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五分前仮説のブランニューワールド  作者: 幾楽あくた


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未来シコウのチートデータガール 5

 弓代静夜は嘆いた。必ず、かの邪知暴虐の建築王、黄子墨(ファン・ズームォ)に一言文句を言わなければならないと決意した。

 なにが九龍大迷宮の近くの土地だ。近くも何も、そのものではないか!


 タァン!


 と、グラスがカウンターに投げやり気味に置かれる。置いたのは当然静夜である。

 醤油顔の若い店主が迷惑そうに眉を顰める。グラスが割れる事を憂慮したのか、カウンターに傷がつくことを気にしたのか。


 大丈夫だ。金ならきちんと万札を何枚も用意してきている。それでも足りなかったら電子決済だが、時々意味不明に電源が切れるからその時は許してくれ。


「弓代さん。いつもよりペース速いですね」

「痛飲したい日ってのぁあるだろ? 誰にでもそんな日があるからお前さんの懐が潤うんだ」

「僕は良いですけどね。でも病院行くために二日酔いになるってのはどうなんです?」

「あん? ……ああ。もう医者にゃ行ってきた後だよ」


 あの後、静夜は目の前が真っ暗になるような気分になりながらもなんとかタクシーを拾った。向かう先は二択であったが、まずは話だけでも聞こうと八龍建設の本社ビルへと向かった。


 エントランスで待ち構えてたクールビューティな秘書は、静夜にきつい目付きを向けながらもすぐにズームォへと取り次いでくれた。


 そこで聞かされた話しで、静夜は飲まずにいられなくなったのだった。


「僕が言うのもなんですけど。ペースおさえないとまた変な人と意気投合しちゃいますよ」

「それが原因で今日は飲みてぇんだよ」


 一度はきちんと内覧だってしたのだ。理想的な倉庫、とまではいかないが、今のボロアパートを全室借り切っている現状に比べれば十分な広さと、安全性が認められたし、近くにはコンビニもスーパーもあり、飲み屋だって飲食店だってあった。


 赤字だと嘆きこそしたが、あの時だって古御堂に指輪を譲った事も、白紙社から更に恨まれた事も、何とか採算に合うと思っていたのだ。


 ところが蓋を開けてみればどうだ。

 内覧した倉庫は何者かによって火を放たれて焼け落ちたという。まだ自分の物になっていないからそれはズームォの損になるのだが、このままいけば静夜は報酬となる物が失われた状態となる。既にアパートの契約を切ってしまった静夜は大量の呪物をどこに保管する事も出来ずに宿なしになる事になる。そうなっては赤字どころの騒ぎではない。アパートの大家はやっとアパートを更地に出来ると喜んでいたのだから、出戻り交渉は間違いなく難航するだろう。


 頭を抱える静夜に向かって、ズームォは笑顔を崩さなかった。


『こんな事もあろうかとっ! もっといい物件を用意していたんだよ。この間紹介した物よりずっといい条件さ』


 などと高らかに宣ったのだ。


 静夜は追い詰めれた心理状態のままに、今より良い条件になるならそれで良いと頷いた。

 そしてにっこにこ顔のズームォ自らの案内で紹介されたのが、九龍大迷宮の真上にある大九龍城。違法建築群の一階層のとある一角。迷路の様に入り組んだ先の大倉庫だった。


 なるほど条件は良い。確かに良い。

 だがダンジョンの近くというのはダンジョンの中という意味にはならない筈だ。

 不満に思う理由は色々あるが、一言で言ってしまえば大九龍城に根を張っては静夜はズームォに首根っこを掴まれた状態になるのが不満の全てだった。


「なぁマスターよぉ」

「はい?」

「こんな事もあろうかとって言葉ぁどんな時に使うよ」

「知りませんよ。僕そんな言葉使いませんもん」

「俺も人生で一回は使ってみたいもんだ」


 ままならないばかりが人生だ。

 そうなるとしか思っていない時、準備万端に整えても、そうはならないのが世の中だ。

 その準備万端が無駄にならないのは、果たして偶然なのか必然なのか。

 

