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王太子妃が浮気相手に貢いだ結果

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/03/05

 王宮大広間の天井は、今夜もやたらと高い。金箔の装飾が燭台の光を跳ね返し、床の大理石にまで眩しさが落ちてくる。十年間、この眩しさの下で、笑い方も歩幅も呼吸の整え方も叩き込まれてきた。


 その中心に立つのが、アルヴェリア王国王太子ルドヴィク・フォン・アルヴェリア殿下である。王太子という肩書が似合いすぎる男だ。背筋も、顎の角度も、他人の視線を浴びるために生まれてきたみたいに整っている。


 そして、その腕を取るべきは、侯爵令嬢マルグリット・ド・ラヴァリエール。王家が承認した婚約者として、王妃教育を受け続けてきた者として、今夜も殿下の隣に立つ段取りだった。


 だった、というのが、たぶん正しい。


 殿下の右手には、見覚えのない女が寄り添っていた。白い肌に淡い薔薇色の頬、揺れる金の髪飾り。あの作り笑いは、王宮で生きる女の笑いだ。初対面の顔ではない。


 子爵令嬢エミリー・ド・ロシュフォール。子爵家の娘という立場を超える勢いで、近頃やけに社交界の中心に滑り込んできた名前だ。


 音楽が終わり、拍手がひと波引いたところで、殿下が一歩前へ出た。広間の空気が、目に見えない糸で絞られるみたいに張りつめる。


 殿下は、こちらを見た。いや、こちらの背後にいる群衆ごと見渡した。演壇に立つ人間の目だ。


「諸君、今宵、祝いの席にふさわしい報せがある」


 笑いが漏れそうな言い回しだった。祝いの席にふさわしい報せ、そう言っておいて、殿下の指が、こちらではなくエミリーへ向いた。


「この場で宣言する。マルグリット・ド・ラヴァリエールとの婚約を解消する」


 誰かが、息を吸い損ねたような音を立てた。扇が床に落ちる乾いた音もした。ざわめきが起きる前に、殿下が続ける。


「真実の愛を見つけた。相手は、エミリー・ド・ロシュフォールだ」


 エミリーが、勝ち誇った顔でこちらを見た。勝者の顔を隠す気もないらしい。腹立たしいほど分かりやすい。


 視線が一斉に刺さってきた。哀れみも、怒りも、好奇心も混ざった、貴族らしい刃物の束だ。十年間、王太子妃候補として磨かれてきたのは、こういう刃物を浴びても転ばない足首だったはずなのに、今夜ばかりは笑える。


 殿下が、こちらへ手を差し出すでもなく言った。


「答えろ、マルグリット。承認の場だ」


 答えろ。命令口調。いつも通りだ。いつも通りの男が、いつも通りに、勝手に世界を動かしたつもりになっている。


 口の端が勝手に上がりそうになったので、奥歯で噛み殺した。ここで笑ったら、殿下はきっともっと癇に障る。なら、笑わないほうが面白い。


 扇を閉じ、背筋を伸ばし、声を落とす。


「承知しましたわ」


 それだけ。余計な飾りも、泣き言も、懇願もない。


 広間のざわめきが、逆に強くなった。予想外だったのだろう。誰かが「そんなはずが」と呟き、別の誰かが「王家の契約を」と怒鳴りかける。


 最前列にいた父の友人、老侯爵が、殿下へ向けて踏み出した。


「ルドヴィク殿下、侯爵家と王家の婚約は、社交の戯れではありませんぞ」


 殿下の頬が引きつった。言い返す前に、エミリーが甘えるように殿下の腕へ指を絡めた。


「殿下、皆さまが怖い顔をなさいますわ。わたくし、悪いことをしたみたい」


 わざとらしい。だが、殿下はそれに弱い。殿下の視線は、こちらではなくエミリーの唇に吸い寄せられていた。


「誰も君を責めていない」


 即答。反射みたいな庇い方。十年間、誰もそんなふうに庇ってくれなかったのに、と思っても仕方ない。庇う価値がないと殿下が決めていたからだ。


 殿下は、こちらを睨んだ。睨む相手が間違っている自覚もない。


「承知しただと?それだけか。十年だぞ」


 知らんがな、と喉まで出た。ここは王宮だ。侯爵令嬢としての体裁が、まだ皮膚に貼りついている。


「殿下のお望みのままに、と申し上げます」


 言葉を丁寧に整えれば整えるほど、殿下の苛立ちが増すのが分かる。殿下は、こちらが崩れるのを望んでいる。泣いてすがって、怒鳴って取り乱して、殿下の決断がいかに正しいかを証明する道具になれという顔だ。


