私のもの
私は彼の墓を前に恍惚とした微笑を洩らしていた。ここには彼の骨が納められている。その事実が私を病的に昂奮させた。
石碑には彼の名前が彫られてあった。墓の前に屈み、供え台の後ろの納骨室をじっと見つめ、そこにある骨を思い浮かべていた。
通りを歩いていた時は喧しかった蝉の声が、いつの間にか消えていた。いつもなら墓参りをする者を一人や二人は見かけるのに、今日は誰もいない。墓地一体がひっそりと静まり返っている。
彼が死んでからちょうど一年経った。彼は私の姉の旦那だった。姉と結婚して、数年経った後に自殺した。
墓は彼等の住んでいた家の近くの墓地にあった。私と両親の住む家からは電車で三十分ばかりかかる。最寄りの駅から大通りを住宅街に折れて、そこからさらに十分程歩かなければ辿り着かない。墓地は広く、彼の墓を探し出すのは容易ではなかった。
その広い墓地で、彼の墓は前に一人しか立つことの出来ない狭い区画にあった。無論墓自体も小さく、周囲の墓に隠れている。かなり質素だったに違いない。けれど、それは彼の望んだことだった。その墓の与える印象は彼が生前人に与えた印象と変わらない。
彼はひどく痩せており、皮膚の内にある骨の形をありありと感じる見た目をしていた。例えば、尖った頬骨に、幅の広い肩に、目立つ指の関節に――こうして思い浮かぶのは骨ばかりで、彼がどんな顔をしていたか思い出せない。
私は、月命日には必ず彼の墓に訪れていた。故人を偲ぶためではない。私は、死後の世界や幽霊、それらに付随する非科学的なものは信じていない。それらは人間の感情が作り出したものだと信じて疑わなかった。
彼は死んだ。彼の死に顔を見た。火葬された後の残った骨を見た。それらが墓に納められるのを見た。彼はもうこの世にはいない。彼がこちらに干渉してくることはない。この先、ずっと――
それならば、何故、毎月墓参りに来るのかと問われれば、それは、ただならぬ骨への執着のためだった。私は何よりこの骨に魅せられていた。何も全ての骨に病的な昂奮を感じるわけではない。彼の骨だからこそ、私をここまで魅了しているのだ。
彼と初めて会ったのは、私が高校生の時だった。その日のことはよく覚えている。何せ最悪な日だったから。
私は人付き合いが得意ではない。人を前にすると緊張して、何を話せば良いかわからなくなる。焦ると余計頭が真っ白になった。
人と接触するとひどく昂奮して、落ち着かない心地になる。人と話した日の夜は、目が冴えて、大抵眠れなかった。神経が尖っていて、人のいる所の刺激に堪えられない。だから、極力人と会うのを避けていた。
内へ内へと籠って、一人で本ばかり読んでいた。誰にも打ち解けて話す事が出来ず、思った事を口に出さず、その言葉を飲み込んでいた。
勿論、友達なんていなかったから、学校でも大抵一人でいた。その日も授業が始まるまでの間、席に座って本を読んでいた。後ろで男子生徒が騒いでいて、朝からうるさいなと苛々していた。
彼らを追い出すために、私は本に意識を集中させたーー突然ドンと背中に衝撃を受けて、私は机に顎をぶつけた。
「うわ、最悪。汚ねえ」
振り返ると、ふざけていた弾みでぶつかった男子生徒が左腕を右手で払っている。一緒にいた子達がそれを見てケラケラ笑っていた。
「陰気なのが移るぞ」
私はパッと前に向き直った。顔が火照っているのが鏡を見なくともわかる。彼らはまだ笑っている。耳障りな声。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……
第一、ぶつかってきたのはそっちなのに、謝りもせずに被害者面をしている。彼らが私を汚いと思うように、私も彼らを汚いと思っている。そういうことをちっとも考えない。意識にも上らない。
彼らは皆傲慢だった。どいつもこいつも、気持ち悪かった。
「あんな奴ら、死んでしまえばいいのに」
そう思った。が、口には出さなかった。腹は立つが、直接言う事など出来ない。だから、膝の上で手の平をギュッと握りしめて堪えるより他はなかった。
その日、家へ帰ると、母から姉が結婚相手を連れて家に来ると聞いた。そう聞いた時、私は俄かには信じられなかった。
あいつが、結婚する?
