第61話 魔法の堕天使、降臨す
──ロエルの館「ロエルの寝室」
暗闇の中、小人の傘を広げたような形をしたランプシェードが作り出す朧げな光に包まれて、セファローズとロエルはお互いに身体を密着させていた。
お互いに、と言うのは語弊がある
人一人では確実に持て余してしまう程の豪華なベッド、そのすぐ傍の白い壁際に追い詰められたセファローズ。
緑布のスカートの裾から伸びる、新雪をも思わせる白い皮膚をした太腿の間に、ロエルの片脚を捩じ込まれ、僅かに膨らんだ胸が押し潰される程に男の身体を押し付けられていた。
ロエルの細身だが青筋を浮き立たせた右腕がセファローズの顎まで伸びて、角張った指がそれを持ち上げる。
二人の吐息が混ざり合い、交換される程の距離。
特上の美女を前にしてロエルは思わず口元を緩ませた。
「セファちゃん、もしかして緊張してる?」
「……するならさっさと済ませなさい」
全てを諦めた者がする虚ろな目をしてセファローズは言う。
少しでもつまらなくしてやろう、という悪足掻きが含まれた態度だったが、むしろ加虐嗜好のあるロエルを滾らせることとなった。
男にあったのは「遂に陥落させた」という達成感だ。
嘘に陥落したこの世界に抗い続ける気高き女。
盲目の万民を味方に付けたアールディア正教団でさえ手に負えなかった程の知性と力を持った強き女。
それを下僕にまで引き摺り下ろすことが出来た。
権能による反則的な強制支配ではない。
策略によって心を折ることに成功したのだ。
あの妙な魔法使いにも礼を言わなければならない。
どんな繋がりかは分からないが、どうやら二人は友人だったらしく、おかげでセファローズの良い表情を拝む事が出来た。
悲惨で、絶望的で、可哀想な美女に勝る甘い蜜はない。
件の「追いかけっこ」は我ながら最高の催しだったな、とロエルは最高級のデザートを食べた後のような満足感を抱く。
セファローズの存在を知ってから、ずっと願い続けてきた。
この桃色の唇を、絹糸を思わせる色艶のある金髪を、華奢であるが確かに女の膨らみを持った可憐な肉体を、まだ誰も触れたことのないはずの秘部を、我が物とすることを。
セファローズに更に身体を寄せら片方の手でさらさらな頬を撫で、もう片方の手をすべすべな太腿に這わせて、最高品質の身体を堪能する。
本人は強がった表情を作っているが、身体は正直だ。
手足の震えを隠せていない。
それがまた、堪らなかった。
これからはたっぷりと時間を掛けて快楽に溺れさせてやる。
玩具ならば山程あるし、薬を使うのもアリだ。
想像を膨らませると身体の芯が熱を持つのが分かった。
怒張の如く興奮は、これまで実験してきた全ての生物を前にして抱いたものを凌駕している。
「ゆっくりと楽しもうね。もう誰も邪魔しない。女神だって教皇だって、ボクたちの目合いを引き裂くのは不可能だ」
対して、セファローズは奥歯を噛み締めた。
そうでもしなければ涙が溢れ出てしまいそうだったからだ。
──不可能か。
確かにそうだ。
セファローズは自決の意味も込めてロエルに挑んだが、その心意気とは別に殺せるなら殺そう、と全力を尽くした。
そう、全力だ。
自然の始天使アモル様から授かった力を以ってしても、生の幹部ロエルには勝てなかった。
それはセファローズを絶望の底に叩き落とすと共に、ロエル相手ではどう足掻いても無駄であることを意味している。
今から行われる行為──尊厳を踏み躙られ、純潔を貪り尽くされることを目前にしてもセファローズの抵抗は意味を成さないのだ。
やがてロエルが笑みを見せて、更に顔を近付けてくる。
