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私の嫁ぎ先は豚侯爵

作者: 北条新九郎
掲載日:2026/02/07

「豚侯爵……」


 彼を前に王女はそうぼやいた。



 嘗ては絶対的な権力を誇ったルーヴェルッツェ王家も、今ではその威勢に陰りが見え、貴族たちの支持なしでは王国を保てなくなっていた。


 そのため、王家の王女たちはそれらを繋ぎ止めるために、貴族たちに嫁ぐ運命にあったのだ。


 その一人、アリシア・ルーヴェルッツェはバレン侯爵家の若き当主ローギュストに嫁ぐことになる。


 そして侯爵家の館で彼と初対面をした彼女は、それを前に僅かに眉間を歪ませてしまった。


「ようこそ、アリシア王女。今日からここが貴女の家だ。くつろがれるといい」


 笑みをもって歓迎を示すローギュスト。立ちっぱなしの王女相手に椅子に座ったままという礼を失した態度であったが、アリシアのかんさわったのはそれが理由ではない。


 彼の外見だ。


 ローギュストはとてつもない肥満だったのである。腹は樽のように膨れ、両頬には二つの饅頭。付き過ぎた肉で目が細く見える。自分で立つこともままならないかもしれない。率直に言って豚だった。


「お世話になります、侯爵」


 無表情のまま軽く頭を下げるアリシア。その心の内にあるは苛立ちと嫌悪、そして落胆であった。


 彼女は庶子である。母は王室に仕える侍女で、国王のたった一度のお手つきでアリシアを身篭った。ただ、国王にとってこういうことは多々あるので、特に赤子が女子となれば興味を抱くことはない。更に母は出産後、王室に出入りする行商人と恋仲になり、城から辞去。王家の血を引くアリシアは王室に残していかなくてはならず、彼女は両親の愛を知らないまま乳母や家庭教師に義務的に育てられたのだ。


 王女ではあるものの、何十人といる庶子の一人に過ぎず、しかも母は平民。その立場は弱く、猫の額ほどの領地すら与えられない身だった。


 誰にも興味を抱かれることのない存在。政略結婚という役目しか与えられない、ただの道具だったのだ。


 そして、良い思い出も悪い思い出もない王城という鳥籠を出られて、やっと自分の人生を歩めると思っていた。


 しかし、そのパートナーが……こんな……。


 まぁ、庶子に相応しい相手か――。


 彼女はそう自分を慰めるしかなかった。


 それに、些細なことだとも思い直した。


 王室の道具として侯爵夫人となった。ならば、その立場をたっぷり甘受するのは、彼女の権利であろう。




 それからの二人の結婚生活は、案の定冷めたものだった。


 昼間、街に出たアリシアが煌びやかな衣服や宝石、装飾具などを買い漁ったり、或いは芝居を鑑賞したりしている一方、ローギュストはあの体型のため外出はせず、事務仕事や読書に時間を費やす。夜になっても、二人はそれぞれの部屋で思い思いに過ごしていた。当然、寝床も別である。


 顔を合わせるのは、専ら三度の食事の時だけ。ただ、その僅かな時ですらアリシアには苦痛だった。


 そして、この日の夕食もそうだった。


 食堂の長テーブルの上に並べられる豪勢な料理の数々。味も申し分なし。ただ、それでもアリシアはフォークが進まなかった。対面の様を見せられていては。


 目の前の料理を頬張るローギュスト。貴族なだけあって食べ方に汚らしさはないのだが、休まず延々と食する姿はアリシアに気を滅入らせる。しかも、次々と出てくるお代わりも変わらぬペースで平らげていくので、見ているこっちがお腹が一杯になってしまった。


