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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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第一話:日ノ出の礼拝者

神奈川県三浦市三崎。

潮風が吹き抜けるこの町には、100体の木彫りの熊が並ぶ、少し変わった古民家があります。


店主は、49歳の「普通のおじさん」。

サービスも音楽もありません。ただ、熊と一緒に静かな時間を過ごすだけの場所。


そんな「キボクマ」に、今朝も最初のお客さんがやってきました。

三崎の朝の匂いと共に、物語を始めてみたいと思います。



三崎の朝は、潮の香りと、京急バスが立てる低く重たいエンジン音で始まる。


ここ「キボクマ」は、築50年の古民家を改装したフリースペースだ。日の出バス停から歩いてすぐ。観光客が城ヶ島へ渡る前にふらりと立ち寄ることもあるし、地元の人間が手持ち無沙汰に時間を潰しに来ることもある。


私は毎朝、8時30分に格子戸を開ける。

49歳、短髪、メガネ. ユニクロのチノパンに、履き古したスニーカー。どこにでもいる「フツーのおじさん」である私のルーチンは、土間の掃き掃除から始まる。


10畳ほどの土間には、全部で100体の木彫りの熊が鎮座している。

鮭を咥えた伝統的なものから、なぜかスキー板を履いた変わり種、あるいは抽象化されすぎてただの黒い塊に見えるものまで。これらは私の唯一と言っていい趣味の産物だ。


掃除を終え、土間の奥にある6畳間に引っ込む。ここが私の定位置だ。文庫本を開き、客が来るのを待つ。もっとも、積極的な「おもてなし」をする気は毛頭ない。ここは場所を貸すだけの空間なのだから。


9時を告げる柱時計の音が響き渡ると同時、ガラリと戸が開いた。


「おはようございます」


消え入りそうな声と共に、一人の老婦人が入ってくる。近所に住むトヨさんだ。

彼女は真っ直ぐに、土間の隅にある古びた本棚の横へ向かう。そこには、数あるコレクションの中でも一段と古びた、体長20センチほどの木彫りの熊が置かれている。


その熊は、鮭を咥えていない。前足を揃え、少し首を傾げた、どこか寂しげな表情をしている。


トヨさんは、その熊の前に膝をつくと、まるでお地蔵様に手を合わせるかのような仕草で、じっとその木肌を見つめる。

その間、わずか3分。

彼女は一言も発さず、ただ静かに熊と対話し、満足したように立ち上がると、そのまま出口へと向かう。


「トヨさん、今日も早いですね」


6畳間から声をかけると、彼女は少しだけ肩を揺らし、申し訳なさそうに微笑んだ。


「ええ。この子が、今日も無事か確かめにね」


そう言って、彼女は足早に去っていく。

ここ「キボクマ」は低額ながら有料のスペースだ。本来なら、足を踏み入れた時点で清算をお願いすべきなのだが、たった3分の「拝観」に代金を請求するほど、私の心はビジネスライクに染まっていない。


その日の夕暮れ時、珍しくトヨさんが再び現れた。

今度はいつもの軽やかな足取りではなく、どこか重い足取りだ。


「店主さん、ちょっといいかしら」


呼ばれて、私は重い腰を上げた。6畳間から土間へ降りる。

トヨさんは、例の「首を傾げた熊」を両手で包むように持っていた。


「この子、なんだか今日、悲しそうな顔をしている気がして。私が拝んでいるのが、迷惑なのかしら」


私はトヨさんの隣に座った。サンダルの先で、土間の砂を少しだけ弄ぶ。

木彫りの熊に表情なんてない。彫られたその瞬間の顔が、一生続くはずだ。けれど、見る側の心持ち次第で、木目は涙の跡に見えることもある。


「トヨさん、この熊、実は私が三浦の骨董市で見つけたときは、もっとひどい顔をしてたんですよ。埃を被って、片足が欠けかけていて」


「まあ、そうなの?」


「ええ。でも、ここに置いて、いろんな人に眺められるうちに、少しずつ艶が出てきた。特に、トヨさんが毎朝来てくれるようになってからは、なんだか誇らしげに見えますよ。今日は……そうですね。多分、湿気のせいで少し顔が浮腫んでいるだけじゃないでしょうか」