 なら、なってやるものか。


 殿下の背後で、王の側近たちが互いに目配せをした。王宮の侍従たちも凍りついている。誰もが、今夜の段取りが、どこかで壊れたのを理解した顔だった。


 殿下は結局、宣言を押し切った。王家の承認が絡む契約だろうが、殿下は押し切れば済むと思っている。そういう男が王太子である国に、未来があるのかどうかは知らない。


 その場は、音楽が再開され、踊りの輪が無理やり作り直され、笑い声が貼り付けられて、いつもの夜会の形に戻された。戻ったように見せただけだ。視線は、ずっと背中に刺さり続けた。



 控えの間へ戻る廊下は、広間より寒い。石造りの壁が、今夜の醜さを吸い込んでいるみたいだった。侍女が青い顔でついてくる。慣れたはずの王宮なのに、今夜は足音がやけに響く。


「マルグリット様……お身体は」


 侍女の声が震えている。気遣いの形をして、怯えも混ざった声だ。


「身体は壊れてないわ。壊れるのは、あちらの財布と信用じゃないの」


 言ってから、侍女が目を丸くした。毒が漏れた。強気で乱暴めにしろと、胸の奥の別の自分が笑っている。


 控えの間の扉を閉めると、侯爵家の従者が待っていた。父の名代として来ている、執事長のギヨームだ。侯爵家執事長ギヨーム・ブランデルという役割が、今の空気を一瞬で実務へ引き戻す。


「お嬢様、馬車の用意が整いました。今夜のうちに侯爵領へお戻りください」


「父上は」


「王宮へ残られます。殿下の宣言を受けて、各家が動きます。侯爵家として、今夜は席を外せません」


 父らしい。怒りで殿下を殴りに行くより、殿下の足元が崩れたときに備えて縄を張る。


 コートを羽織り、髪をまとめ直してもらう。鏡の中の顔は、泣き腫れてもいないし、崩れてもいない。むしろ、目の奥が冴えている。


 馬車に乗る直前、王宮の玄関前で、見知らぬ男が立っていた。護衛の気配が濃い。背丈が高く、肩幅が広い。軍人のようでいて、礼装の仕立てが恐ろしく良い。


 男が一歩だけ前へ出た。視線の当たり方が、王宮の男たちと違う。値踏みでも、見世物扱いでもない。状況を把握した上で、こちらの足元を守る距離の取り方だ。


「侯爵令嬢マルグリット・ド・ラヴァリエール」


 名を呼ばれ、足を止める。


 男は、胸に手を当てて一礼した。


「隣国ヴァルトシュタイン公国、公爵アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタイン。今夜の件で、ひと言だけ」