 ローギュストも彼女の手が動いていないことに気づく。


「アリシア、食が進んでいないようだが?」


「申し訳ありません。あまり体調が優れなくて……」


「それは良くない。部屋で休まれよ」


「お先に失礼させて頂きます」


 ただ、今しばらく我慢をしていれば、そのうち食事も別々になることだろう。




 自室に戻ったアリシアは、ソファに深く腰を下ろすと軽く溜め息を吐いた。


 悪くない結婚生活である。普段は好きに振舞えるし、好きな物を買うことが出来る。身体を重ねる必要もないのだ。食事の件も許容出来る。


 ……但し、あの場から離れた途端、お腹が元の調子に戻ってしまうのは難点だった。小腹が空くと、無理にでも食べておけば良かったと小さな後悔をしてしまう。


「何かあったかしら?」


 アリシアがそう食べ物を探そうとした時だった。


 部屋の外からノックと共に声が聞こえてくる。


「義姉上、エリオットです」


「っ! 今空けます」


 彼女がいそいそと扉を開ければ、そこに立っていたのは偉丈夫の美男子。


 名はエリオット。ローギュストの弟である。


「体調が優れないと聞きました。でも、何も召し上がらないのも身体に毒でしょうから、消化に良い物をお持ち

しました」


 そう言って彼が差し出したのは、桃や苺などフルーツの盛り合わせ。正に、アリシアが求めていたそのものだ。


「まぁ、お気遣いありがとうございます」


 自然とこぼれたローギュストには見せない本心からの笑み。


 エリオットはいつもそうだ。自分が望むこと、自分が望む物を必ず施してくれる。彼は誰よりも自分のことを理解してくれていた。


 そんな彼ともっと分かり合いたい。そんな欲望に導かれるように、アリシアはエリオットを部屋の中に招くのであった。


 彼をソファに座らせ、自らの手で紅茶を淹れてもてなす。


「エリオット、貴方の気遣いのお陰でここでの生活にも慣れてきました。本当に感謝しています」


「それは良かった。王女にご不満があっては、我が侯爵家の名折れですから」


「もう王女とは呼ばないで。私もこの家の一員です。そうだ、何かお礼をさせて下さい」


「お礼だなんて。義弟として当然のことをしたまで」


「貴方がいてくれるからこそです。是非……」


「……」


 少し渋い顔で考えるエリオット。互いの立場に配慮しているのか。


 それでも、結局は笑みをもって返答してくれる。


「なら明日、演劇でも観に行きませんか? 将来妻を迎えるにあたってデートの予行練習をしておきたくって」


「喜んで」


 愛のない結婚で、恋を見つける。


 アリシアはやっと自分の人生を見出せた気がした。




 翌日、二人は約束通りデートに出掛けた。


 道中の馬車の中では歓談が止まず、劇場ではにこやかに演劇を鑑賞する。その後は侯爵家御用達の料亭にて美食を堪能した。いつもの醜い食いぶりを見なくて済んだからか、アリシアはよく食が進んだ。だからか、エリオットはこんなことを言ってしまう。


「今日は体調が宜しいようで」


「え? あ、やだ。恥ずかしい……」


「いえ、お口に合ったようで僕も嬉しいです」


 恥ずかしそうに俯く彼女を、彼は笑って受け入れてくれた。


 お陰でアリシアも気を張ることを忘れてしまい、失礼ながらもこんなことを口走ってしまう。


「けれど、貴方とローギュストは兄弟とは思えないほど正反対ですね。社交的で私を気遣ってくれる貴方に対し、あの人は内向的で独りでいることを好む。貴方の趣味は乗馬と狩りだけど、彼は部屋に篭って読書ばかり。それに体型も……。全部、真逆」


 その言葉にエリオットは一瞬真顔になったが、あくまで一瞬だけ。すぐに笑みを思い出した。


「きっと半分だけ血が同じだからでしょう」


「そうだったんですか。私も多くの腹違いの兄弟がいますが、交流らしいものはほとんどなくて……。住む屋敷すら違ったので、ほとんど他人のような感じでした」


「けれど、兄弟というのはやはり特別な存在だと思いますよ。私も兄を尊敬しています」


「エリオットは優しいのですね」


 彼の言葉はその慈悲深さからきたもの。その時はアリシアはそう思っていた。


「義姉上、今度、遠乗りでもどうですか?」


「乗馬をお教え下さるの?」


「手取り足取りね」


 そう答えるエリオットの笑みを、アリシアもまた笑みで受け止める。


 本心を通わせる二人だけの時間。


 この時、彼女はこの関係がいつまでも続くと信じていた。


 いや、願っていた。


 その後のエリオットと仲睦まじく帰宅する姿を、屋敷の窓からローギュストに見られているとも知らずに。




 ある日、アリシアはローギュストに呼び出された。食事以外で顔を合わせるのは珍しいことなので、彼女は少し緊張しながらその書斎に赴く。勿論、緊張の理由はエリオットとの関係だ。アリシアは彼との睦ましさを隠し通せていると思っていた。