「弓代さんたまに良く解らない人生の目標を掲げますよね。僕にはないなー。そんな目標」

「……小さな夢なら叶えやすいってこの前テレビで言っていたぜ」

「あー。自己肯定感って奴ですね」

「大事だよな。自己肯定感」

「僕、結構ありますよ。それ」

「そりゃいいこった。羨ましいったらねぇよ」

 

 マスターが離れていく。洗った白い皿の水滴を布巾でふき取りつつ、壁に掛けられたテレビを眺めてぼうっとし始める。どうやらもう静夜の相手はしてくれないようだ。

 くだを巻く相手もいなくなり、静夜は静かにグラスを傾ける。


 大九龍城の事を考える。

 神奈川の海沿いの大都市に作られた巨大建造物が変質したダンジョンだ。

 聞いた話だと地下に掘られた大穴がダンジョンとなり、地上部はダンジョンのセーフエリアとなっているという。


 そのセーフティエリアにはズームォ達八龍建設が建てた超高層違法建築が雲間を超えて聳え立つ。

 本来なら交通の便が良いようにと、大通りがその下を碁盤の目のように通されていた。だがダンジョンと化したその日を境にアスファルトの道は変質して蜘蛛の巣上に張り巡らされたという。


 そして蜘蛛の巣にゴミがまとわりつくかのように、無数の建物が唐突に生えた。


 中華料理屋を主体として和洋中の飲食店、スーパーマーケットやデパートにコンビニ、ブティックやファストファッション、各種病院と言ったものは言うに及ばず、占い小屋や違法な武器商人、用途のしれない薬屋など、この世に存在するあらゆる店が最低一軒ずつは現れたと考えられている。


 人間一人しか通れない隙間の奥に進めば何かしらの店がある。本来技術的に作れないような建築物が、犇めき合っているのが、大九龍城の最下層――城下町なのだ。九龍城がダンジョンに変質した結果に伴い、そのような形に形成されたというのが、ダンジョン研究者の共通見解だ。


 ダンジョンが土地に現れればこのように地形など一瞬で変化するというのだから驚きだ。


 しかし、真に驚くべきことは、このすべての店屋には戸籍のない人間が商売をしているという事だ。

 この人間が何者か。調査の最中に不幸な事故があり、死者が出た事で判明するのだが、彼らはすべてモンスターであった。

 調査の結果、殺害することも可能であり、内臓は人間とは異なる、心臓部か脳にあたる部分に魔石の生成が確認された。


 しかも遺体回収後にも該当人物がいた店に向かうと、そこには同じ顔をした人物が何食わぬ顔で商売をしていたという。調査員の交代は余儀なくされたが、店員は調査前と変わらずに人間に対して友好的であり、店の商品を過不足なく販売してくれるという。


 ダンジョン内でまれにみられる『行商人』と同等の存在であると結論付けられたため、ダンジョンに少し詳しい人間たちは敵対せずに利用しようという意見を述べている。

 そうすれば彼らは良き隣人であり、考えようによっては誠実な商売をしてくれるインフラなのだと。


 ウェブニュースで呼んだ程度の知識はここまでだ。

 そして、静夜からしたら全部含めてこう思う。


『どんなところだろうがダンジョンだろうが』


 じゃぁ物騒だ。

 気が進まない。

 そんな気が進まない静夜に譲渡されたのは、店員がいる店舗ではなく、人間が居住し、商売する事も出来るマンションと雑居ビル群が入り混じる部分に生じたレンガ造りの倉庫であった。


 曰く、ここなら火事の心配もないよ。である。なめているとしか言いようがない。


「いらっしゃいませー」


 ドアが開けられベルの音がして、気の抜けたマスターの声がする。静夜は振り返らず、コップの水滴を指で滑らせる。


 ドアが閉まる。滑り込むように雷鳴が轟く。

 天気予報は大外れで昼下がりごろから雨がやまない。暇なメディアはこぞって今この瞬間の大雨の特集を組んでいる。静夜も空に幻想種と呼ばれる空飛ぶ鯨やイルカ、魚の群れを見た時には天変地異の前触れかと思いつつもその光景に心を奪われそうだったが、急転直下の豪雨に見舞われ、逃げ込むようにここにやってきたのだ。

 あのままあそこにいたら、静夜は途方に暮れたまま空っぽの倉庫の中で雨宿りだったのだろうか? 