 隣国の公爵。噂で聞く「王国随一の実力者」という呼び名が、勝手に頭へ浮かんだ。だが目の前の男は、誇示の匂いが薄い。鋭いのに、騒がしい感じがしない。


「ひと言で済むのなら、どうぞ」


 言い方が少し刺さったかもしれない。けれど、今夜は優等生の返事をする気分じゃない。


 アレクサンダー公爵は、口元だけで笑った。嫌な笑い方ではない。こちらの棘を、面白がって折ろうとしない笑い方だ。


「殿下は、空気を読む才覚に欠ける。だが、あなたは社交界を制する才がある」


 褒め言葉の形をしているが、軽くない。今夜の広間を見て、そう受け取ったのだろう。


「才なんて結構ですわ。今は、王宮の空気を吸いたくないだけ」


「なら、吸わなくていい。侯爵領へ戻る道中、護衛の増員を提案したい。こちらの都合でもある。今夜からしばらく、街道が騒がしくなる」


 こちらの都合でもある、と言った。貸しを作る言い方じゃない。互いの利を揃える言い方だ。


 少しだけ、呼吸が楽になった。王宮の男たちは、こちらを動かすために言葉を使う。だが、この男は、こちらがどう動くかを前提に、手段を差し出してくる。


「分かりましたわ。侯爵家の執事長と話して。余計な噂が立つのは、今夜は面倒ですもの」


「承った」


 公爵は一礼し、それ以上踏み込まないまま、半歩下がった。距離が保たれる。そこに、妙な安心があった。


 馬車の扉が閉まる寸前、広間の灯りが遠くに滲んだ。さっきまで自分の世界の中心にあったはずの光が、ただの建物の明かりに見える。


 膝の上で扇を握りしめる。折れるほど握っても、扇は折れない。なら、折れるべきものは別だ。


 馬車が動き出す。王宮から離れていく振動が、背中に残った十年間の癖を、少しずつ剥がしていく。



侯爵領へ戻ってから半年が過ぎた。


 王宮の大理石の廊下とは違い、ラヴァリエール侯爵家の館は石の匂いが濃い。窓を開ければ土と草の匂いが混ざり、遠くの畑で馬が鳴く声まで聞こえる。


 あの夜会の光景は、時々思い出す。けれど、それはもう遠い場所の出来事みたいだった。


 今朝も机の上には書類が山になっている。収穫の報告、葡萄酒の出荷予定、農地の水路整備の見積もり。王宮で王妃教育を受けていた十年間、こういう紙を直接触る機会はほとんどなかった。


