれ! いや、唐突すぎるかな」
青年は何度も何度も、同じような言葉を繰り返した。時には立ち上がり、時には頭を抱え、時には私に向かって深々と頭を下げる。
私はその都度、「今の言葉は、少し響きましたよ」とか「もう少しゆっくりでもいいかもしれません」と、率直な感想を伝えた。
不思議なことに、彼が熱を込めて語れば語るほど、正面の木彫りの熊が、深く腕を組み直し、満足そうに頷いているように見えた。黒漆喰の壁で瞬く光が、熊の瞳に小さな命を吹き込んでいるのかもしれなかった。
「美紀。僕は、君と過ごす何気ない時間が一番好きだ。これから先、どんなことがあっても、君の隣にいたい。……僕と、結婚してください」
最後の一回。彼の声は震えていたが、真っ直ぐだった。
静寂が土間を支配した。遠くで大型トラックが走り去る重低音が聞こえ、ヨルクマの空気は一層澄み渡った。
「……今の、すごく良かったです。私なら、頷きます」
私がそう言うと、青年は顔を真っ赤にして、力なく笑った。
「ありがとうございます。なんか、少しだけ……いける気がしてきました。店長さん、黙って聞いてくれてありがとう」
彼は空になった缶をまとめ、立ち上がった。
「あ、1,000円でこんなに時間とってもらって、得しちゃいました」
青年は、父に似ていると言った熊の頭を最後にもう一度ポンと叩き、夜の闇へと消えていった。
私は一人、土間に残された。
青年が座っていた席には、ほんの一分前まで彼が向き合っていた木彫りの熊が、ポツンと置かれている。私はその熊を元の棚に戻そうとした。
その時、手が止まった。
「……おや」
電球色の淡い光の下で、その熊の頬が、ほんの少しだけ朱に染まっているように見えた。木肌が熱を持っているわけではない。ただ、まるで我が子の立派な姿を見届けた父親のように、あるいは青年の情熱が伝染したかのように、その表情はえも言われぬ温かみに満ちていた。
私は苦笑し、熊の肩を軽く撫でた。
「お疲れ様。いい親父役だったな」
熊は何も答えない。ただ、天井で揺らめく星空を、その丸い瞳でじっと見つめていた。
明日、三崎の海は穏やかだろうか。
私は6畳間に戻り、照明のスイッチを切った。
明日もまた、誰かがこの静寂を求めて、あの扉を叩くのだろう。次はどんな物語を携えた客がやってくるのか。それを静かに待つのも、悪くない。
……。
「0円」の会話には、時に値段のつけられない価値が宿ることがあります。それは、店主が何か特別な助言をしたからではなく、ただ誰かが自分の言葉を「受け止めてくれた」という事実が、その人の背中を押すからです。
三崎の夜に溶けていった青年の言葉。それが明日、大切な人に届いていることを願います。ヨルクマの熊たちは、今夜もまた、あなたの物語を静かに待っています。
⭐︎次回より、毎週日曜20時に更新させていただきます。