 一方、そこで待っていたのはいつも通りの温和なローギュスト。間食のクッキーを食べていた彼の対面に座ると、平静を装って問う。


「どうしたの? ローギュスト。何か改まって……」


「いや、最近は食事の時しか顔を合わさないし、ろくな会話もしていなかったからね。たまには夫婦らしい時間をと思ったんだ」


「そう。それじゃ、お仕事の方はどう? お金を扱う業務というのは大変なものなのでしょう?」


 バレン侯爵家は領地経営の他に金貸しを生業にしており、多くの貴族や商人相手に資金を融通していた。ローギュストにはその方面の才能があったのである。


「順調だよ。今年は麦が不作らしくて、いくつかの貴族から土地を担保に借り入れの申し出があった」


「それは良うございます」


「我が家が儲かるときは、他家の不幸なときさ」


 ローギュストの皮肉を加えた返しに、アリシアは僅かに癇に障ってしまった。だが、彼は構わずこう続ける。


「僕の父親は欲深くてね。貸した金に莫大な利子をつけて必ず回収する男だった。窮策きゅうさくとして頭を下げてきた貧乏貴族たちからも容赦なくむしり取り、ある家は平民に没落、ある家は娘を売り飛ばし、ある家は一家心中をした。それでも、あの人は取り立ての手を緩めることはなかったんだ」


「……」


「毎晩毎晩、金の勘定ばかりして家族のことは二の次。本当に金が好きだったんだろうね。……いや、金を稼ぐことが好きだったのか。やがて激務が祟ったのか、僕に莫大な遺産を残して亡くなってしまったよ。その後、跡を継いだ僕は父とは反対に債務者への取立てを緩め、猶予を与えるようになった。お陰で彼らからは聖人のように扱われ、その評判から取引相手も増えて、事業は大繁盛。……皮肉だよね」


「……お母様は?」


「母は可哀想な人だった。彼女は父が貸し付けた貴族の娘でね。まぁ、返済代わりに父に嫁がされたんだ。美しい人だったけど、父もそれだけが目当て。二人の間に愛情はなかった。新婚当初から冷めた夫婦関係だったよ」


 その言葉にアリシアは胸を引き締められる想いをしてしまった。自分の両親に似ていると。そして、正に自分たちのことだと……。


「父はよく母に当たっていてね。だから、母は別の男と密通するようになって……。そんな両親を見ていたから、僕もストレスを感じていた。そして、食べることに逃げ場を見出し……今ではこの有様さ。二人が亡くなった今も食べることを止められないでいる」


