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五分前仮説のブランニューワールド  作者: 幾楽あくた


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死ぬよりマシなゾンビズ厶 3

「なにって……そりゃちょっとこの中に入ってみようかなってね」


 大きな優男だ。

 静夜の身長よりも頭二つは大きく、色素が薄い事に由来するブラウンの髪に、濃くしげる顎髭。

 暑いのかネクタイを随分緩めての開襟シャツ。覗く胸元は贅肉が全く感じられない筋肉の塊。だらしないように見える格好に反して非常に鍛え上げられていて、きっと人を殴れば簡単に殺害してしまうのだろう。そんな事を想起させる男だった。


「この中は立ち入り禁止だ。そこにも書いてあるだろう?」

「読んだ事があるみたいな言い草じゃねぇかい」

「……だったらなんだっていうのかな?」

「お前さんも、この中に入ろうと思っている。けど、俺がやってきたから隠れて様子を見ていた。違うかい?」


 違わないだろう。この周辺の住人が静夜に話しかけるとは思えないので、ここで声をかけてくるのは静夜と同じ部外者だ。そして部外者である事を考えれば、静夜に声をかける理由はそれしか考えられない。そもそも、静夜にはこの男に心当たりがある。


『――彼はね。おそらく鬼だ。鬼のように強くて鬼のように怖いという比喩じゃない。非常に珍しいタイプの鬼だ」


 大男で筋骨隆々。表面上には角がないが、それは鬼であるという。

 聞いていた情報よりも随分細いし、その顔は強面というよりも気の抜けた炭酸水の様であるが、どうしてもこの場面で声をかけてきたと言う時点で色眼鏡で見てしまう。つまり、話に聞いていた鬼であると。


 静夜が依頼を受けてダンジョンにやってきたように、他の誰かだってダンジョンにやってくる理由はある。その中で一番あり得る可能性はダンジョンの攻略を仕事とする組織である。ダンジョンからの物資を回収しようとする『冒険者ギルド』や、ダンジョンの謎を解明しようとしている『探索協会』などの組織がダンジョン攻略の世界では有名である。が、あの男――ファン・ズームォの話ではこのビルがダンジョンに変質した事は公表されていない。


 ならばそう言った大手の組織は関わっていない筈だ。情報は掴んでいたとしても、公共のダンジョンではない六反園ビルにわざわざ入る理由はない。

 考えられるのは静夜と同じような、誰かの依頼を受けて一般公開されていないダンジョンに用事がある一部の人間だけとなる。


「おいおい、隠れて見ているなんていうのは言いがかりだ。管理しているビルに不審者がきたら、離れるだろ? 危険だったら巻き込まれたくない」

「だったら話しかけるのぁおかしいだろ? 騒ぎにしたくなくて、隠れてみたは良いけど自分が入ろうとしているビルに手ぇ出し始めたんで慌てたんだ。壊されちまったらたまったもんじゃなぇねってな」

「……壊そうとしたことは認めたな。ガラスを割って侵入しようとするのは、どう考えても止めるべき話だ」

「いやぁ、鍵は持ってんだけどよ、ちょいと縁起が悪いんで使いたくなかったんだよな、鍵はよ」


 適当に話しているつもりがどうやら交戦寸前になっている気がしてきている。目の前の男が暴れる雰囲気は今の所ないが、二人の間に流れるのは険呑な雰囲気だった。


 それに問題があるかと言えば、実は特に困る訳でもなく、一触即発何とするものぞという心構えでいるのだが。


「中に入るのは何の為だ?」

「ちょっとばかり欲しいもんがあるだよ」

「つまりコソ泥か……。未遂なら見逃してやるから帰るんだな」


 男には自分が強者である自覚があるのだろう。それはそうだ。その筋肉で荒事に自信がないなど言ったら嘘になる。不審者を追い払う警備員さながら強い態度ではあるが、実のところ静夜は物足りない。いきなり殴りかかってくるかとすら思っていたのに、存外、話し合いが成立しているからだ。