『――突然の大雨に、観光名所では……』


 ナレーションと共にテレビに写されるのは雨にけぶる大九龍城の薄暗くも幻想的な映像だった。

 違う、そこはダンジョンに成り果てた違法建築群だ。

 観光名所なんかじゃないし、しちゃならない。

 否定したかったが、そうと認識されてしまうのはあながち理解できない物でもないのがまた考え物だ。


 大九龍城の表通りは人通りが多い。なんなら安全にダンジョン内の名物モンスターと会話ができるという醍醐味まである。もはや完全に観光地だ。

 もっとも、道は狭くて案内人が必要になってきているし、雑多すぎて目印になる物なく迷子になりやすい。その上どうやら早速あくどい人間がモンスター店員のふりをして違法な物を売るような事をし始めているようだ。その内、縄張り争いに発展する事だろう。


 そんな新興の土地の、静夜の倉庫は、驚くべきことに庭があり、日当たりもいい。大九龍城の下層立地であるならば本当にズームォは良い条件の物件を融通してくれようとしているのが伝わってくる。だが、明るく、清潔で、庭のある倉庫など非常に目立つ。気軽に迷子がやってきて目印にする事だろう。

 こちらは大量の、厄災ともいえる、呪物と化したマジックアイテムを保管しているというのに。


 否応なしに呪物、呪いに関わってきた静夜は知っている。呪物は所持をしようがしまいが関係ない。一目見ただけでも呪われる時は呪われる。近くを通ったそれだけで呪物に憑りつかれる事だってある。個人に被害がとどまるのではなく家族にまで類が及ぶ物や、家族ではなく一族郎党に及ぶ物、村に及ぶ物などが、呪物にはある。それ故静夜はプロの封印師に依頼してアパートを呪術的に堅牢にしてきた。


 建物の素材的には管理に向いてはいなかったが、ボロアパートだったのが幸していた。人がわざわざ立ち寄ろうとは思わないし、見学しようとも当然思わないだろう。人よけに気を使わなくともそもそも人が来ないので、呪いの漏洩に余計な気を使わなくてよかった。


 だが新しく手に入る予定の倉庫は少し開けた土地があり、日当たり良好、蔦が繁茂し欅が生い茂る。黒味の強い煉瓦造りは木漏れ日に良く映える。


 間違いなく人気の撮影スポットになるだろう。というか、代品として用意されたという倉庫を確認しに行ったそのタイミングで、キラキラした女子が二名ほど写真を撮っていたのだ。既に撮影スポットになっている。

 入居後にうっかり一般人が立ち入ろうものなら心霊写真がよく取れる事だろう。インチキか本物か、区別できない霊能者がそれっぽい事を言うのが目に浮かぶ。


 しかし建物は気にいってしまった。同県の東京大煉瓦倉庫街もかくやという瀟洒なデザイン性であり、周囲の雑多なビルディングとは一線を画しながら、どういう訳か浮いていなく、違和感がない。むしろ調和がとれているとすらいえる。曰く他のビルが蒸気配管に包まれていて、倉庫は太い蔦に包まれているから。だとか。どういう意味かは静夜には分かたなかったが。


 そこまでを含めて考えてみると、経緯や意図はどうあれ、もしかしたらズームォが最大限に気を利かせて最高の報酬を用意してくれたのかもしれない。好意的に見すぎかもしれないが、あの男ならそうであっても納得はする。

 だとしたら……非常に大きなお世話になる。せめて、もっと治安が悪くて、呪われて死んでいっても罪悪感を抱かないような奴らしか立ち寄らないような場所だったらよかったのに。なんて思う訳である。


