死ぬよりマシなゾンビズム 2
季節は夏。
薄手の七分袖を着た静夜は袖で額の汗を拭って、少し狭い路地を歩く。右手にはスマートフォン。画面は地図アプリ。駅からはもう二十分ほどは歩いただろう。
平日の昼間だからとか、そういうのは関係なく人通りは少なく、そして生活の音もまばらなシャッター通り。たまにすれ違う草臥れたシャツの中年女性や、皺の目立つスーツを着たサラリーマンは、静夜をちらりと見ている気がしてならない。視線も気配も殺気も、どれもこれもに鈍い静夜ではあるが、それでも見られている気がするのだから見られているのだろう。
この、意識があるのに機械的な顔。半年前に訪れたあの村に似ている。全村人が他人を監視しあい、ささいなルール違反に制裁を加えていたあの苛烈な村を。
……嫌な事を想起させられて静夜の機は滅入る。
気が滅入ったからにはそこは切り替えるべきだ。あの、今はもうない村の事を考えるのは辞める事にして、そう、あの村の村人たちと雰囲気が似ているのだ。つまり、生気のない不気味な連中がこの一帯にいるという事だ。と、そう思うと思考はループして結局鬱々とした気分になる訳だが。
相変わらず達磨はふわりふわり。
また静夜の脇を通り抜ける、目の下に隈があるケバイ化粧の女。おや、この女は静夜を見ないな。涙の跡も見て取れるくらいに泣き腫らしているようなので、別の意味で気になるが、泣いている女を全て気に声をかける訳にもいかない。どうかその悲しみが軽くなりますようにと軽く思って先に進めば、地図アプリが目的地周辺を告げる。
辿り着いた静夜は小さな廃ビルを見上げる。
地図アプリには『六反園ソリューションズ』とあり、それは数年前に業績不振で倒産した会社名であった。間違いなく、ここが静夜がやってきた一つ目の目的地。六反園ソリューションズ跡地である。
風雨に曝され薄汚れた窓。強い日差しに照らされてカゲロウめいた熱気を放つひび割れた外壁。光の反射で見えにくいガラス張りの扉の向こうに見えるのは仄暗い通路と、居るはずのない人間たちの幻視。
このビルの中で酷使された人間のかつての記憶。
倒産したその日まで、社員たち全員が苛烈に働き続けたという、強烈な逸話の登場人物達の、在りし日の姿。
それがモンスターと化してビルの中で徘徊しているのだ。
死んでもおかしくないし、自死をしても疑問を抱かないような、月間百五十時間におよぶ超過労働。信じられない程の低賃金と、人格否定の日々。その実態が外部に漏れた結果、この会社は信用を失い客足が遠のいた。良くある話であり、珍しくもないのかもしれない。しかし、六反園ソリューションズのそれは、その他事例と異なる点がある。
誰も過労を訴えなかったという点、職場の定着率が百パーセントであったという点。誰一人逃げ出さず、誰一人倒れず、機械の様に仕事に取り組んでいたという。まさに、笑顔の絶えない明るい職場であったという話だ。
文句を言わず、金が掛からず、病気にかからず、必死に仕事をしてくれるという経営者目線の社員が多かった。そう揶揄されたのを聞いた時には、艱難辛苦には一家言ある静夜と言えども失笑したものだ。
目の前の、寂れたビルにはそういう背景があるのだ。
こうして真っ青な空を背景に、ただ見上げるだけだったら何も感じないのだけれど、そういう、曰くを聞かされて静夜はここにやってきたのである。
見上げながら、飛行機雲を視界の左端に置き、このビルの曰くと、ここに来た目的を少しだけ脳裏に過らせる。
『六反園ビルは弊社の手から離れた後、紆余曲折を経て今、人間の魂を保管する迷宮――つまりはダンジョンとなっています。死ぬ筈の人間がその中では生かされていて、そして意識を無理矢理動かされているようです。こんなものが公になった日には、さすがに我が社にも批判が集まる事でしょう。それは避けたいのです』
だから何とかしておくれ。と、今日にいたるまでダンジョンに潜った事すらない静夜が呼び出された。
『街に存在するかもしれない何かに目をつけられても、弓代さんなら生き残れる。バッドステータスなら、ワンダフルワールドに気に入られた貴方ならどうにかなる』
美丈夫の口から静夜が選ばれた理由が告げられて、
『ダンジョンコアを壊すか盗み出していただければ、ビルの方はワタシ共で処理します。くれぐれも、化け物と――危険な男に注意してください』
このビル――ダンジョンと化した六反園ビルを無力化してくれと、断れない状況で依頼されたのだ。
もっとも、断るつもりもなかったのだが。
報酬は破格であり、仕事の一部には静夜が探し求めている物があるかもしれなくて、何より『死んだ後の人間を弄ぶ』ような話を静夜が見逃す訳がない。
気がつけば視界の右隅にまで伸びた飛行機雲。
達磨がふわふわと飛んでいるのに影はなく、だから静夜を照らす光も遮らない。
暑さと眩さに眉根を寄せて、気持ちはビルの中へと向かう。