「なんで同じコソ泥のお前さんに見逃されなきゃならねぇんだよ」

「……話の通じない奴は帰れ」


 面倒臭そうな顔をして、犬でも追い払うように掌を振る男。

 なにがなんでも追い返したいらしい。


「お前さんが入ろうとして、俺は帰される。話の通じない無茶を言ってんのはどっちだい?」


 とりあえずは軽く煽ってみて、反応を窺うことにする。話し合いはおそらく平行線をたどる事になるのだから、それ以外の糸口を見つけるのが手っ取り早い。

 すると男は一瞬黙るが、機嫌の悪そうな溜息をつき、言い含める様な口調で問いかけてきた。


「お前はここが何なのか分かっているのか?」

「なにって、そりゃ……」

「白紙社の所有物件だ。素人が勝手に入れば命の危険があるんだぞ」

「……なんでぇ。そんなこたぁ知っているよ」


 そう言いつつも、静夜の表情の方が変わる。知ってはいたが言われると不愉快になる。せっかく気にしない様にしていたのに、嫌な事を蒸し返されたと、その意味での不快の表情である。


「知っているか。なら猶更だ。私有地に無断で入るな」

「……お前さんはいいのかい?」

「俺は白紙社から依頼されてここに来たからな。お前の様な、不審人物を見かけたら追い払ってくれと言われている」

「だったら尚更隠れていた意味が解んねぇよ」


 不審者扱いは仕方がない。指をさされても仕方がない。なぜならまさに不審者だからだ。この街に巣食う化け物にも不審者扱いされる、折り紙付きの不審者である。


 まぁ、それはさておきである。だからと言っていちゃもんをつけない訳ではないのだ。


「ま、それを信じたとしてだ。けどよぉ、白紙社にゃ管理なんかできやしねぇよ。知ってるかい? あいつ等ぁ弄繰り回してポイ捨てする以外にゃ脳がねぇ、現状悪化を任せたら一等賞だ。白紙社に管理なんかできゃしねぇよ」

「ここの管理は俺がするんだからたぶん問題ない。それに白紙社は手に入れる為には金を惜しまない」

「お前さんを雇う位にはかい?」

「そうだ。だから管理するんだ」


 確かに、白紙社の資本は殆ど無尽蔵だ。必要とあらば、必要な分だけの金を用意するだろう。


 呪物の専門商社『白紙社』は、その資金と取り扱い商品の数、どちらも日本において最大手である。その白紙社が、必要だと判断し、金を払ったのが目の前の男なのである。


「正義の為とか面白い事言わなれなくてよかったよ」

「正義が儲かるならそっちを選ぶさ。さて、ここは私有地だ。当然立ち入る事も許さんよ。蹴りを入れてた事は見逃してやるから。さっさと帰れ。ほら行った行った」


 この男は随分お人好しだ。まずは理由を踏まえて説得を試みている。すでに静夜が半分戦闘態勢に入っているにも関わらず、聞き分けのない人間に対して根気強い忠告を繰り返している。ここまでされて荒事になったら、きっと誰が見ても静夜が悪者になるだろう。


