未来シコウのチートデータガール 53
「ん? ――今の……? 何か変だ」
視界の端に移り込んだあの赤と黒の蝶。それを咄嗟に探す。ハジメが変と即座に判断する程の謎の気配。それはどう考えても錯覚めいて視界に移り込んだあの蝶に起因している筈だ。魔力めいたものを感じて同時に幻覚めいたものを見て、それが無関係などあり得ない話だ。
切れ長の瞳を大きく見開き、流れる様に部屋の全てを目視。一瞬の瞬きで視線は止まる。部屋に紛れ込んだ一匹の、禍々しい蝶。その存在は、実態を持たず、魔力のようなものを帯びて、しかし魔法でもないなにかで出来ていた。
「これって……」
やっと思い至り、ハジメは窓の外に身を乗り出す。そして――
窓の外。ホテルの外壁。そこには夥しいまでの黒い蝶が止まり、羽を閉じたり開いたりしていた。
静夜のように、恐ろしい夢にでも巻き込まれたのかと思った。外壁に群がる無数の蝶は、どれも不気味な魔力のようなものを身の内側に湛え、静かにそこにいる。まるでハジメに見つからないようにと息を潜めるかのように。
その息を潜める不気味な蝶の群れに注目した。この瞬間、蝶もハジメの存在に気付いたのである。一斉に羽が開かれ、僅かに微振動したそれらは、ハジメが一呼吸をする間に、ほろほろと灰が崩れる様にようにしてその姿を消した。ビルにしみ込むかのように、あるいは空気に揮発するようでもあった
この直後、涼しいとすら感じた風が吐息のように生暖かいものに変わる。
そして直後、これは猛烈な暴風となる。ハジメが思わず目を細める程の風である。
――何かが起こる。これから、手の施しようのない何かが起こる。
経験ではなく直感からこの直後に何かが起こってしまうと予感した。
この予感に従い、身構えてしまうが、そもそも何が起こると確信したのなら、この場から逃げるのが正しい。しかし戦闘経験や危機的状況に陥った事のないハジメはこれに対する反応が圧倒的に遅かった。
――不吉な暴風によって起きたその現象は、夜の闇にまぎれて、ほんの一瞬だけ見えにくかった。
それでも夜陰の向こうから巨大な影が、見る間に迫ってきている。
一秒未満。ハジメは影の輪郭を視認する。
眼前に迫るのは倒れてくる電波塔。気が付いた時には広くない部屋には逃げ場がなかった。
「――っ!」
絶句しながらも、頭も体も半自動的に動く。
ホプレス、メアヘルの三匹に目を向けると危機感なく、ハジメの事をのんきな様子で見つめてた。『ああもうっ』と思って彼らを回収しようとすると、三匹はハジメの初動よりも素早く反応し、その姿をシュンと消してしまった。ならば戻るだけの時間を浪費しなくて済むと切り替えてハジメは窓を目掛けて跳ぶ。
裸足で飛び出してしまうのはさすがに許容しよう。このままだと足どころではなく体全体が埃まみれだし、まだ自分の強度が解らないから死ぬかもしれない。このまま室内に残るのはさすがに論外だ。
前の世界なら絶対に死んでいる状況だし、思考が超加速されていても助からない物は助からなかった。ならば今は? と、この場面で試す気にもならない。するべきことはまずは脱出だ。
電線や、他の建物を巻き込んで倒れてくる鉄塔。その鳴り響く音は鉄の雄叫びのようで、耳を痛く責め立てる。窓枠を蹴ったハジメは宙に躍り出て、鉄骨の骨組み部分の間をアクロバティックにすり抜ける。
宙を舞いながら半身をひねって振り返れば、せっかく慣れてきたホテルは、叩きつけられる鉄塔によって瓦解し、縦に割れていた。
巻き込まれて千切れた電線は鞭のように撓ってハジメに襲い掛かるが、ぶつかる寸前で風の魔法で自身を包んで身を躱した。
まるで、全てがハジメを狙ったような事故に不気味な物を感じつつ、五階程の高さから難なく着地する。