「ジェントルマンズショコラお願い」


 ちらり。静夜は二つ隣の席にやってきた美女に視線を向ける。随分強い酒を頼むものだ。名前が可愛いからか、それとも酒に強いのか。でもその程度。


 静夜は氷がだいぶ溶けたグラスを傾ける。

 思考は美女から住居へもどる。


 倉庫は絶対に必要だ。ボロアパートを改造したような施設では必ずパンクする。既に限界は目前であり、あと一年もすれば呪いはあふれてしまう事になるだろう。

 そもそもマジックアイテム、マジックアクセサリー、そして呪物を集めなければこんな事にはならない訳で、悩む事もないのだが当然そうもいかない。


 これがなければ静夜は自我と生活を保つのが困難になるのだ。


 マジックアイテムを集めるのは自我を保つための手段であり、呪物集めは仕事である。

 他人からの呪いを引き受けるというのは、善意でも出来るが商売にもなる。金を払える相手からは払ってもらう事に越したことはない。これがあるから静夜の生活は平均以上の水準を保てている。


 幸い、呪物に関しては異世界の精神体と混ざったものと、ワンダフルワールドが作った規格外呪物以外は静夜をどんなに呪っても実害を感じない。客から受け取って、わざと雑に扱い自分に呪いを向けさせてお終い。何もしなくとも問題ない。料金は相手の足元を見て一万円から数千万まで、うまい仕事を見つけた物だと自画自賛すらする。


 最大にして唯一の問題は呪物を別に祓う訳ではないので、これを粗大ごみに出すわけにはいかないという事だ。不法投棄などしようものなら捨てた山そのものが祟りに変わるかもしれない。静夜は本物の心霊スポットを作りたい訳ではない。


 結果静夜の住まいは静夜だけには効果のない呪物であふれかえると言う事態になっていた。


 そんな訳で、倉庫を丸々借りて住居にするというのは、こじゃれたブルックリンの美大生たちの真似事ではなく、静夜の念願であった。

 あの日、小太りメガネの不機嫌男に言われた通りに静夜は不健全に生きている。


「考えてみたら呪いを集めるって訳わかんねぇよなぁ……そりゃ自殺志願って言われるわ」


 酔いはちょうどよく、ほろ酔い加減の独り言。

 今日、静夜が飲み続けているのはウィスキーを、粉々に砕いた氷でキンキンに冷やしたものだ。


 この間はこれを飲んでいたら優男に声を掛けられ、意気投合し、最後には名刺を渡された。その名もズームォであった。せめて美女だったらよかったのだが、美女はズームォの愛人の様な秘書であり、静夜の鼻の下は伸びる余地もなかった。恋人は作らないし、結婚もしない。けれども静夜も異性との会話は楽しいし、背中に憑りついている異世界の精神体を怖がらない相手なら一晩位は遊びたい。


 金ならあるから楽しくいこうぜ。

 そう言いたくなる日だってある。

 それは例えば今日である。


 本当の不満は、今後も八龍建設のおひざ元に組み込まれざるを得ない状況になった事による。

 呪いの漏洩が恐ろしくて保管場所を求めていた訳だが、それがダンジョン内の倉庫ならば殆ど心配する必要がなくなる。ダンジョンの不懐性は、概念的な物でも適応される。


 万が一、静夜の管理から呪物が漏れた時、ダンジョンであるならば呪物の汚染が軽減される。なにせ静夜の身体と同じように理屈不明の不壊滅性がダンジョンには適応されているのだ。放射能汚染であろうとも一晩で除去されるとされているダンジョンは、呪物の管理にだって理想的である。大怨霊の呪いであっても大九龍城の外には漏れず、精々呪いが自我を持ってダンジョン内のモンスターとなるだけの話である。世界と静夜が匙を投げた呪いの数々も実態をもつモンスターになるならば、一獲千金を夢見て人外の力を手に入れた探索者と冒険者によって討伐さる事だろう。