我が強くて、常に上からものを言う女、結婚など出来ないと思っていた。あの女が連れてくる男だからきっととんでもない奴だと思った。あいつと同等、嫌な奴に違いない。会いたくないと思った。
それで彼らが来ても私は部屋に引き籠もっていたが、母に挨拶くらいしなさいと強制的に連れ出された。
彼らはリビングにいた。父と母が並んで座り、その向かいに姉と義兄が座っていた。私は手前の母と義兄の間にある椅子に座った。
私は彼を見た。顔には余計な肉がついておらず、頬骨が出ているのがまず目についた。薄い顔で一目では印象に残らない。ただ骨ばかりが目立っていた。
彼は私を見ると、軽く頭を下げた。嫌な奴だと決めつけていたから、私はちょっと面食らった。
姉は素っ気なく、「父親と母親、それでこれが妹」と顎で私を示しながら言った。
私と姉は性質が異なっている。お互い相容れないものとして距離をとっていた。
「似てないだろう?本当に姉妹かってよく聞かれるよな」
父は聞かれてもいないのに、べらべらと話し出した。父はおしゃべりで、その話す事は大抵余計なことだった。
父の言う通り、私と姉は似ていない。私の顔ーー腫れぼったい一重瞼が目つきが悪く見せている。不意に目が合っただけで睨んでいるとよく非難された。
一方で姉は奥二重の切長の目で、一見きつい印象を与えるのに、あのお得意の外向き用の笑顔で隠していた。
姉妹だけあって、顔のパーツは似ていた。が、微妙な違い、配置によって姉は美しく、どこか神秘的な雰囲気のある顔に、一方で私は地味でパッとしない顔をしていた。
「深月もせめてお姉ちゃんくらい愛想ぐらい良ければなあ」
そう言って缶ビールをぐいと飲み干した。缶を親指と人差し指で上から摘んで左右に振り、空になった事を訴えていた。それを見て母は立ち上がり、冷蔵庫から新しいビールを取り出した。
ビールくらい、自分で出せばいいのに。笑いながら言う父を私は横目で睨んだ。父は無神経に一番言われたくないことを悪意なく言ってのける。
恥ずかしいのと悔しいので私は下を向いた。どいつもこいつも、馬鹿にしやがって。机の下で、手をギュッと握りしめた。
「ーー僕は、透です」
彼は消え入りそうな声で名前を述べると、深々と頭を下げた。それがいやに丁寧なものだから、私まで頭を下げてしまったくらいだった。
彼を見て、静かな人だなと思った。覇気がないというか、生き生きとした感じがしない。彼を見ながら私の頭に疑問が浮かんだ。こんな人がどうして姉などと結婚しようと思ったの?
姉の態度は私達家族に対する平然のものと変わらない。つまり、化けの皮を剥いだ姿を、この義兄になる彼は知っている。外向きの顔なら、まだ理解出来る。が、これを見ても結婚しようと思えたの?