あのままあの中に居ても、この身体能力と、魔力などからすると無傷であった可能性も高いかもしれない。のだが、それを試す勇気はなく、心を占めるのは嫌な予感であった。
「皆無事? 怪我したりしてないよね」
ハジメがそうつぶやけば、当たり前のように三匹がハジメの足元に現れ、体を擦り付けてくる。そしてヘルがハジメの裸足に気が付いたように足とハジメの顔を見比べる。小首をかしげる仕草が何ともかわいらしい。
ただ、ホテルが崩れた事との因果関係に気が付いた当たりでヘルの雰囲気が剣呑となり、それにつられるようにして、三匹は殺気立って周囲を警戒し始めた。
「君達は少し落ち着いて。他に泊まっていた人たちを助けに行かないとだし……ね?」
言葉が最後のほうでは尻すぼみ。ハジメの視界に映るのは、茫然自失とした様子で壊滅的に縦に割れたビルを見上げるバーコードスタイルの髪型をした、ホテル支配人のおじさんだった。
「あわ、あああ、えらいこっちゃ……」
風になびく髪。倒壊した建物内部の何かが爆発した事により、爆風が巻き起こる。髪の毛が逆立ち、髪型は乱れ、オレンジ色をした爆炎がつるりとした頭皮に反射する。
「ヤバくない?」
「嘘だろ荷物中だぜ……」
「警察――消防……とにかく――」
がやがやと、野次馬ではない人物たちが集まってくる。それは、拾い聞くかぎり、おそらくこのホテルの宿泊客たちである。こんな時間帯にみんな外に出ていたのか。いったいなぜかはわからないがそれは不幸中の幸いだ。
ならばご都合主義的にみんな無事で、おじさんわざとらしいまでの乱れ髪に苦笑いしたい。みんなが無事であると知って、気楽に愚痴を言うような感覚で凄い恐かったよと言ってしまいたい。ルームウェアで外に飛び出してしまい、スリッパをはいているこの姿にトホホとか言っていたい。
少し現実逃避気味になってしまうが、目の前の光景が否を突き付けてくる。
この規模のビルであるならば、もっとずっと客はいた筈だ。異世界人と現地人の区別はつかないという事なので、客の身分に制限はないのだ。なので格安の宿としてもこのホテルは人気だという。いったいどれだけの犠牲者が出た事か……。目をそらしたくなる状況だった。
それでもまだハジメには出来る事がある筈だと、救助に動こうとしたその瞬間、悲劇が続いた。鉄塔によってから竹割の様に真っ二つになったホテルが、大爆発を起こしたのである。
大慌てで宙に飛散した、これから降り注ぐ瓦礫の全てを魔法で受け止めて、野次馬達への二次被害を防ぐ。それでもやじ馬たちは悲鳴を上げ、暴動でも起きているのかという程に騒ぎ、将棋倒しになって倒れそうになる。これまたこれを防いで……畳みかける様に色々と被害が拡大しそうになり、これに対処するうちに一分ほど時間がかかってしまった。そうして、振り返れば何もかもが手遅れの崩落したホテルがそこにあった。
あの爆発前に生存者を助けられたのでないか。
他の誰かの大怪我を無視して失われる命を守りに行くべきだったのではないだろうか。だって、ハジメにはそれが出来た筈なのだ。
「ちがう。まだだ。まだ――」
――あった。見えてしまった。気付いてしまった。
妙に利く夜目が映像を捉えて。その気になれば個別の人間の臭いすら掻き分けられる嗅覚が、夜風にかき乱されて、炎上に焼かれる空気の中でも血の臭いを嗅ぎ付けてしまう。
すべてが浮き彫りに、つまびらかに。
動かない人間が、見えた。
胸から鉄骨が飛び出ている。
ハジメを見ている。
内臓が飛び出いる。
ハジメを見ている。
破けてさらにその中まで。
ハジメを見ている。
首が折れ曲がり、皮膚が裂けている。
ハジメを見ている。
首がころりと落ちて、ころころと。
ハジメを見ている。
どれもこれもが。
ハジメを見ていた。