だが、やはり受け入れることしか出来なかった。
ただゆっくりと時が流れる。
セファローズの脳はこれから訪れる苦痛を少しでも紛らわせようと、記憶を回想し、現実逃避を始めた。
この館ではどれほどの不可能があっただろう。
不可能は可能になる、と豪語していた友人がいた。
ある日天界からやって来て、開幕早々にカッコつけた友人。
ポンコツだが、勇気と誇りを持っていた友人。
エルフ族の宿命をぶっ壊し、自身に夢を与えた友人。
カッコよかった。
憧れだった。
だが、そんな彼女もまた圧倒的で理不尽な理──重力や生命を司る者に敗北した。
この世界は何とつまらないのだろう。
この世界に自由は無かった。
セファローズは一筋の涙を流す。
さっさと死んでおくべきだった、と思った。
遂にお互いの唇が触れようとする瞬間──セファローズはこの部屋に来て初めて顔を歪めた。
接吻に対する更なる嫌悪感を抱いたわけではない。
「……嘘でしょ……?」
驚愕し、更に絶望したセファローズはロエルの身体を剥がす。
唐突な反抗に一瞬狩人がするような鋭い眼光を宿したロエルだったが、遅れて、彼もその存在に気が付いたようだ。
背後を振り向いて扉を睨み付けると、眉間に皺を刻んで怒りを露わにする。
こちらに猛烈な勢いで迫って来る気配。
慌てて発動させた「気配探知」によりセファローズはその正体に確信を得る。
それは闇夜を照らす黎明のよう。
それは絶望に差し込む希望のよう。
それは紛うことなき光──かつてのセファローズが心から憧れた友人の気配だった。
寸刻後、扉が強く開け放たれる。
曖昧な暗闇に満ちた寝室に眩いばかりの白い光が差し込む。
その光の中にいたのは一人の天使だった。
「フィーネ……!」
セファローズが発した声に喜びは含まれていない。
あるのは強い絶望だけだ。
「はあ……全く、どうして来ちゃったかなあ。せっかく逃がしてあげたのに」
面倒くさそうに、だが怒りを滲ませて呟いたロエルにセファローズも同調する。
先程までセファローズが抱いていた諦めの意には、ロエルに対して打つ全く手が無いという理由以外にも、最後の使命を全うしたという達成感が含まれていた。
その使命とは、フィーネを脱出させるというもの。
友人として助けたいという気持ち。
旧世界の人間として希望を残したいという気持ち。
それは成就したはずだった。
館の主であり追いかけっこを始めた張本人であるロエルが言ったのだ。
フィーネちゃんは逃げたよ、と。
だからこそセファローズに悔いは無く、ロエルに迫られたとて感情を殺し全てを諦めれば済む話だった。
それなのに、なぜ。
あれだけ脱出したがっていたではないか。
吐きそうになる程に限界だったではないか。
今だって物語の主人公のような登場をしたフィーネだったが、彼女の暗鬱が完全に晴れたようには思えなかった。
「セ、セファローズを……返せ……!」
その声色は確かに怯えを含んでいた。
どういう理屈か、天使の姿に戻っている。
天使の特徴である大翼や光の輪は勿論、髪の毛の色も金色になっているし、瞳も琥珀色だ。
だが、絶望に打ち拉がれたような雰囲気は依然そのままだ。
淡い金色を帯びた瞳孔は恐怖から開き切り、白い顔には汗が滴り落ちて、肩は僅かに震えている。
それなのに、なぜここにいる。
セファローズはもう一度心の中で呟いた。
言葉通り自身を助ける為か?
ならば馬鹿としか言いようがない。
束の間の充実感と利他心は満たされるだろうが、その温情は戦いの中では命取りになる。
まさか、天使の姿に戻ったことで勝てると思っているのか?