 もっとも、静夜は悪者扱いされても気にしないし、相手が白紙社に関わる人間というだけで喧嘩腰になる理由は整っているのだが。


「だけどよ、その私有地の中にゃ、子供が入っているようだぜ?」

「……馬鹿な事をいうな」

「いや言うぜ? 間違いなくいた。あれが人かどうかは知らねぇがね」

「……下らない話だ」

「嘘だと思うかい? 白紙社が手に入れたのにゃ理由あって、その理由と子供が関係ないかい?」


 お人好しだという推測が、正しければこれで揺さぶれる。そんな言葉を選んだつもりだった。


「まいった……嘘は言ってなさそうだな。いや、だがそれとお前は無関係だろ。愈々邪魔だ。俺が大人しくしている内に帰れ」

「嫌だつってるだろうがこのすっとこどっこい」

「……侵入者とやらがいるかを確認しなければならんのだが」

「奇遇だな。俺もだ」


 この会話を境に、ようやく男の雰囲気も険呑となる。沈黙が流れ、暑い日差しが早く事を起こせと急かすようにジリジリ照らす。


 達磨たちがどこか固唾を飲んで見守るような、そんなシュールな間があった。

 男の、深いため息が蝉の声を掻き分けて静夜にも聞こえた。


「邪魔になりそうな奴は暴力を行使してでも排除しろと依頼されているんだ……。痛くても悪く思うなよ」


 男の様子が変わる。相手の殺気や危険性など、そう言ったものにかなり鈍い静夜が察するほどの変貌だった。

 まずは表情だ。ともすればおっとりとしたとも表現できそうだった目付きは別物の様に険しくなり、目付きも酷く鋭い物となった。

 その険しさに追いつくように顔や手や首に胸元、そこかしこに血管が浮き出たと思えば、その血管に追従する様に肉が盛り上がる。いったいどこからの肉が補填されているのかという程にパンプアップしていき、その身長に似合う程の肉付きに変貌していく。最早ワイシャツなどはちきれんばかりの状態だ。


「生憎喧嘩を吹っ掛けたなぁ俺なんでな。逆恨みなんざしやしねぇよ」

「最後だ。この姿を見てもまだ喧嘩を売るなんて馬鹿な真似はやめて、今すぐ帰れ」

「相手の見た目で喧嘩売らねぇような馬鹿に見えるかい?」

「……ただで済むと思うなよ。俺は――鬼だからな」


 男の険しい表情に更なる変化が起きる。両眉尻の上辺りの肉が盛り上がり、そこに小さな裂け目が出来たかと思うと、割れ目を掻き分ける様にして、円錐上の、乳白色の骨の塊が五センチ程突き出した。角である。優男がこの強面の男に角が生えると、まさに鬼と言った様相で、平時なら尻尾を巻いて逃げたくなっていただろう。

 

「弱い者いじめになるのは解っている。こうなったら手加減したつもりでもそうはいかない」

「角があるからって偉そうにするんじゃねぇよ。角が偉いなら牛にも鹿にも頭が上がりゃしねぇって」 


 などと言い返しながら、なるほど、角が生えると強くなるのかと理解する。鬼の生態に一つ詳しくなったと嬉しくもない事を思った。興奮すると角が生えて暴力が強くなる。そう考えるともしかしたら犬の尻尾かセンシティブな物なのではないだろうかと、思想団体がきいたら発狂しそうな事が思考に過ったその時、鬼が動いた。


 とんでもなく早く踏み込み、屈んだ様に見えて、そしてどういう体裁きをすれば――マリオット盲点に潜り込むような動きができるというのだ!


 その体躯の全てが見えなくなる事は無いが、捻り上げられる拳が静夜の視界からは消えている。気がつけばもう目の前。反応が僅か一瞬遅れただけでその隙はでかい。静夜の懐に入り込んだ鬼は静夜の鳩尾を抉る様に殴りつけた。