静夜が見たのが残留思念はもう見えない。目を凝らしても見えないし、南無阿弥陀仏と唱えても見えはしない。見えないならいないのと同じだ。さっきまでそこにいたのだとしても、そんなに簡単に見えなくなるのなら大して強くもないだろう。
そんなことを思いながら、静夜は踏み出す。
事前情報は曖昧、下準備なし、ダンジョン攻略未経験――つまり、ヤクザの家に遊びに行くのとそう違いはないだろう。静夜は何となくそう思い、ならば度胸一つであとはどうにでもなると判断した。
近くに寄って改めて見たガラス戸は、取っ手の部分に鎖が巻き付けられていて、なにやら札の様な何枚も括りつけられている。ガラスには黄ばんだコピー用紙が張られていて、立ち入り禁止とかかれていた。
立ち入り禁止だろうが、お札で封印されていようが、静夜はそれは無視して、光を遮る様に掌で影を作ってガラスの向こうを覗き込んだ。
そこには幽霊の姿、あるいは残留思念の姿はない。ないのだが、違う物はそこにいた。
「手だぁ?」
思わず声を上げた。見たこのも聞いた事もない、気持ちが悪いことこの上ない、そんなものがあった。
手首から先と、小指が欠損した掌が這っている。一つ。うぞうぞと。注視すれば壁と天井にも一つ二つ。蠢いて。その動きは蜘蛛に似ているが、掌が捕食する様な餌はいないため、無目的にさまようかの様だ。
「手か。そうだよな。なるほど。手になるよなぁ。手なら、まぁ納得っちゃ納得だ」
一人納得するために呟きが続く。
「……手ぇ一つ見かけたら百は居るっていうしなぁ」
そんな格言はないのだが、げんなりしながら独り言ちる。だからと言って引き返す意思もない。静夜は鎖が巻き付けられた取っ手を握り、無造作に開けようとする。
当然鍵がかかっている訳で、空く気配はない。ガタガタと音を大きく鳴らしてみると、掌の指がこちらに向く。どうやら指先が正面のようである。
もう少し音で反応をうかがうのもいいが、とりあえずは中に入ってみてから考えたい。
預かってきたマスターキーを取り出す。それを使うかを少し戸惑うのは、獲物を狙う動物の様に掌の注目が集まっている事に気が付いたからだ。一匹や二匹などではない。光の届きにくいそこに、百では利かない数の群がいたのだ。
無言で、鍵を鎖に近づけると比例する様に多くの掌が反応し、いかにも臨戦態勢という様子を見せる。そう簡単にこの群れの餌食になってしまうとは思わないが、鍵を遠ざけると警戒を解いて、向きを変えて自分たちが落ち着く暗がりに沈んでいくのだ。どうしても鍵を差し込むのに尻込みしてしまう。
少し考えを変えて、鍵を使わずに中に入る事が出来れば、あの掌に襲われることなく進むことができるのではないだろうかと思い至る。
物は試しであると、鍵をポケットに戻すと目に見えて掌の反応が鈍くなる。鋭敏に動くハエトリグモが、緩慢な動作の毒蜘蛛に変わったかのような変化だった。確認をした静夜は鍵を使わず中に入る手段を考える。考えると言うか、それなら行動はガラス戸の破壊以外は思いつかなかった。
キョロキョロと探せばビルの端の部分に素焼きの植木鉢があり、その中には乾いた土と枯れ枝が入っていた。重さも硬さも申し分ないと判断し、縁を掴んで全力で振りかぶった。
重さも硬さも、おそらくはガラス一枚破壊するのには十分な威力が出ていただろう。だが、鉢植えが砕けた後、ガラスには傷一つ付いていなかった。
土がこびり付いたガラスは汚れはしたがそれ以外は何もなかったかのようであるし、目を凝らしてみた限り中にも反応がない。おそらく、衝撃どころか音すら、ビルの中には伝わっていないのだろう。
ならばと静夜は嘆息一つ。体全体をひねる様にして勢いをつけ、ガラス戸に向けて全力の後ろ回し蹴りを打ち放つ。靴の底がガラス戸を強か叩き、振動させるがこれもやはり傷一つ付かない。静夜が非力というのが理由ではないだろう。大の大人が、怪我をする可能性すら厭わずに振るった暴力であるからには、割れるまではいかなくても、せめて手応え位は感じたかったのだが、どうもある程度以上の衝撃は全て、未知なる原理で無効化されている様な気配がしている。
なるほど、ダンジョンを構築する物質は壊せないというのはこういう事らしい。
やはり鍵しかないか。ポケットにしまった鍵を取り出そうとしたその時、静夜の動きが止まる。
「ん?」
視界の端、目尻のかすかな所に女の子がいたように見えた。くすんだ白髪で緋色の目をした、小学校低学年生程の少女。襤褸切れの様なものと赤い紐か何かで体を縛っているかの様な見た目……?
……一瞬しか見えなかったのにやけに明瞭に女の子を認識した事に違和感を感じ、そもそもその女の子がビルのガラスの向こうにいた事に気が付き、二度見をするように顔を上げて凝視しようとして、しかしそこで静夜はそれどころではなくなった。
「なぁ、アンタ。今何をやっていたんだ?」
声を掛けられた。その声には敵意のような険しさが感じられて、やってきた見上げる程の高身長の男は今にも静夜の胸倉をつかみ上げそうな雰囲気をはらんでいた。