 それらの要素から考えると、勝手に静夜の倉庫に人が侵入するような事さえなければ、死人が出る可能性は限りなく低く出来る。


 そんな、人様に迷惑を掛けないで呪物の管理ができる倉庫なのだ。つまり、ズームォが用意した、あの倉庫の権利は手放せない。


 だから八龍建設からは逃げられない。思考の堂々巡りからも脱せていなかった。


「どうしたんです? 難しい顔をしちゃって」


 この間はこんなタイミングで優男に声を掛けられた。その名もファン・ズームォ。肩書は社長だが殆どヤクザの親玉である。そして今回は、オレンジブラウンの髪の美女が声をかけてきた。さっきまで、二つ隣の席に座っていたあの美女である。前回と違ってテンションが上がってしまったのは仕方がない事だ。

 ロングヘアはサラサラで、静夜の顔を覗き込んでくると涼し気に垂れる。花の様な香りがするのは香水だけではなさそうだ。


 こんな顔だ。異性から気に入られるのには慣れている。慣れてはいるのだが、こんな独特な雰囲気を持つ美女が積極的に話しかけてくるのは少し珍しい。

 自然な仕草で隣の席に移った彼女を流し目で見て、とりあえずちょっとは会話をしてみる事にする。


「……人間関係で苦労しててね。お姉さんはこんな顔になるこたぁあるかい?」

「ふふ。変な顔。さっきまでそんな顔してなかったじゃない」

「変な顔って言われたのぁ初めてだ。じゃあ、どんな顔していたんだい。さっきまでの俺ァ」

「んー。こーんな顔」


 彼女は面白そうに笑ってから、自らの柳眉に人差し指を当てて皺を寄せる。


「綺麗なお姉さんがそんな顔しちゃいけねぇよ」

「綺麗なお兄さんにそんな事言われたら私恥ずかしくなっちゃうわ」


 言って笑う彼女に静夜も笑いを返す。


「私、東雲コハクっていうの」

「コハクさんね。俺ァ弓代静夜だ」


 静夜はスケベ心を隠したような顔で、でも隠せずに色気のある顔で自己紹介をする。

 少しぐらい、役得があってもいいじゃないか。それが恋になる事はないけれど、隣で酒を共にしてくれる美女というのは得難い物だ。

 こうして趣味や住んでいる場所の話など、基本的には場当たり的なその場しのぎの会話が繰り広げられていき――。


「――みんな私の事をキノコみたいだっていうのよ。ちょっと意味不明よね」

「キノコ? どの辺りがだい?」


 男女二人で飲んでいるのにキノコの話が始まる方が意味不明だが、酒に酔った二人ならそんなものもありだろうと思う事にする。


「皆に食べて欲しそうな、美味しそうな見た目をしていてね」

「美味そうね。そこは解るな」

「で、食べた後、食べた事も忘れた頃に酷い目に合う事もあるって。食べて欲しそうで、食べたら美味しくて、後からとっても重たいの」

「そりゃ、警告かい?」

「私自身は軽いつもりなんだけどね。今だってとっても軽いつもりよ?」


 覗き見る様に、少しはにかむオレンジブラウンの美女。

 静夜は柄にもなく一瞬の停止を経て生唾を飲む。

 誤魔化す様なぎこちなさでウィスキーを煽る。


「人によってはそんな事を言うって、それだけの話。話題の提供ってね。ほら、私の髪のオレンジ色でしょ? 危ないキノコにそういうのもあるのよ」

「まぁ、毒キノコは旨いっていうしなぁ」

「あはっ、食べてみた物好きな人はそう言うのかも」


 夜は更ける。アルコールはよく回る。舌は滑るし、いつも以上に何かが楽しい。


 会話はキノコを終えて、彼女の生い立ちを過ぎて、恋にはオキシトシンが関わるとかなんとかの話しも終わり、静夜が最後に異性と関わった日の事へ。つまり深い話になり、一瞬だけのボディタッチにどぎまぎする。こんなにドキドキする事なんて、いつもの静夜ならあり得ない事である。