 父は、私が戻った日に言った。


「王太子妃教育で。ふさわしい勉学を十年も受けた娘がいる。ならば侯爵領の運営くらい任せてみるのも面白い」


 面白い、だそうだ。父は本当にこういう言い方をする。


 ペンを置いて、書類の山を一つ崩す。執事長ギヨーム・ブランデルが机の横に立った。侯爵家執事長として三十年この領地を回してきた男である。


「麦の出荷量ですが、王都の商会が今年は値を下げると言ってきています」


「去年の半分に落ちる理由は?」


「王都の市場が混乱しているそうです」


 混乱。便利な言葉だ。何でも説明できる。


 私は椅子の背にもたれた。


「王都の市場が混乱している理由は?」


 ギヨームは一瞬だけ沈黙し、それから低い声で言った。


「王家の財務が揺らいでいるという噂が広がっています」


 扇を机の上で回す。


「エミリー・ド・ロシュフォール様の衣装代かしら」


 侍女が吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。


 半年の間に、王都から流れてくる噂は山ほど聞いた。


 王太子ルドヴィク・フォン・アルヴェリア殿下は、宣言通り子爵令嬢エミリー・ド・ロシュフォールと結婚した。王宮の礼拝堂で行われた婚礼は、派手だったらしい。


 宝石、衣装、祝宴。


 それを聞いたとき、私は葡萄酒を一口飲んだだけだった。


 けれど、その後の噂のほうが面白い。


 宝石が足りない。


 衣装が足りない。


 馬車が足りない。


 王宮の宝飾庫が空になる勢いだとか、王太子妃の私室が衣装部屋で埋まったとか、いろいろな話が流れてきた。


 彼女の持ち物がらみにしては多すぎる。

 そう思いつつも、私は書類を閉じた。


「麦は半分だけ王都へ送って。残りは北の市場へ回す」


「承知しました」


 王都が騒がしくなるなら、こちらまで巻き込まれる必要はない。


 その時、執務室の扉が叩かれた。


「お嬢様、来客です」


 侍女の声に顔を上げる。


「誰?」


「隣国の公爵様です」


 思わず笑った。


「公爵様って、あの公爵様?」


「はい、アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタイン公爵です」


 半年ぶりに聞く名前だった。


 王宮の玄関で、あの男は一言だけ言った。社交界を制する才がある、と。


 私は立ち上がった。


「応接室へ案内して」


 廊下を歩くと、館の使用人たちが妙に静かだった。隣国の公爵という肩書きは、地方の館では十分に騒ぎの種になる。


 扉を開けると、男は窓際に立っていた。


 長身、広い肩、黒に近い外套。半年ぶりでも、姿はすぐに分かった。


 隣国ヴァルトシュタイン公国の公爵、アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタイン。


 振り返った公爵が軽く頭を下げる。


「侯爵令嬢マルグリット・ド・ラヴァリエール。突然の訪問を許してほしい」


「侯爵領の館に公爵が来る理由なんて、普通は面倒な話ですわ」


 公爵の口元が少しだけ動いた。


「面倒ではある」


「正直ですのね」


 私は椅子へ腰を下ろした。


「それで、公爵様。今度は街道の護衛の話ではなさそう」


 公爵は窓の外を一度見た。


「王都の状況は聞いているか」


「ええ。王太子妃の衣装部屋が王宮を侵食しているとか」


 公爵が小さく笑った。


「それもある」


「他にも?」


「宮廷会計官が、王家の財務帳簿を調べている」


 私は扇を止めた。


「半年で?」


「半年で、だ」


 公爵の声は静かだった。


「宝石、衣装、祝宴、私的な贈答品。金が流れすぎている」


「王家の財布は底なしじゃありませんもの」


 公爵は私を見た。


「王都の商会はすでに警戒している」


「だから麦の値が下がった。王家が貯蔵する麦を多く売ったから」


「そうだ」


 私は背もたれに体を預けた。


「つまり、王太子殿下は半年で市場を揺らしたわけね」


「結果としては」


 公爵はそれ以上、殿下を悪く言わなかった。


 それが逆に面白い。


「それで、公爵様が侯爵領まで来た理由は?」


 公爵はようやく椅子に座った。


「あなたに会うためだ」


 あまりにも真っ直ぐな言い方だったので、侍女が後ろで息を呑んだ。


「社交辞令なら、もう少し飾ったほうがいいですわ」


「社交辞令ではない」


 公爵は机の上の書類を見た。


「あなたは侯爵領を動かしている」


「父が面白がっているだけ」


「それでも動いている」


 視線が合う。


 王宮の男たちとは違う目だ。何かを奪うための目ではない。何かを確かめる目だ。


「王都はまだ揺れる」


 公爵は言った。


「もっと大きく」


「半年でこれなら、確かに面白くなりそう」


「その時、あなたの名前は必ず出る」


 私は笑った。


「婚約破棄された女の名前が?」


「十年間王太子妃教育を受けた侯爵令嬢の名前だ」


 窓の外で風が吹いた。


 葡萄畑の葉が揺れている。


「だから私は、あなたに関わっておきたい」


 私は扇を閉じた。


「それは、協力の申し出?」


「半分」


「残り半分は?」


 公爵は少しだけ考えてから言った。


「好意だ」


 私は声を出して笑った。


「公爵様、ずいぶん直球ですわ」