姉は彼氏がいた事も話さず、突然連れて来たものだから、父は自ずと義兄にばかり質問していた。
「透くんは、いくつ?」
「今年で、二十七になります」
「それじゃあ、同い年か。仕事は何してるの?」
「介護士です」
「へえ、介護士か。陽向の方が上だな」
父は姉を見てにやりと笑った。姉は看護師だった。父の無神経な発言に、彼は何も言い返さず、ただ苦笑したきりだった。姉は素知らぬ顔をしてお茶を飲んでいる。
「どこで働いているんだい?老人ホーム?」
「病院です」
「病院なんだ。陽向と同じとこ?」
「いえ、違います」
「透くんの出身は?」
「えっと、神奈川です」
「透くんのお父さんは何をしている人なんだい?」
彼はちょっと黙った。ややあって、「普通の、会社員です」と消え入りそうな声で答えた。父は被せて「何の会社?」と尋ねた。
「……不動産です」
「お母さんは?」
「母は何もーー専業主婦です」
彼が答えるまでに、少し間があった。まるで言葉を選んでいるかのようだった。私は顔を上げて彼を見た。彼は微笑んでいた。が、頬が引きつっている。
「兄弟はいるの?」
「いません」
先からの受け答えを聞いていて、彼にしてはきっぱりと答えたなと思った。
「実家には帰っているのかい?」
「いえ、あまり……」
「どうして?仕事が忙しいのかい?」
「ええ、まあ……」
彼は言葉を濁した。彼は膝の上に置いた手をグッと握りしめているのに気づいた。聞かれたくないことなんだろうなと思った。言いたくなくて、堪えている。言いたくないと突き放す事が性質的に出来なくて、居心地の悪い場でも逃げ出せない。
私は椅子に座り直して、義兄になる人の顔を真っ直ぐに見た。この人、私と同じだ。嫌な事があっても、理不尽な事があっても、口に出せずに黙って堪えるしか出来ない人。
「もしかして仲が悪いとか?」
姉が乱暴にコップを置いた。その音がリビングに響いた。しんと静まった。
「お父さんそんなに根掘り葉掘り聞かないでよ。透困っているじゃない」
「だって、気になるじゃないか。陽向の旦那になる人なんだから」
そう言いながらも父はそれ以上彼に質問するのは止めた。誰も、姉の言葉には逆らわなかった。
「明日、早出でしょう?もう帰りなよ」
姉が立ち上がって、彼もおずおず席を立った。父と母も立ち上がって、二人を玄関まで見送った。私は椅子に座ったまま彼らがリビングから出ていくのを眺めていた。
ガラガラと玄関が開く音がした。父と母が「気をつけて」「またおいで」と声をかけた。それに対して彼の声は聞こえない。
扉が閉まる音がした。足音が近づく。父達が戻ってくる前に、私は二階の自室へと逃げた。
彼と会ったのはその一度だけだった。その後二人は結婚して、姉はこの家を出た。毎年正月には二人揃って顔を出したが、その言葉通り一時間も経たずして帰って行った。
私は彼に何か近しいものを感じたけれど、だからといって進んで彼に近づくことはしなかった。というより、近づけなかった。私は彼が生きている間、一度も彼を義兄さんと呼んだことがない。ろくに話もしなかった。
彼が家へ来ても、私は部屋に引き籠って顔を合わさずにいた。自室で扉を僅かに開け、その隙間から、耳を澄ませて、彼等の会話を聞いていた。彼の声は小さいからかよく聞こえなくて、いるのかどうかわからなくなる。
姉と義兄が帰った後の夜、父は夕食を済ませて居間に横になってテレビを観ていた。バラエティを観ながら時々馬鹿みたいに大きな声で笑った。母は食器を洗っている。私は食器を流しへ持って来た。
「でも、お姉ちゃんが結婚するなんて思わなかったな。お母さんもそう思うでしょ?」
「ああ見えてお姉ちゃん、外では愛想良いのよ」
心の中で知ってると呟いた。外ではまるで別人だ。小学生の時、一緒に登校していると、姉はすれ違う人全てに愛想の良い笑みを浮べて挨拶していた。
「あの人、すごく静かな人だよね。何話すの?」
兄の話が聞きたくて、さりげなく、義兄さんについて聞いてみた。
「何って、仕事の事とか――お父さんが透くんに色々聞きすぎて、お姉ちゃんに怒られてたわ」
母は呆れながら笑った。机の下でぐっと手を握りながら、愛想笑いを浮かべる義兄の顔が浮かんだ。
「何でお姉ちゃんみたいなきつい人と結婚したんだろうね」
「お姉ちゃんにはああいう人の方がいいのよ。お父さんみたいに余計な事言わずに、黙って聞いてくれる人の方が」
そりゃあ、姉にとっては良いだろう。けれど、義兄さんは?