もしかしてフィーネは知らないのだろうか。
脅威の回復力を持つ天使がどうやって殺されたのか、を。
「あれ……その四枚の翼……ひょっとして本物……!? ま、まさかあの始天使が生きていたなんて……! ああ、お許し下さい。天使様に成り代わろうとした愚かなボクを──なんてね」
芝居の最後に笑みを見せたロエルは指を鳴らす。
「『奇跡解放だ──【生命改造・起源化】』」」
そして、世界の管理者たる力を見せつけた。
ロエルの一声に空間が揺らぎ、世界の核が接続される。
白い司祭服の胸元にぶら下がったネックレスが真の輝きを放ち、フィーネを呑み込んだ。
それは百年前以前、光の時代で天上から振り注いでいた光。
下界に生けとし生きる者を管理していた生の始天使が、管理対象である生命に触れる際に放出していたものと同様のものだ。
彼女の、いや、今は彼のものとなった力は理となり、世界を改変した。
「……なに!? 私の翼が、光輪が消えた……!?」
動揺の声が上がる。
そこには今にも泣き出しそうな悲痛な響きがあった。
だが、声を発した彼女は目の前の現象──簡単な動作によって光の加護を喪失させられたことを受け入れなければならない。
なぜならそれはかつての同胞の力なのだから。
「あはは!! 天使にでもなればボクに通用すると思った? ムリムリ!! 翼を四枚生やしたからって勘違いしちゃダメだよ。あーちょっとイヤなこと思い出しちゃった。ボク、そういう傲慢な所が嫌いだったんだよね。特に始天使だ。誰の許可も得ずに人の上に立って、いかにも善人面で世界を支配して。キミたちのご機嫌を伺いながら生活してたボクらの気持ちを考えたことがあるのかな。まあ、いいや。時代は変わったんだ。傲慢で弱っちい天使は死んで、代わりにもっと優秀なボクたちが世界を支配している。それに偉そうにしてた始天使共の力を無効化したのはボクなんだよ。ボクはね、あらゆる生命を元の形に戻せるんだ。あれ知らなかった? そっかそっか、その表情、アイツらにそっくりだよ、マギウェル・デア・フィーネちゃん?」
ロエルが歪んだ笑みを浮かべて、怯える女の名前を呼ぶ。
自身の名を宿敵に知られたマギウェル・デア・フィーネは大きく目を見開き、虹彩に更なる恐怖を映し出した。
それを傍で見ていたセファローズはご主人様であるロエルを鋭く睨み付けるが、彼女の行為はたたでさえ不機嫌な彼の反感を買うこととなる。
──鈍い音が寝室に響いた。
見れば、セファローズの薄い腹の芯にロエルの膝蹴りが突き刺さっていた。
清楚で可憐な女が猛烈な痛みに悶え苦しみ、胃液の混じった唾液に噎せ返り、それを白い床に撒き散らす。
ロエルはつまらなそうな視線を送ってから言葉を続けた。
「いやあ、まさか本当に生きてるとはね。魔法の始天使。原罪の立役者。【アンハンゲル】の探し人。危うく逃がしちゃうところだったよ。まあ、ボク的にはどっちでもいいんだけどさ。そもそも無信仰だしね。あのお方……いや、教皇様には恩はあるけど、まあ……いいや。しかし、キミは少し本当におバカちゃんだね。本当にどうして戻って来ちゃったの? もしかしてヒーロー気取り? あームカついちゃうな。そういうの。ボクはね、自分の立場を弁えていない奴が大嫌いなんだ」
また鈍い音が響く。
今度は先程よりも吐瀉物が更に吐き出されたようだ。
だが、不自然なことにセファローズは棒立ちのままで口元の汚れを拭くことも、腹を庇うこともしなかった。
まるで人形のように。
また、寝室内では微かにボソボソと何かを呟くような声も聞こえるようになっていた。
ロエルは全てを無視して話し続ける。
「知ってる? こう見えて世界はね、悪い人が牛耳っているんだ。理や道理が通っているように見えて、実は理不尽に満ちているんだよ。どれだけ努力しても農民の出は上流階級にはなれないとか、正直者が痛い目に遭うとか、良い奴ばかりが先に死ぬとか、ね。今だってそうでしょ。確かにキミは物語の主人公みたいにカッコよく登場したかもしれないけど、このボクを前にしたらただのモブキャラ、噛ませ犬になっちゃった。所詮は人助けだって強者じゃなきゃ成り立たないんだ。一人の主人公にスポットライトが当たる裏では何十人という悪人がのさばっているものなんだよ。それにカーネに潰された【メリディ・リサ】だって『裏切り者の街に対する正義の鉄槌』として揉み消されているしね。この世界での正義はボクたちにあるんだ。何が言いたいかって? 無駄なんだよ。キミという存在は。世界の主であるボクを前にしたら、キミなんかただのクズだ。ボクたちが頑張って探す程の価値なんてやっぱり無かったんだよ、ね?」