 それが彼が豚である理由……。そんなことを聞かされれば彼女の卑下する心は消え、代わりに同情が生まれてしまう。


 ローギュストもまた自分と同じく愛情に飢えていたのだ。


「辛かったでしょうね」


「僕のことより母の方が気の毒だった」


 それでも母をかばうので、同情心は敬愛へと変わりそうになる。


 だが、それも次の彼の言葉で恐怖へと変わった。


「ところで、最近はエリオットといることが多いようだね」


「えっ……」


「よくしてもらっているかい?」


「……」


 アリシアは即答出来なかった。部屋に篭りっきりの彼にバレるとは思っていなかったのだ。


 ……いや、バレてはいないはず。彼女はそう自分に言い聞かせると、小さな小さな深呼吸をして焦りを隠しながら答える。


「ええ、ここの生活に慣れていない私に気遣って声を掛けてもらっています」


「それならいいんだ」


 ローギュストはそれを素直に受け入れたようだった。


 彼は悪漢ではない。寧ろ、褒められるべき人だろう。そんなローギュストを裏切るなど、世の道理が許さない。


 けれど、それでも彼女はエリオットのことも忘れられなかった。


 迷いに迷うアリシアの心。


 それはまるで当惑の泥沼の中に沈んでいくようであった。




「如何しました?」


「え?」


 エリオットの言葉でアリシアは気を取り戻した。


 この日、二人は乗馬をしに屋敷からほど近い小丘に出掛けていた。


 二人で一頭の馬に乗り、前に跨るアリシアを後ろのエリオットの腕が優しく挟み込んでくれている。それなのに、彼女はついローギュストのことを考えてしまっていた。


「いえ、すみません。緊張してしまって」


「仕方ありません。初めての乗馬ですからね」


 丘を行く毛並みも体格も良い乗用馬。ただ、その足並みは常歩だったが、アリシアが思っている以上に上下に揺れ、彼女の身体をふらつかせてくる。それでも、すぐ後ろのエリオットの大きな身体が彼女の背もたれになって支えてくれていた。


 彼とこれほど接するのは初めて。


 その胸板は、思っていた通りのたくましくも温もりのある心地の良い感触。


 そして……、


「義姉上」


「はい? ……えっ?」


 彼の腕がアリシアの身体を抱き締めると、その感触は雄の激しい求愛となった。


 突然のことに言葉を失う人妻。


 それに対し、義弟は抱えていた想いを吐き出す。


「すみません。このままでいさせて下さい」


「エリオット……」


「いけないこととは分かっています。けれど、耐え難かったのです。貴女を目の前にしながら、何もしないでいるのが……」


「……」


 初めて味わう抱擁。


 想いを寄せていた男に抱き締められたのだから心は躍るはず。……なのに、彼女はどこか心地が悪く感じてしまった。


 違うのだ。


 彼からは望んでいた愛とは違う、何か別のものを感じられたのだ。


 愛はある。


 けれど、恋ではない。


 もし、それを言葉にするとしたら……悲哀?


 空は晴天。されど、それとは裏腹にアリシアの心はどんどん曇っていくのであった。




 何を迷う必要があるのか。自分はこれまで愛を知らずに生きてきた。なら、それを求める権利はあるはず。



 けれど、それが道理に反する行いでも……?



 いや、自分はその道理に反した仕打ちのために、愛を得られなかったのだ。ならば、自分がそれをしたって誰がとがめよう……。



 悪い行いを受けたから己も悪い行いをしていい。そんなことで、求めている本当の愛を得られるというの?



 では、どうしたらいいの?



 彼女は決して答えを見出せない自問自答を繰り返すだけであった。



「アリシア?」


「っ!」


 ローギュストの言葉でアリシアは気を取り戻した。


 食堂での夕食中。彼女はここでもつい当惑の泥沼の中に沈んでいた。


「今日も気分が悪いのか?」


「いえ、ちょっと疲れていただけです。初めて馬に乗りましたので」


「ああ、エリオットに乗馬を習っていたんだったな。すまないな。そういうことは夫が指南すべきなんだろうが、僕自身まだ乗ったことがない。この体型だからな」


「お気になさらずに。貴方もいずれ乗れるようになりますよ」


「ハハハ、そんな日が来るといいな」


 一聞すると嫌味に聞こえる言葉にも、彼は笑って受け入れる。


 醜いのは外見だけで、心は清い。それ故に見切りをつけられない。裏切ることが出来ない。


 自分が幸せになるには……。


 幸せとは何か……。


 今のアリシアには分からなかった。




 夕食後、自室に戻ったアリシアは窓際で黄昏たそがれていた。


 星も出ていない夜空を眺め、窓から僅かに感じられる冷気で身体を冷やす。一度冷静になりたかったのだ。けれど、そんなことでリセットされるはずもなく、結局深い溜め息を吐くばかり。


 気付けのために洗面器の水で顔を洗おうともしたが、その水面に映ったのは迷いが篭った瞳……。とても、落ち着けそうになかった。


 すると、部屋の扉がノックされる。


 エリオットだ。今、最も会いたくない相手……。


 それでも、アリシアは動揺を悟られないために彼を部屋の中に招くのであった。


「どうしたのです?」


「いや、義姉上が何か思いつめたような様子だったので、心配になって……」


「大丈夫、何でもないわ。お茶でも淹れるわね」


 相変わらずの優しさに、彼女は安堵を覚える。自分だけがおかしくなっているのなら、いくらでも修正出来るだろう。


 しかし……、


「っ!」


 突然、抱き締められた!