「否定はしない」


 沈黙が少し落ちた。


 王宮から遠く離れた侯爵領の応接室で、隣国の公爵と笑っている。


 半年前の夜会で、誰がこの状況を想像しただろう。


「いいですわ」


 私は言った。


「王都が崩れるなら、遠くから眺める席くらい欲しいもの」


 公爵は頷いた。


「その席は、用意できる」


 窓の外の空は高い。


 王宮の天井より、ずっと広かった。



 王都の冬は、侯爵領より冷える。


 石造りの王宮は風をよく通す。廊下を歩くたびに、壁に掛けられた紋章旗がかすかに揺れ、燭台の炎が細く震える。


 一年ぶりに戻った王宮は、見慣れたはずの景色なのに、どこか落ち着かない空気が漂っていた。


 私は馬車を降り、階段を上がる。王宮の侍従たちの視線が集まる。驚き、好奇心、そして少しの安堵。


 侯爵令嬢マルグリット・ド・ラヴァリエール。


 王太子の婚約者だった女が戻ってきた。そういう顔だ。


 侍従長が一礼する。


「マルグリット様、王宮評議会の準備が整っております」


「早いのね。まだ昼前でしょう」


「王が急がれました」


 急がれた、ね。


 私は軽く頷き、廊下を進む。


 今日の評議会には、王、王族、主要貴族、宮廷会計官、そして外交使節まで呼ばれている。


 理由はひとつ。


 王太子妃エミリー・ド・ロシュフォールの問題だ。


 扉の前に立つと、衛兵が槍を交差させて道を開ける。


 重い扉が押し開かれた。


 評議会の間にはすでに人が揃っていた。


 中央の高座には、アルヴェリア王国国王アルベール・フォン・アルヴェリア。


 その右に王太子ルドヴィク・フォン・アルヴェリア。


 そして、その隣に王太子妃エミリー・ド・ロシュフォール。


 私は足を止めない。


 視線を浴びながら、席へ向かう。


 王がこちらを見た。


「マルグリット・ド・ラヴァリエール侯爵令嬢、出席を認める」


「お招きいただき光栄です、陛下」


 椅子に座る。


 その瞬間、エミリーが鼻で笑った。


「婚約破棄された女まで呼ぶなんて、王宮もずいぶん暇ですのね」


 隣の席で誰かが息を呑む。


 王太子が慌てて言う。


「エミリー、黙りなさい」


「どうしてですの? 事実でしょう?」


 王の額に皺が寄った。


 宮廷会計官が立ち上がる。


 アルヴェリア王国宮廷会計官、ベルンハルト・ケラー。王家財務を三十年監査してきた男である。


「陛下、本日の議題を報告いたします」


「述べよ」


 会計官は書類の束を机に置いた。


 重い音が響く。


「王家財務から消失した資金、合計三百二十万リオン」


 ざわめきが広がった。


 エミリーが目を丸くする。


「そんな大げさな数字、嘘ですわ」


 会計官は動じない。


「宝石購入、衣装代、馬車、私的な贈答品、宴席費用。すべて王太子妃名義の支出です」


 王太子が立ち上がる。


「待て、それは王太子妃の生活費の範囲だ」


 会計官が静かに書類をめくる。


「王太子殿下、王太子妃の生活費は年間五十万リオンです」


 紙が一枚机に置かれる。


「こちらは宝石店の請求書、八十万リオン」


 さらに一枚。


「こちらはドレス仕立屋、六十万リオン」


 さらに一枚。


「こちらは王都馬車商会、四十万リオン」


 部屋が完全に静まった。


 エミリーが叫ぶ。


「王太子妃なんだから、それくらい当然でしょう!」


 王の声が落ちた。


「当然ではない」


 空気が凍る。


 王はゆっくりと手を組んだ。


「それだけではないはずだ」


 会計官が頷く。


「はい、陛下」


 彼は別の封筒を取り出した。


「こちらは書簡です」


 王太子の顔が強張る。


「誰の書簡だ」


「王太子妃エミリー・ド・ロシュフォールから、ある男へ送られたものです」


 封が切られ、紙が広げられる。


 会計官が読み上げる。


「――あなたに会えない夜は退屈です。あの人は私を宝石で飾ることしかできませんもの」


 エミリーの顔が真っ赤になった。


「それを読むな!」


 会計官は続ける。


「――子供のことも心配しないで。あの人は何も気づかないわ」


 王太子が机を叩いた。


「黙れ!」


 王の声が落ちた。


「続けよ」


 会計官は最後の書類を出す。


「医師の診断書です」


 紙が机に置かれる。


「王太子妃は妊娠しております」


 ざわめき。


 エミリーが勝ち誇った顔で王太子を見る。


「ほら見なさい、殿下の子ですわ」


 会計官が言った。


「ただし」


 静寂。


「妊娠の推定日と王太子殿下の不在期間が一致しています」


 部屋が完全に凍りついた。


 王太子が椅子に崩れる。


「そんな……」


 エミリーが叫ぶ。


「嘘よ! 全部嘘!」


 王が立ち上がった。


 王の影が床に長く伸びる。


「王太子妃エミリー・ド・ロシュフォール」


 声は低い。


「浪費、王家財務の乱用、そして不貞の疑い」


 王の視線が会議室を一周する。


「証拠は揃った」


 沈黙。


 そして王は言った。


「社交界からの永久追放を命じる」


 エミリーが叫ぶ。


「嫌よ!」


 衛兵が動く。


 その瞬間、王はさらに言った。


「王太子ルドヴィク・フォン・アルヴェリア」


 王太子が顔を上げる。