ロエルが毒を吐き、セファローズを蹴る。
いやに自然な流れだった。
自ら生み出した怒りの腹いせをセファローズが引き受けるのが当たり前だと言わんばかりに、酒を飲みナッツを頬張りまた酒を飲むくらいのものだ。
セファローズはさぞ苦しいだろう。
全く同じ箇所を、重点的に、痛みで塗り潰すように。
更にはご主人様によって強制的にマナの働きを抑制され、抵抗が出来ないように全身を硬直させられているのだから。
床に広がる吐瀉物には赤い色が混じり始めていた。
だが、彼女を救える者はここにはいない。
「……頼む……どうか……やめてくれ……」
かつて魔法の始天使と呼ばれた女は、昔の面影など見る影も無い程に情けない表情で懇願する。
「あは。これくらい、エルフ族なら元通りになるから大丈夫だよ。折れても萎れても水を掛ければ元通りってね。その辺は何回も何回もテストしたからさ。ていうか、ボクに指図しないでよ。この期に及んで、キミの意見が通ると思ってるの? ねえ? キミみたいな無能はボクと話せるだけでも有り難いと思わないといけないんだよ? だって、キミは他の始天使を、家族を見殺しにしたんでしょ? 何か被害者面してるけどさ、実際そうだよね? 天界が破壊されて、天使が殺されている時、キミは何をしていたの? 何もしてないよね? キミが頑張れば少しくらいは助けられた命があるんじゃないの? 守護天使とかさ、キミにもいたはずでしょ? ああ、そうだ。モンクシュッド男爵だってそうじゃない? キミ、用心棒だったんだよね? 家族を見殺しにしておいて何を呑気にしてるのか知らないけどさ、結局守れてないじゃん? 彼はプエル側にとったら最後の砦みたいな人物だったんだよ? キミなんなの? キミと関わる人は皆不幸になってるよね? ほら、セファちゃんだってそうだよ? 君が助けられなかったから、ボクの命令に忠実に従って、今、自分の手で自分の首を絞めてるよ? もうすぐ死ぬよ?」
「やめろ……! 私の……友人なんだ……!」
「だから、指図するなって。友人なら自分で何とかしようと思わないの? だいぶ弱ってるけど腐っても始天使でしょ? ほら、使いなよ。自慢の魔法。可能性の力だっけ? まあ、無駄だけどね。自然界六元素の力は完全に解析済みだから。この家の壁を見たでしょ。ムリだよ。君じゃ不可能だ。君は何も出来ない」
ロエルの執拗に舌鋒鋭く捲し立てられ、女は顔を俯かせる。
作り物のような冷たさと蒼白さを見せた表情に暗闇のベールが掛かるようだった。
それは心の奥底に閉じ込めていた闇の現れであった。
彼女がそれを人前で露わに初めてである。
一方でその風貌を見たロエルとセファローズは確信を得る。
もう再起は不可能だろう、と。
「だから、キミに良い提案をしてあげる。無能なキミでも役に立てることがあるんだ──ボクの下僕になりなよ?」
ロエルはフッと腕を振り、自らの手で窒息しかけていた操り人形──セファローズを解放する。
目には見えない拘束具を外されたセファローズは床に倒れ込み、赤黒く腫れた自身の腹を抱くようにした。
見るも無惨な姿だ。
同時に涙と鼻水と涎で顔中をぐしゃぐしゃにしながら「逃げて」「ダメ」とひっきりなしに呟いている。
そんなセファローズに対するロエルの目付きはもはや遊び飽きた玩具を見るような冷ややかさになっていた。
彼の標的は完全に切り替わっている。
先程までの抱いていた熱情は「エルフ」ではなく「始天使」に向けられていた。
まだ他の幹部にも、教皇でさえも認識出来ていないな始天使の価値は、例え比較対象が特上のエルフだとしても遥かに上回る。
史書にも詳細が載ってない「最後の始天使マギウェル・デア・フィーネ」を我が物に出来るのならば、セファローズを犠牲にしても良い、という発想が浮かぶのは当然だった。
「黙ってないで選択してよ。ボクのモノになるか、はたまた抵抗するのか。ボクはね、せっかちなんだ。早く選ばないとセファを殺すよ。ボクが考え付く最も苦痛を伴う方法でね」
そう言ってからロエルは卑劣な笑みを浮かべた。
雰囲気的に選択などという言葉を口にしたが、事実そんなものは無いに等しい。
抵抗は無駄であることは身に沁みて感じているだろう。
追いかけっこによって精神は極限まで削りきったはずだ。
更にロエルの見立てではマギウェル・デア・フィーネは情に流されやすく、更にはセファローズを大切に思っている。