私は生まれてからずっと姉のいる生活だった。姉は頭が良かった。容姿も良かった。何でも思った事を遠慮なく言ってのける人だった。つまり、私とは正反対の性質を持っていた。
姉は正反対の性質を持つ私の一切を悪だと見なして軽蔑していた。そして私のことを蛆を見る目で見た。思った事を言葉に出来ない私に対して「言いたい事があるなら、はっきり言えば?」と咎めるような人間だった。
姉は自分の考えが全て正しいと思い込んで、そぐわない事を言うと頭ごなしに否定する。たとえ、姉が間違った事を言っても認めもしないし、謝りもしない。
「あんたが間違えてるのよ」
姉はよくこういう言葉で私を責めた。その声は低く冷たかった。それで、私が間違っていると認めて謝るまで咎めるのを止めなかった。姉は謝らせないと気の済まない性格だった。私はあの強迫めいた言葉が恐ろしかった。
だからなるべく近づかないようにしていた。避けていても、血の繋がりというものは執拗に絡んでくるもので、姉とは距離をとっても、周りの人間は私を「姉の妹」という目で見続けた。
先生は期待に満ちた目で私を見る。そして、大体失望と拍子抜けした顔で私を見た。「妹って聞いたけど、こんなもの?」と顔が物語っている。親戚や近所の人達は私達二人を見て、「似てないね、本当に姉妹?」と言う。
私はどこへ行っても姉の妹としてしか存在価値のない人間だった。姉という光を浴びて、初めて存在を認識される。私自身には何もない、まるで空っぽだった。
皆して私を見下していた。どいつもこいつも私を馬鹿にしていた。それもこれも全部姉のせいだ。あいつさえいなければ、比較されることもなかった。自信も自尊心も、全て私から奪い去った諸悪の根源だ。
あの女さえいなければと何度思ったことだろう。そうすれば、私にももっと違った人生があったはずだ。いなくなってしまえばいいのに。そう願い続けた。
テレビの音に重なって、父の鼾をかく音がする。父は起きていても寝ていてもうるさかった。私は逃げるように二階に上がった。
一人の部屋で私は義兄の事を考えていた。姉と二人きりで生活している彼を想像した。目に浮かぶのは、姉の言葉に膝の上でぐっと手を握って堪えている姿だった。
姉がいなくなって、私はほっとした。姉という枷がなくなって、精神的な圧力から解放されたのだ。
今度は義兄さんの番だ。義兄さんがあの傲慢な姉の被害者になっている。可哀相にと思った。義兄さんが、可哀相。
私は義兄に哀れみと親しみの感情を抱いていた。何か話しかけてみたい気もした。でも義兄さんがいる時は必ず姉もいる。二人きりになれない。話せないまま、時間ばかりが過ぎて行った。
それでも、何をしていても頭のどこかに義兄がいて、彼を心配している自分がいた。いつか姉から逃げだすに違いない。いや、むしろ逃げ出して欲しいと思った。私が姉を嫌っているように、彼にも姉を嫌悪して欲しいと祈った。
それから、数年経ったある日の夏のこと。私は大学生になっていた。母の口から突然義兄が死んだと聞いた。私の思考は停止した。言葉の意味を理解出来なかった。
「……どうして?」
私の声は震えていた。
「家で首を吊っていたんだって。びっくりよねえ」
首を吊っていた?それってつまりーー
「自殺、したの?」
「静かな子だとは思っていたけど、まさか身近で起きるなんてね」
家の中にいても、蝉の声が喧しかったのを覚えている。母が何か言ったが、彼らの命の限り鳴く声ばかりが耳に響いていた。
彼は死ぬ前に遺書らしきものを残していたらしい。それには、「何もかも簡素に済ませて欲しい」とだけ書かれていた。それを遺書と言っていいかわからない。が、彼の言葉で書かれたのには違いなかった。彼の望みはそれきりだった。
私は義兄さんの字を初めて見た。細く、縦に間延びした頼りない字だった。まるで、彼自身を表しているようだった。
彼の葬儀は淡々と進められた。誰も悲しみらしい悲しみを見せなかった。人を悲しませるには、彼はあまりに印象が薄かった。
彼の両親は葬儀に顔を見せなかった。子どもの葬儀に顔を見せないとは非常識的だった。
彼が両親について聞かれた時、言葉を濁したのを思い出した。彼は実の親からも気にかけてもらえない。彼は見捨てられている。彼には姉しかいなかった。その姉も自分のことばかり考えている人間だった。
「何て哀れなんだろう……」
私は一人きりの部屋で、そう呟いた。
彼が死んでからの事は姉が全てを執り行った。平然としている姉を見て、何故平然としていられるのだろうと思った。
色々と堪えている人だとは思った。けれど、死を考える程、追い詰められているとは気づかなかった。だって、私は義兄さんに会っていなかったもの。仕方ない……それじゃあ姉は?