 不思議な事だと内省して、自制心という下らない物が心の中で存在感を見せかけた所で、コハクが手首の腕時計をちらり。


「あ、残念だわ。そろそろ行かないと」

「あー。駅かい?」

「ええ。電車の時間が来ちゃうから」

「終電に間に合うように返す男ァ間抜けだとァ思うけどよ。きちんと送るぜ? 駅まででもこの辺はそんなに治安が良くねぇんだ」

「そんなことを言って送り狼だったりとかしないかしら?」

「……次に合う事があったら、狼かもな」

「あはっ。案外奥手なのね。でも、うん。そういう人は嫌いじゃないかもしれないわ」

「わりぃな。実は恥ずかしがり屋なんだ」

「でも、送ってはくれるのよね」

「そこぁ。もちろん」


 呆れた様な草食系の店主を呼んで会計を済ませるとコハクと一緒に外に出た。

 まだ雨が降っていた。けれども傘を差すか少し迷う程の小雨になり、雨の匂いをふんだんに含んだ風は真夏に涼しさを感じさせる心地よさを覚えさせた。


 コハクは傘を差さない。静夜は傘を掲げる。少し、彼女よりに。

 そういえば、この酒場に来る頻度も今後は減る事になるだろうから、挨拶をしようと思っていたのだ。そんな事を思い、肩越しに背後を気にする。閉じた扉に気を取られた時、静夜の足はもつれて転んでしまう。それを支えてくれるのはコハクなのだが、どうも様子が変である。

 

「え、弓代さん? きゃっ!」


 か弱い女の力では、立つ事が出来なくなった男性を抱き起こす事は難しい。細い手の支えは静夜の身体が押しのけてしまう。

 派手に転んで、傘は手から落ち、濡れたアスファルトの上の濡れた砂利を掌と頬に感じる。


「大丈夫? えっと、立てるかしら?」

「あ……? がぁ……」


 ただの酔いじゃ味わった事のない酩酊感。近くの声が遠くに聞こえて、起き上がる事よりも、地面に体を押し付ける事の方がずっと楽で、むしろアスファルトに沈んでいきたくなるほどの前後不覚が静夜を襲う。


「あー。そっか……タクシー呼んでくるわね」


 その声の意味を反芻して、理解して、有耶無耶になって、思い出して。

 タクシーを呼ぶほどの前後不覚? 世界の修復力によって並大抵の事では直ぐに健康体に戻ってしまうのに?

 二日酔いになろうものなら本当に医者に相談するかもしれない静夜が、倒れて、アスファルトが温くて気持ちよい状態に?


「楽しみにしていたんだけど……また、お会い出来たらうれしいな」


 ――きっともう二度と会わないだろうけれど。そんな副音声が聞こえた気がした。

 コッ、コツッと、足音は遠ざかる。背後のドアの向こうでは安い酒で盛り上がった酔漢たちが笑い声をあげている。


 間抜けをさらしたスケベな静夜は誰にも気付かれない。


 きっとコハクは戻ってこない。

 タクシーは来ないし、恐ろしい酩酊感は耳の奥で世界をぐるぐる回す。

 そうして静夜は気を失う。


 正体不明の猛毒が、胃の中から全身へ。

 体に回った毒で死の直前。死ぬ事が許されない仕組みの身体が回復し、意識が戻る。


 鼻血が垂れて、口の中は胃酸と血液で酷い味覚の不快感。

 胃の中の毒物は未だに残っていて、再び吸収されて酩酊感と苦痛が訪れる。

 繰り返される蘇生と死が静夜を起き上がらせない。


 取り込まれた傍から無力化してもまだ静夜の身体を苛み続ける。まるで、本日摂取して胃の中にたまっているアルコールの全てが毒素に変わってしまったかのようである。


 胃の中、腸の中、全てが吸収されるまで、弓代静夜は生と死の狭間を文字通り彷徨い続けたのだった。 


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