 お茶を淹れに行こうアリシアが振り向いた時、後ろからエリオットに抱かれたのだ。


 馬上の時以上に力強く決して離さないとばかりに。


 そして、そのままベッドに押し倒された。


 彼女は抵抗しなかった。


 このまま一線を越えれば、もう迷いを吹っ切れると思ったのだ。


 堕ちるところまで堕ちてしまおう。


 それが一番楽になれる方法。



 私を貪って――。



 ベッドに伏したアリシアは、そう願いながらエリオットの顔を見た。


 見つめ合う二人。


 鼻先まで迫る情愛。


 そして……、


 ……、


 ……、


 ……、


 彼女はこう言ってしまった。


「迷っている?」


「っ!」


 彼の瞳にもまた、自分と同じく迷いが篭っていたのだ。


 見透かされたとばかりにたじろぐエリオット。彼はアリシアを放すと後退りし、力なくソファに腰掛けた。


「どうしたの?」


「……」


 彼女の問いにも答えず。


「どういうこと?」


「……」


 答えず。


「……」


「……」


 ……。


 エリオット、意を決し告白する。


「全て……兄の願いだったのです」


「っ!」


 それは脳天を撃ち抜かれたような衝撃だった。言葉を発せられないでいるアリシアに、エリオットは全てを明かしていく。


「嫁いできた貴女が自分の醜い姿を見れば落胆するだろう。そう思った兄は貴女のことを想い、その相手を僕がするよう頼んできたのです」


「貴方は……それを受け入れた。どうして?」


「父の血を……侯爵家の血を引いていないからです。……僕は母の不貞の子なんだ」


「……」


「父はそんな僕を侯爵家から追い出そうとしたが、優しい兄は庇ってくれた。両親が亡くなった後も唯一の家族として愛してくれたんだ。僕にとって兄は全て……。そんな兄から請われれば、断ることなど出来なかったんだ。……でも、心の中ではずっと迷っていた。これが本当に兄のためになるのかと……」


 これが、この家の真実。


「僕はどうしたら良いのか……」


 兄を想う弟は、ただただ己の非力を嘆くしかなかった。………………ら、



 パンっ。



 部屋に乾いた打音が響いた。


 頬を赤らめ呆然としているエリオットに、その目の前で手を振り下ろしていたアリシアが怒りを表す。


「最低です。人の心をもてあそぶなんて」


「面目ない」


「ローギュストも最低です。自分の勝手な都合で妻に弟をけしかけるなんて」


「……」


「そして何より、私が……私が一番の最低です!」


 そして彼女は部屋を飛び出した。エリオットの呼び声も無視して、衝動に駆られるまま足早に廊下を進む。


 その行き先は勿論ローギュストの書斎だ。




 アリシアがノックもせずに勢いよくドアを開けると、菓子を食べながら本を読んでいたローギュストは驚愕した。


 次いで、目を丸くしている彼に平手打ちを浴びせた。更に問い質す。


「エリオットから全て聞きました。何故です?」


 察するローギュスト。彼もすぐに観念した。


「……僕の妻を強いらせることが申し訳なかったんだ。優秀で顔もいいエリオットの方が君に相応しい。僕もこんな身体だ。長生きは出来ないだろう。僕が亡くなった後はエリオットが侯爵家を継ぎ、二人で幸せになってもらいたかったんだよ。それが君のためになるだろうと……」


「勝手な!」


「僕は愛のない結婚で不幸になった母を見てきた。だから、君にはそうなって欲しくなかったんだ。……けれど、君の矜持を傷つけてしまったな。すまない」


 そして、ローギュストは誠意からの節介を誠意をもって謝罪した。


 しかし、それを受け取るのは悪意だ。


 アリシアは三度、しかも今度は両手をもって平手打ちをする!


 自分の両頬を!