姉は誰よりも義兄さんの近くにいたはずだった。それなのに、気づかなかった?追い詰められている彼を放ったらかしにした?いや、もしかするとーーより一層追い詰めたのは、姉ではないか?
そういう考えが脳裏を掠めた瞬間、私は姉に対して憎しみに近い感情を抱いているのに気づいた。
私は彼の取り繕った笑みを思い出した。嫌な事を言われても、我慢している人だった。きっと堪えに堪えに堪え抜いて、何とか平静を保っていた糸がぷつんと切れたに違いない。可哀相な義兄さん。誰にもわかってもらえずに一人で死んだ……
私はいつしか義兄を同情していた。自分と似ていたから、自分も同じ末路を辿る可能性を孕んでいたから。
姉などと結婚したから、義兄さんは死んでしまった。姉でなくて、もっと彼に寄り添ってくれる人といれば、彼も死なずに済んだかもしれないのに。葬儀の間、そういうことばかり考えていた。
火葬後、私は彼の骨を見た。生きていた時はあれ程骨を感じていたのに、灰にまみれた骨は崩れており、原型を留めていない。頭蓋骨や大腿骨がかろうじて形を保っていた。これが彼の骨……そう意識すると、私は目を離せなかった。死んだ彼の骨――一番内側にある彼自身――そこから生彩さを感じた。
それは、奇妙なことに違いなかった。どう見ても脆く崩れており、生気などどこにもない。それなのに、何故か生きた感じがした。矛盾を感じながら、動かぬ骨をじっと見つめていると、俄かにある感情が沸き立ってきた。この感情をどう言葉で説明すればいいかわからない。妙な興奮が身体中を満たして、溢れそうになっていた。
つまり、この骨だった。私は生きている人間はうるさいから嫌いだ。生きた人間とは関われない。けれど、骨は静かだ。骨は話さない。それが良い……
私は漸く自分にぴたりと合うものを見つけた。
彼が死んでから三ヶ月ばかり経った時、彼の墓が建てられた。私達家族に見守られながら、彼の骨はその墓に納められた。
それを見ながら、ふと私は、姉が死んだらこの墓に入るーーそういう事が頭に浮かんだ。義兄さんと姉が同じ場所に、二人きりで。そう考えていると、もやもやとした黒く重いものが胸の中に拡がって、気分が悪くなった。
義兄さんじゃなくて、姉が死ねば良かったのに。私は姉を横目に見ながら、そう思わない事もなかった。
私は毎月、月命日に彼の墓に訪れた。彼の骨を納めている墓を前に、暫くの間じっとしていた。
「よくあんな人と結婚しようと思ったよね。あの人の横暴さ、結婚するまで気づかなかった?」
人とはうまく話せない。けれど骨とならば思っている事を自然と話すことが出来た。それに、墓は答えない。私を傷つけない。
「あんな奴が、義兄さんのこと理解できるわかないじゃない。兄さんも見る目ないね」
私なら、義兄さんの気持ち、わかるのに。私と義兄さんはよく似ている。私ならば理解してあげられる。私はそういうことばかりを彼に話し続けた。
彼が死んでから暫くして、突然姉が大量の荷物とともに実家に帰って来た。
「どうして帰って来るの」
姉を前に、不満を吐き出す事など出来るはずがなく、言葉を飲み込んだ。漸く訪れた平穏がまた壊された。
段ボールで届けられた荷物の整理を母に任せ、自分はリビングでパソコンに向かっている。母は一階にある荷物を二階の姉の部屋まで運んでいた。五十を超えた母にそういう事をさせる姉だった。
「お姉ちゃん、この本はどうするの?」
「ーー本?」
姉は立ち上がって、母の隣に立った。溜め息を吐くように「ああ」と言った。
「それは、透の」