 その威力の常識はずれな事。静夜の体がくの字に折れて、足が浮く。一瞬の意識のブラックアウト。

 目を見開きながらも、反撃の為に鬼の顔からは視線は切らない。静夜の意識を確認した鬼は、吃驚したかのような顔を見せて拳を引く。

 それを逃したくない静夜の右手は開かれて、鬼の服を掴もうと延ばされて、そしてそれを振り払われて今度は後頭部を狙った手刀が見事に入る。


 再びのブラックアウト。


 気持ちよさすら感じる意識の混濁に、このまま意識を手放したくなるが、静夜がこのまま気絶してしまうのは、ありえない現象の筈だった。


 静夜は地面に倒れ込む。手を前にする事すら叶わずに顔からアスファルトに落ちた。


 そして鬼はため息を吐く。


「だからこうなると言ったんだぞ」


 実質一方的に叩きのめしたのだ。そのため息交じりの言葉は単なる驕りではない。


「しかし何なんだコイツは……」


 驚きなのか呆れなのか、静夜の耳に鬼の独り言が入る。


「……まったく。幸先が悪い」


 どうやら鬼はスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけ始めたようだ。あれだけの騒ぎを起こしたのに、周囲は息を潜めているかのように静かであり、呼び出しの電子音が静夜にも聞こえてきていた。


「六反園の担当を請け負った古御堂だ。着いた早々先客がいたぞ……ああ寝てもらった……それは構わないんだけど敵が多すぎやしないか? どこに行っても必ず誰かがいる状況だぞ。いくらなんでも――」


 会話の内容が手に取る様にわかる。業務報告とちょっとした文句を言って、あしらわれて、仕事を続行しろと言われたのだろう。そして、周囲の音が不気味な程に静かだから、はっきりと聞こえる部分まである。


「……それとだな。既にビルの中に誰かが侵入した可能性があるんだが」

「ではそれも排除してください。それでは」

「待て、話は終わっていないぞ……ああ全く」

「おうおう。話しの途中で電話を一方的に切る様な会社の仕事なんて辞めちまえよ」

「そうも……い、か……なん?」


 すでに通話が切られたスマートホンに気を取られていたのか、それとも静夜が起き上がってくることなど全くの想定外だったのか、今度は鬼の反応が大いに遅れる。


 腹の痛さや、後頭部の違和感は、最早ない。鬼の手加減なのかもしれないが、そもそも静夜の体質も関係している。

 それゆえ十全に体は動かせる。


 鬼が再び静夜を殴る挙動にでるが、流石にここまでのアドバンテージを覆される程、静夜は薄ノロではない。拳が振りかざされた時には既に左のジャブが鬼の鼻っ面に、一瞬怯んだ瞬間には右フック。立て続けに回し蹴りを脇腹へ、片足立ちのまま更に足を高く上げて顎を狙って右足を振り抜く。

 すべてが会心の動きだったと自画自賛できる程に体のキレが良く、自分でも目を見開いてしまうが結果鬼は巨躯を浮かせて仰向けに倒れた。


「こりゃどういうこったい?」


 もしかしたら、カンフーの才能でもあったのか? 自分のありもしない才能を夢想して笑ってしまう。自分の体の動きが良かった事に違和感を覚えつつも、良かった事に疑問を持って悩む暇はなさそうである。

 

「……何がどういう事だって? 聞きたいのはこっちの方だって」


 声がして、鬼が跳ねる様に立ち上がった。


「ああ……おっかねぇ」


 先ほど興奮で大きくなると推察した鬼の角は更に太く、鋭く伸びている。余裕からの感嘆ではなく、本当に恐ろしくて言葉が漏れた。子供のころ、激怒した親を目の当たりにした時と同じくらいには恐怖を感じている。


「気絶させた筈だったんだけどな。いったいどういう原理でお前は起きているんだ?」

「当たり所がよかったんじゃねぇの?」


 軽口を叩いて構えようとしたが、迎撃の態勢を取りきる前に鬼の巨大な拳が眼前に迫っている。今度は来ることだけは理解していたから身を捩って躱すが、かすり傷一つが頬に出来て、そして掠っただけだというのにその衝撃は頭を揺らして苦痛である。


 だから、どうして、掠るだけで――次々と繰り出される拳をどうにか避け続ける訳だが、時折皮膚に触れた拳、或いは足は静夜の体に響いてその都度ダメージが蓄積されていく。

 そしてついに再びの直撃は静夜の左顎を斜めに突き上げるアッパーカットだった。


「だがこれで終わりだ」

「その台詞――」


 あいつが好きそうだな。ありがてぇぜ。言葉にはならなかったが静夜の意識は保たれている。脳震盪を起こさせるならおあつらえ向きの角度だったのに、頭がおかしくなりそうな痛みと痺れを感じるのみ、あのブラックアウトは襲ってこなかった。