私の適当な慰めに、トヨさんは「ふふっ」と小さく吹き出した。


「浮腫むなんて、おじさんみたいなことを言うのね、この子は」


「私と同じ49歳かもしれませんよ、こいつも」


トヨさんは、愛おしそうに熊の頭を撫でた。

その指先が、熊の耳の裏にある、小さな「欠け」に触れる。


「……私の息子がね、昔、熊の木彫りを作ると言って、庭の薪を削ったことがあったの。結局、形にならなくて、ただの変な棒切れになっちゃったんだけど」


トヨさんの声が、少しだけ湿り気を帯びる。


「その息子が、遠い街で病気で亡くなってから、もう10年。この子の首の傾げ方が、あの子が考え事をするときの癖にそっくりでね。毎朝、おはようって言いに来ると、あの子が生きてるような気がしちゃうのよ。……払わなきゃいけないのは分かってるんだけど、あまりに一瞬だから、つい甘えてしまって」


彼女はバッグから小銭入れを取り出そうとした。

私はそれを手で制した。


「トヨさん、うちはフリースペースです。滞在時間で料金が決まる。5分未満は、いわば『内見』のようなものです。料金は入りません」


「でも……」


「その代わり、と言っては何ですが。今夜、少しだけ『ヨルクマ』の時間に顔を出していきませんか? 持ち込みは自由です。普段は1000円で閉店までいてもらってますけど、トヨさんは初めてだし、500円でいいですよ。温かいお茶でも飲みながら、その息子の『棒切れ』の話、聞かせてください」


トヨさんは目を丸くし、それからゆっくりと熊を元の場所に戻した。


「……お茶じゃなくて、少しだけ強いものを持ってきてもいいかしら。あの子、ビールが好きだったから」


「ええ、もちろん。静かに飲むのが、うちのルールですから」


夜。

「ヨルクマ」となった店内は、黒漆喰の壁にLEDの微細な光が反射し、まるで深い海底から星空を見上げているような不思議な空間に変わる。


トヨさんは、4人掛けのローソファーのひとつに、あの首を傾げた熊を座らせていた。

彼女の隣には、コンビニで買ったであろう缶ビールが1本。

私は6畳間の定位置に引っ込み、開いた本のページをめくるふりをしながら、ただ静かにトヨさんの気配を感じていた。


三崎の夜風が、隙間風となって土間を通り抜ける。

トヨさんは熊に向かって、ボソボソと、しかし楽しそうに語りかけていた。

時折、熊が本当に「うん、うん」と頷いているように見えるのは、イルミネーションの瞬きのせいだろうか。


閉店間際、トヨさんはスッキリとした顔で立ち上がった。


「店主さん、ありがとう。あの子、今日は浮腫みが取れたみたい」


「それは良かったです」


彼女が去った後、私はトヨさんが座っていた席へ向かった。

そこには、10円玉が3枚、ちょこんと置かれていた。

朝の「3回分」の拝観料だろうか。


私はその30円を手に取り、首を傾げた熊の前に置いた。


「お前、いい仕事したな」


熊は何も答えない。

ただ、夜の光の中で、ほんの少しだけ得意げに胸を張っているように見えた。


三崎の夜は更けていく.

明日の朝も、また同じ潮風が吹き、同じバスの音が聞こえるはずだ。

今日という日の、静かな演出の幕を引くように、私は星空のようなイルミネーションのスイッチを切った。


不条理なほどに静かで、切ないほどに温かい、この場所で。

第一話をお読みいただき、ありがとうございました。


毎朝やってきては、特定の熊を拝んで帰るトヨさん。

彼女が抱えていたのは、解決できないけれど、誰かと分かち合える「小さな切なさ」でした。


この場所「キボクマ」には、今日もお客さんが残していった小さな謎や、心の揺れが静かに漂っています。


もしこの物語を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、応援コメントなどをいただけますと、店主(とおじさんのパートナーである私)の大きな励みになります。


夜の「ヨルクマ」のイルミネーションを灯して、またのお越しをお待ちしております。


次のお話も、どうぞお楽しみに。

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