透という言葉を聞いて、私の耳は反応した。遠目に二人の方を――兄の残した物を見た。六十サイズの段ボール一杯に詰められた本。
「段ボールに入ってたから、私の荷物かと思った」
「どうするの?」
「どうしようか……残しておいてもしょうがないし――売ろうかな」
「何だか古い本ばかりね」
「ほんと、いくらになるだろう?」
二人は本の話ではなくて、金の話をし始めた。
「じゃあ、このままにしておいた方がいいわね」
母は段ボールの蓋を閉めて、部屋の隅に押しやった。姉の態度はあっさりしていた。本当に夫婦だったのかと疑ってしまう。姉には何の悲しみの感情が見られない。
姉が家に戻ったことで、彼に会う前の日常が戻った。彼のいない方が自然であるような――つまり、全て大丈夫だった。最初から彼など存在していなかったみたいに、元の通り自然に進んでいる。
その日の夜、姉や両親の寝息のするのを確認してか
ら、私はいそいそと一階に下りてきた。リビングの隅に押しやられた段ボールに近づいた。蓋を開いて、中の本に手を伸ばした。
義兄さんの読んでいた本――私は彼のことを良く知らない。本を読んでいたことも、死ぬことを考えていたことも……
私は一番上にあった本を手に取ってみた。開いてみると、一部が背から外れて床に落ちた。私はそれを拾って、元に戻し、表紙を見た。
「ポリクーシカ……」
聞いたこともない本だった。作者はトルストイ。トルストイは知っている。何冊か読んだ事がある……イワンのばかとか戦争と平和とか、有名なものしか知らない。本を見る限り、随分古いものらしい。発行年を見ると、昭和二十八年と記されている。古本屋で買ったのだろう。
私はその一冊を胸に抱え、二階の自室へ足音を潜めて歩いて行った。ベッドに座って、サイドテーブルのランプを灯してその本を読むことにした。
少しでも雑に扱えば破れてしまう。壊れないように丁重に扱わなければならなかった。繊細な彼に接するように、その本に触れた。
ポリクーシカの主人公は弱い人間だった。弱さに故に、自己の人生を破滅に導く傾向があった。
酒飲みで、窃盗で生計を成り立てていた過去があった。それ故に、態度を改めても周りからはどうしようもない人間という目で見られていた。
女主人だけは彼を気にかけていた。彼が改心した事を示すために、彼にお金を取ってくるように頼む。
彼は金を女主人の元へ届ける事で正直な人間である事を示そうとした。が、彼は帰りの道中でお金の入った封筒を落としてしまった。金を失くす事は女主人の期待を裏切る事に他ならなかった。そして、自分自身もの……
彼はもうどうしようもなかった。どうしようもなくて、それで屋根部屋で、義兄のように首を縊って死んでしまった。
女主人が彼にあんな事を頼まなければ、ああいう悲劇的な結末にはならなかった。どうしようもない人間という目で見られても、それでも生きていたかもしれない。
彼女にとっては善意だったに違いない。が、結果として彼が自殺するきっかけとなった。
善意が身を滅ぼすーーどうしようもない、救いようのない話だった。読んでいると寒気を感じた。そう感じたのは季節が夏から秋に移ろったせいだけではなかった。
読んでいる本が思想なり、人格に影響する事はよくある。私は気に入った言葉なり言い回しがあると、作文を書く時にそれらをよく使ったものだった。