「十年間王国を支えてきた侯爵令嬢を捨て、この結果を招いた責任は重い」


 王の声が響く。


「王太子権限を停止する」


 ざわめきが爆発した。


 王太子が蒼白になる。


「父上……」


 王は答えない。


 衛兵がエミリーを連れて行く。


 叫び声が遠ざかる。


 評議会の間は静まり返った。


 その時、足音が聞こえた。


 振り向くと、扉の近くに一人の男が立っていた。


 隣国ヴァルトシュタイン公国の公爵、アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタイン。


 王が言う。


「公爵、入れ」


 公爵は一礼して歩いてくる。


 そして、私の隣に立った。


 王太子の視線がこちらへ向く。


 私は静かに扇を開いた。


 十年前と同じ王宮の部屋で、立場だけが変わっていた。



 王都の冬は、昼でも薄暗い。


 王宮から少し離れた通りに、小さなカフェがある。石壁の店で、窓は低く、外の通りを歩く人の足元ばかりが見える。


 私はそこで紅茶を飲んでいた。


 王宮評議会から一年が過ぎている。


 あの日、王太子妃エミリー・ド・ロシュフォールは社交界から追放された。叫び声を残したまま、衛兵に連れられて王宮を去った。


 王太子ルドヴィク・フォン・アルヴェリア殿下は、王太子の権限を停止されたままの生活を続けている。一切の公務から切り離され、社交界への出入りや手紙のやりとりも禁止されているという。


 そして私は、王都に戻ってきていた。


 理由は簡単だ。


 隣国ヴァルトシュタイン公国の公爵アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタインの仕事に付き添っているからだ。


 店の扉が開いた。


 冷たい空気が入り込む。


 振り向くと、見慣れた顔が立っていた。


 ルドヴィク・フォン・アルヴェリア。


 かつての王太子。


 彼は痩せていた。衣装は整っているのに、肩が落ち、目の下に影がある。


 彼は私を見ると、ゆっくり歩いてきた。


「マルグリット」


 名前を呼ばれるのは久しぶりだった。


 私は紅茶を一口飲んだ。


「お久しぶりです、殿下」


 彼は椅子に座る。


「殿下と呼ばれる資格が、まだあるのか分からない」


「王の息子である事実は変わりませんもの」


 彼は苦く笑った。


 少しの沈黙。


 通りを馬車が通る音が聞こえる。


 やがて彼は口を開いた。


「……やはり君が一番だった」


 私は扇を指で回した。


「突然ですわね」


「この一年、ずっと考えていた」


 彼はテーブルを見つめる。


「君を失ってから、何もかも崩れた」


 私は紅茶を置いた。


「殿下」


「聞いてくれ」


 彼は顔を上げた。


「もう一度やり直せないか」


 店の中の音が消えたように感じた。


 私は少しだけ微笑んだ。


「ええ、知っていますわ」


 彼は息を呑む。


 私は続けた。


「殿下がそう言う日が来るだろうと」


 彼の顔に希望が浮かぶ。


「なら――」


「でも、もう遅いのです」


 その瞬間、彼の表情が止まった。


 私はカップを持ち上げた。


「殿下は十年間、私の隣に立つ立場でした」


「……」


「それでも殿下は、別の方を選びました。そんな事も知らされないとは、お可哀想な立場ですのね」


 彼は言葉を探している。


 私は穏やかに続けた。


「捨てたものは戻らないのです」


 そのとき、私の肩に手が置かれた。


 温かく、落ち着いた手だった。


 振り向かなくても分かる。


 隣国ヴァルトシュタイン公国の公爵、アレクサンダー・フォン・ヴァルトシュタイン。


 彼は私の隣に立った。


 ルドヴィクの顔が白くなる。


「公爵……」


 アレクサンダーは静かに言う。


「久しいですね、殿下」


 彼は私の肩に置いた手をそのままにした。


 そして言った。


「私の妻と話をしているようでしたが、何か?」


 ルドヴィクが固まる。


「……妻?」


 私は立ち上がった。


 アレクサンダーの腕に手を添える。


「紹介が遅れましたわ」


 私は微笑んだ。


「私の夫です」


 店の窓から光が差し込む。


 ルドヴィクは椅子に座ったまま動かない。


 私は静かに言った。


「殿下が婚約破棄してくださったから、今の幸せがありますの」


 彼は何も言えない。


 ただ私たちを見ている。


 アレクサンダーが言った。


「行こう、マルグリット」


「ええ」


 私は彼の腕を取った。


 扉を開けると冬の空気が流れ込む。


 振り返らない。


 背後に残ったのは、紅茶の湯気と、椅子に座ったままの男だけだった。



完。

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― 新着の感想 ―
他所の種仕込んできた王太子妃って王家乗っ取りに案件だし一族連座で処刑レベルじゃない?
王子様は今や完全ニートで衣食住をきっちり保障された最高にウハウハな状態なんですね。面倒なことは一切やらなくていいし、身の回りのことは全部やってもらえて3食昼寝付き。控えめに言って最高ですね。
タイトルが「王位太子妃」になってるのはなぜですか?
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