 次いで唖然としているローギュストに素直に告白する。


「貴方の言うとおりです。私は初めて貴方を見た時、激しく落胆しました。貴方を軽蔑してしまったんです」


「……」


「私はそんな女なんです。最低なんです。貴方のことを知ろうともしなかった悪女なんです。貴方の気遣いを受ける資格はない。ごめんなさい。本当にごめんなさい。……だから」


 すると、彼女はひざまずくと……、


「お互い悪かったとして水に流しませんか? もう一度、一から夫婦をやり直しましょう」


 夫の手を初めて握った。


 ローギュストも困惑を隠せない。


「そっ……そんな……。ぼ、僕でいいのか?」


「私も愛を知りませんでした。だから、お互い正しい愛し方を知らなかったのかもしれません」


「正しい愛……」


 そして、アリシアは告白する。


「どうか、私を貴方の妻にさせて下さい」


「……こちらこそ、僕の妻になってくれ」


 同時に身を寄せて抱き合う二人。


 言葉だけではなく、身体全体でその愛を確かめ合った。


 ローギュストの肥満体は、エリオットの逞しさとは違った優しい温もりを感じさせてくれる。それこそ、アリシアが求めていた愛だったのかもしれない。


 その心地良さを味わいながら、彼女は一つ請う。


「ただ、一つだけお願いさせて下さい。どうか、お痩せになって欲しいのです。私を早々に未亡人にしないで」


「出来るかな?」


「出来ますとも、貴方なら。私も支えます」


「……ああ、約束するよ。僕も失いたくない」


「旦那様」


「アリシア」


 初めて旦那と呼ぶと、彼もまた本当の妻として受けれる。


 廊下からエリオットが見守る中、夫婦は確かな愛を誓うのであった。




 それから幾月も経った頃。


 屋敷からほど近い小丘にて、二頭の馬が歩いていた。その内の一頭に乗るのはたくみな手綱捌たづなさばきをするアリシア。そして、もう一頭の主は……、


「おおっと」


 ローギュストだ。ぎこちない手綱捌きでぎこちなく進んでいる。


 そんな彼を妻は温かい眼差しで褒める。


「お上手、お上手。その調子ですよ」


 何とか丘の天辺に到着すると、二人はゆっくりと下馬。そして、ローギュストは自分を笑った。


「妻に乗馬を習うなんて見っともない夫だな」


「そうですか? 妻に請うてまで身に着けようというのは立派なことだと思いますよ? それに見違えました」


 アリシアの言うとおり、彼は見違えていた。身体はほっそりと絞られ、頬の肉も消えている。エリオットに勝るとも劣らない美男子になっていたのだ。凛々しい弟よりは温和な顔立ちだったが、彼の性格が表れているといえよう。ダイエット成功である。


「まさか、本当に馬に乗れるようになるなんてな……。君のお陰だよ。君がいないとここまでなれなかった」


「献身し甲斐のある旦那様でしたから。でも、まだ皮が残ってるんですよね」


 そう言いながら、服の上から彼の腹を擦るアリシア。一見激ヤセしてはいるが、服の下はまだまだ肥満の名残が残っている。


「ハハハ、触らないでくれ。くすぐったい」


「じゃあ、次は私のお腹を触っていいですよ」


 次いで、彼女は笑っているローギュストの手を掴んで自分の腹を触らせた。


「どうです?」


「俺と違って滑らかな腹だ」


「でも、近いうちに大きく膨れてくるんですよ」


「え?」


 夫、瞠目。


 いや、父と言うべきか……。


 懐妊を初めて知らされたローギュスト。ただ、湧き上がってきた感情は喜びより戸惑いの方が大きい。


 恐ろしいのだ。子供を自分と同じような目に遭わせるのではないのかと。


「ぼ、僕に親が務まるのか? 親の愛を知らない僕に親など……」


 彼の頭の中を碌でもない過去ばかりが過ぎる。


 しかし、それはあくまで過去。


 今の彼にはアリシアがいるではないか。


 その妻は自分の腹を撫でながら説く。


「私も親の愛を知りません。だからこそ、同じ立場である貴方と一緒に育てたいのです。貴方は私に愛を教えてくれた人なんですから」


「君は……本当に勇気をくれるな。僕は幸せだ」


 そして、夫もまた改めて彼女の腹を撫でた。


「だから、君と子供も必ず幸せにするよ」


 こうして、互いに望んでいたものを手に入れた二人は、新しい生命と共に新しい人生を歩むのであった。


お読み頂き、ありがとうございます!

今後の執筆の参考のためにも、ブクマ・評価・感想など頂けましたら幸いです!

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