義兄さんは何故この本を読もうと思ったのだろう?この本を気に入っていたのだろうか?そもそもどうやって知ったのだろう?本はそれなりに読んではいるけれど、この本は聞いた事もなかった。古本屋でこの本を見つけたのだろうか?何故手に取った?タイトルからはどんな話か想像つかない。彼はトルストイが好きだった?けれど、段ボールの中を見た限りトルストイの本はこれきりだった。
段ボールに詰められた彼の本。それらの本を読めば、義兄の事を知れるかもしれない。彼がどういう人間で、何を思い、感じていたかを。知りたい。義兄さんを知りたい。
「ねえ」
翌日になって、リビングで朝食とも昼食ともつかぬご飯を食べている姉の背中に向かって話しかけた。私は姉の名前を呼ぶことすらしなかった。姉も姉でこちらを振り返りもせずに「何?」と冷めた声で返事した。
「この本さ、売るの?」
「そうだけど、あんたには関係ないでしょ」
姉はぴしゃりと突き放した。でも、ここで引くわけにはいかない。
「私が、貰ってもいい?」
「……何で?」
「この本、すごく古くて中々手に入らないの。それに、もし売っても大した額にならないだろうし……」
そこで姉が振り返ってこちらを見た。姉と対峙するのは小学生の時以来だった。あの、蛆を見る軽蔑の目ーー私は負けそうになった。が、ここで引くわけにはいかない。
「いらないのなら、私にちょうだい」
姉は暫く私を黙って見ていた。
「勝手にすれば」
姉は私から視線を逸らした。心臓がどくどくと鼓動していた。私は興奮していた。勝った……初めて、姉に勝った。それがどういう事か、きっと誰にも理解できないだろう。ただ私の中ではそれは重要なことだった。
私は段ボールを抱えて階段を上がって行った。かなり重かった。ふらつきながら、漸く二階の自室へとたどり着いた。段ボールの中の本を眺めていると、妙な満足感が胸中に満ち溢れていった。
段ボールを開いて、中の一冊を取り出した。罪と罰、カラマーゾフの兄弟。これらの本は読んだ事があった。どの登場人物も神経質な傾向を持っていた。暗い話だと感想を持ったことを覚えている。読んでいると、まるで、地下の暗い、分厚い壁に囲まれているような圧迫された感じがした。
私は本を手に入れた日から、毎日読んでいった。ポリクーシカに始まり、罪と罰、カラマーゾフの兄弟、ボヴァリー夫人、暗夜行路……彼らはかなりの苦悩を抱えていた。
どれも陰鬱な本ばかりだった。こういう本ばかり読んで、気分が塞がらないのかしら。
まだ読み終わらぬうちに次の月命日が訪れた。私は彼の墓に訪れた。墓を見る度に骨を感じていた。そうして骨に語りかけた。
「義兄さんの読んでいた本を読んだよ。ああいう本が好きだったんだね。私、全然知らなかった。義兄さんはああいう人達の心地が理解できるの?」
今では誰も彼について語らなかった。私は、目頭が熱くなるのを感じた。彼が哀れだった。彼の苦悩は誰からも理解されない。
「義兄さんの事を考えているのは私だけよ。それなのに、どうしてあんな奴と結婚したの?」
姉といるから死んだのだ。私といれば死ななかった。きっと、そうよ。
私は彼の墓を後にした。読まなければならない本がーー知らなければならない事があるからだ。
彼の読むのは古い本ばかりだった。彼は神話も読んでいた。それから意外だったのは聖書があったことだった。段ボールの中からそれを見つけた時、私はあれと思った。彼の葬式は仏教徒のそれで行われた。私は聖書を手にしたまま、その表紙をじっと眺めていた。彼はキリシタンだった?
私は聖書を読んだ事がなかった。神というものを信じていなかった。義兄さんは神を信じていたのだろうか?それとも興味で読んでいたのだろうか?