 故に、静夜の掌は掴む。鬼の張り詰めたワイシャツの袖を。振りはらわれようと、頭を潰されようと放す気はない。


「よくもまぁ、やってくれたもんだ」


 喧嘩を売ったのは自分である。が、そんなのは関係ないと言わんばかりに静夜は袖を握る手に力をこめ、鬼と自分の体をぐいっと引き寄せる。


 鬼の体格は静夜よりも遥かに大きく、故に殆ど静夜が自分から近づく形になるが、関係ない。

 上体を大きく、弓なりに反らした静夜と、鬼の目が合う。

 驚愕しているのだろうか、見開かれた鬼の目。凄絶に笑う静夜。


 そして体全体のバネを利用して、引き寄せる手の力も、振りかぶられる首の力も何もかもを乗せた頭突きは、鬼の鼻っ面に突き刺さる。

 さらに追い打ち、再び同じ動きをしようとして、しかし今度は鬼が顔を下げたせいで角度が悪く、角に額が掠めて静夜の額が割れて血が吹きだす。


 構う物か。


 鼻だろうが、角だろうが、静夜は怖気づかない。たとえ打ち出す自分の方がダメージを受けていてもやる事はやけくその様な頭突きだ。


「いい加減に――しろ!」


 鬼の怒声が響く。振り払おうと凄まじい腕力で腕を振りほどく動作をされた結果、掴んでいた服の袖が破けてしまって強制的に静夜の攻撃のリズムが止まる。

 鼻血塗れの顔を袖で拭い、鬼は再び静夜に向かい合うが、もうこれ以上まともにやりあっても勝てる気がしない静夜である。

 だから――少しズルをさせてもらおうか。 


 ――その刃物は、いつの間に現れたのか静夜の右手に握られていた。


 刃渡り三十センチの鍔の無い、それどころか柄もない剥き身の刃。刃毀れが酷く、切れ味は最悪そうに見える。握る部分さえ刃であり、すなわちただ折れた日本刀の刃を握りしめているのと同じなのだが、それこそが正しい持ち方だと言わんばかりに様になる。