パラパラと捲ると栞が挟まれてあった。挟まれてあったページを見た。ある箇所に黒の線が引かれてあった。
「――確かに、人の子は自分について書いてある通りに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間は禍いです。そういう人間は生まれなかった方が良かったのです」
読んでいると突然、頭の中に「罪と罰」という言葉が閃いた。義兄は悪い人には見えなかった。寧ろ、人の良い感じがした。当たり障りのない言葉、誰かを傷つけるようには見えなかった。
静かで、何か気に障るような事を言われても、笑って済ませて、けれど胸の内でぐっと堪えている人だった。そういう目で、義兄さんを見ていた。自分が正しいと信じて疑わず、我が物顔で振る舞う人達とは違う。
「生まれなかった方が良かった」
この言葉が頭から離れない。彼は何か罪の意識を感じていた?義兄さんの過去に何があった?聞きたいのに、それを語る人間は死んでしまった。
私は義兄さんの事を、何にもわかっていない。彼の本を手に入れた時、捕まえられそうだったと思った。が、結局は虚空を掴んだだけで、彼に触れる事も出来ずに闇の中に放り込まれた。
彼が何故死んだのか、気になって仕方がなかった。何故死のうと思った?いつから死を考えていた?死ぬ時、どんな気分だった?
私は存在しない相手に問い続けた。答える者はない。骨は話さない。彼と一番距離があった私が、一番彼の死に執着していた。生きている時に話をすれば良かった。そういう考えが浮かんだが、すぐに私は頭を振った。無理だ。だって、姉の夫だもの。
彼の墓を参って、彼の本を読んで、彼という人間を探した。彼が死んでから一年の間、私はそうやって生きてきた。
彼が死んで一年が経った。私は彼の骨を隠している墓を見た。父も母も姉さえも、滅多に姿を見せない。私だけよ。私だけが、義兄さんの事を考えている。
どうしてこうまで執着しているのだろう。人間など嫌いだったのに。誰とも関わりたくなかったのに。
義兄さんが静かな人だから?堪える人だから?あれこれ自分に問いかけていると、ある光景が目に浮かんでいた。それは義兄さんと初めて会った日の事だった。彼と目が合った。そして彼が私に頭を下げたーーああ、そうか。私に頭を下げる人なんて、いなかったからだ。
ふと、頬に冷たさを感じた。ぽつり、ぽつりとまた冷たい。空を見上げた。鉛のような暗く重い雲が空を覆っている。滴が顔に当たった。湿った匂いがする。それで、人がいない理由がわかった。誰も雨の降る日にわざわざ墓参りに来ない。
雨は雷鳴を伴って、さらに勢いを増していった。私は傘もささずに、墓の前でじっとしていた。
何が兄さんを死なせたのかはわからなかった。結局のところ、死んだ理由は死んだ人間にしかわからない。けれど、ここに義兄さんの骨があるのは確かなことだった。
唐突に、供え台を両手で持ち上げ、地面に下した。供え台の後ろには白い骨壷が納めた時と同じに置かれていた。私は殆ど無意識にそれに手を伸ばしていた。手前に引いて蓋を外す。
「止した方がいい」
頭の中でこういう声がした。しかし、誘惑を目の前にしてどうして止められようか。私は声の指示とは反対に手を伸ばしていた。壷の中に手を入れる――湿ったものが指先に触れた。それを摘まみ、壷の中から取り出した。目の高さまで上げて、まじまじと見る。
骨だ。尖った白い欠片。嘗て彼だったもの。いや、これは彼自身だ。彼の生きている時も、この骨をありありと感じていた。それを今、手にしている。
その時、初めて私の手の震えていることに気づいた。緊張、昂奮、歓喜、いろいろの感情が血液と共に全身を流れ、溢れ出しそうになっていた。
身体に打ち付ける雨など気にならない。誰かに見られたらなどと周囲を見回すこともしない。他が一切気にならず、人の目など考えない。骨を見つめ、骨に見られ、そこに境界はない。
そこには、ある満足があった。その満足は、子どもの頃、欲しかった玩具を漸く手に入れた時のような満足だった。それと同時に、これまで触れることの出来なかった生き生きとしたものに触れた喜びを指を通して全身に感じていた。
これは、私のものだ。無くさないよう、彼をぎゅっと握りしめた。