 その雰囲気は真夏にあって冷気の様な妖気を放ち、むき身のそれがあるだけで周囲の温度は下がる。


「それは……何処から出したんだ?」


 鬼が怪訝そうに尋ねる。刃物に驚いたというよりは、手品の様に現れた事に驚いているのだろう。


「さてねぇ捨てても勝手に戻ってくるもんで、実は俺も良く解んねぇんだわ」


 ふざけているようで、実は本音である。どこか遠くに置き去りにしていても、来いと願い、今なら体を好きに使わせてやると思えば、いつの間にか手の中に現れる。


 封印の札を貼った壺にしまおうが、呪物専門の金庫にしまおうが、お構いなしにやってくる。

 なんなら願わなくても退屈するといつの間にやら視界の範囲内に現れている。

 相手にしなければどうにか暴れる手段を探し始める人斬り刃だ。

 正真正銘の厄物である。


 それだけの厄がある刃に何かを感じ取ったのか、警戒し、不用意に動けない鬼。その動けない時間が一秒でも長ければ、それがそれだけ仇となる。


「そんでな? もう準備万端だぜ?」


 明瞭とした声音が静夜の口から洩れる。


「なんだと?」


 手には刃。

 握られている部分すら刃物なのだから、つまりは強く握れば肉は切れて破れ、血は流れ出て、刃を伝う。

 しかし、血はその先端からは殆ど滴らず、その大半は刃に沁み込んでいっていた。

 それを見てしまったのか鬼は息を呑む。


 同時に、静夜を取り巻く空気が変わり、目の前の鬼にまで届く冷たいぬるま湯の様な雰囲気。

 静夜の額や口から流れ出た血の全てが、瞬く間に黒ずみ、それどころか離れた位置にいる鬼に染みついた血痕までが禍々しい妖気を発っする。

 鬼の耳には、今世の中を呪うような呻きの幻聴が鳴り響き、道路の上の血、身体に付着した黒い血の中には呪を持った疑似生物が生まれ、蠢動し始める。


 これは、静夜に憑りつく怨霊の内の一体が、やがて乗っ取る体に危害が及んだ事への復讐と制裁である。

 そう、乗っ取るつもりなのだ。静夜の周りに存在する異常な量の精神生命体は、この理想的な素体を求めて憑りついている。そしてその中でもある程度強力な存在が、こうして静夜の体を守ったり、逆に殺しにかかったりしてくるのだ。


 今回は、血に強いこだわりがある悪魔が、静夜に危害を加える相手――鬼に制裁を加えようとしてこのような現象が起きた訳である。

 現実とは思えなく、思いたくないほどの不気味な光景だった。


 静夜の血は悪魔に愛されている。それはとりもなおさず呪われていると言っても過言ではない。今は静夜を守ろうとするこの悪魔の性質も、まるで病のように、静夜が弱まれば静夜自身に牙を向く。いつか静夜が弱まった所を、乗っ取ってやろうと言う魂胆なのだ。


 それはともかく、その呪いが今、静夜の半乾きの血を媒介として鬼に襲い掛かっている。

 鬼が見たものが本物でも、幻覚であっても、絶句して振り払おうとする事に違いはない。

 その瞬間は当然、禍々しい血とは別に禍々しいドスからは意識が離れてしまう。怨嗟の声を上げるドスが静夜の体を引き摺り、瞬く間に鬼との距離を詰める。


「お前はいったい――」


 鬼の声が擦れる。

 静夜の体は踊らされる様に動く。


「――何なんだ!?」


 鬼の反応速度を超えて眼前に静夜の顔が迫る。それでもなんとか迎撃しようとする鬼の手は、体中にこびりついた静夜の返り血から生えた赤黒い悪魔の手が絡み阻害する。


 傷ついた額を再び回し蹴り、先ほどとは比べ物にならない速度と重さで鬼を吹き飛ばし、ビルの壁に追い込む。それでもまだどうにか動こうとする鬼との距離は、瞬く間に縮まり、叩きつける様に手が振り下ろされる。その手には血を滴らせない刃。鬼の瞳に映り込んで通り過ぎ――深々と鬼の顔の隣、六反園ビルの壁に突き刺さった。


「……こっから先はぶっ殺す以外道がねぇが、まだやるかい?」


 静夜の拳には血が付いている。まるでビルそのものが出血したかのように見えるが、それは当然刃を骨まで食い込ませた静夜の手から流れ落ちている物だ。


「いや……やめておこう」


 鬼の頬は引き攣る。化物を見るような目で。


 薄皮一枚だけが切れてそこから一滴の血も流れていないが、わずかな間があってから徐々にかすり傷は深く広がり、あたかも刃物がそこを通り過ぎたかのような傷が刻まれる。流れ出る僅かな血に静夜は違和感を感じざるを得ないが、聞きたい事は他にもいくらでもある。


「いや良かった。俺も暴力は嫌いなんだよ。そんじゃとりあえず、今はそこに入るのは辞めるからよ」


 声が打って変わって明るくなり、そうすれば静夜を中心とした不吉な物たちも姿を消す。

 乾き始めた血がぱらぱらと落ちる。あらゆる傷が塞ぎきって綺麗になった顔で静夜は鬼の男の顔を覗き込んで歯を見せて笑った。


「なぁ、ちょっと話そうぜ。うまい飯屋、探すからよ?」

「……なんだって?」

「飯食おうぜ」

 


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