守衛室で出会った時は前者を餌と捉えていたが、まさか立場が逆転するとは……やはり人生は喜劇に満ちている、とロエルは改めて自身以外の全てを見下した。
ただ生きているだけで望む物が手に入り、人の頭を踏み付けながら自由気ままに生きられるのだから。
最後の仕上げだ、と胸の内で呟き、芋虫のように転がり続けているセファローズの顔を掴む。
「はーい、ちゅうもーく。今から可愛いセファちゃんの解体ショーを始めまーす。まずはこの宝石みたいな眼球からいこうかなー? それとも舌ベロからいっちゃうー? ね? フィーネちゃん?」
猟奇的な内容を愉快な声色で装飾したロエルの言葉。
そのアンバランスさは逆に狂気を演出し、食い物にされたセファローズの表情と尊厳を更に破壊した。
対して、フィーネは俯いたままである。
暗闇のベールによって表情の隠された彼女が胸に抱いているのはきっと恐怖だろう、とロエルは推察した。
すぐに自身の望む答えを出すと思っていたが、想像より時間がかかっているのは恐怖によって言葉が出ないからだろう、と。
セファローズの右目にロエルの三本指が掛かる。
青白い瞼が捲られ、水浸しの涙袋に指がめり込んだ。
そして、ここでセファローズが初めて胸の内を明かす。
「……助けて……フィーネ」
か細くて震えている声。
それはこれまで気丈に振る舞っていた彼女の本心。
零落した友人の手前、隠すしかなかった恐怖と弱み。
孤独でも戦い続ける為に作り上げた外殻に、少しずつ生じた亀裂が今、瓦解へと繋がったのだ。
痛い程に不可能を思い知ったはずの彼女が、最後の最後で抱いた微かな希望──唯一の可能性に縋る。
それをロエルは馬鹿馬鹿しいと嘲笑した。
今のマギウェル・デア・フィーネにその力は無い。
全ての始天使を狩り尽くしたことを教皇に報告した時、「一人足りない」と焦燥を見せて更に「最も生き残ってはならない存在を逃した」と呟いていたが、それはやはり杞憂だった、とロエルは実物を前にして確信を得ていた。
寝室に沈黙がやって来る。
一瞬だが、セファローズは心からの恐怖を、ロエルは心から期待を抱いたことで、極限まで引き伸ばされた時間。
やがて──マギウェル・デア・フィーネは──。
「クククッ……ハハ……ハーッハッハッハッハ!!!!!! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!」
──狂ったように笑っていた。
常人ならば思わず耳を塞ぎたくなる程の邪悪にして異様、何かが壊れてしまうような笑い声が部屋中に響き渡る。
同時に放出されるは黒の衝撃波。
何よりも暗く、何よりも鋭い辻風が無作為且つ暴力的に吹き荒んでいた。
その発信源は無論、マギウェル・デア・フィーネである。
だが、やはり彼女にかつての面影は無い。
彼女は既にマギウェル・デア・フィーネでは無かった。
可愛げのあった面貌は凶悪な殺意によって塗り替えられ、かつて白き翼の居場所だった背中には漆黒の片翼がまるで剣を突き上げるような鋭利さを以って羽根を尖らせていた。
そして、極光のように滑らかに煌めく白銀の頭頂には、流血の如く生々しい紅色を織り込んだ黒の王冠が浮遊している。
其れは何かを確かめるように己の手の平を暫く眺めてから、僅かに微笑んだかと思えば、力強く、虚空を握り潰した。
歪で不完全、だが、最凶。
女神デアが創り出した美しき箱庭には存在し得ないはずの悪しき生き物がそこにはいた。
「あ、あれ、恐怖でおかしくなっちゃったのかな?」
これまで呆気に取られ、微動だにせずにいたロエルが自身の立場を思い出したかのように軽口を叩く。
「口を慎めよ、小童」
対して、怒りとも呆れとも取れるドス黒い声が返る。
「なっ……!?」
「たった百年と幾許か生きた程度の青二才が、偽りの力を手にした程度で私を解釈するな。この私を誰だと思っている?」
闇を体現したような存在による、殺意を十分に含んだ問いに寝室にいた誰もが圧倒される。
唯一セファローズだけはこれまた悪い笑みを作っていたが。
「貴様の言う通り、私は何も守れなかった。天界も同胞も、心優しき男爵も、私のせいで死した。心を許した旧友も失うところだった。私は……それら全てを守る術があることを知っておきながら、世界に与える影響に考慮して敢えて手を伸ばさなかったのだ。だからこそ全てが手遅れだった」
憎悪を滲ませて彼女は傲慢に語る。
「だが、もう容赦はしない。我が魔法は、いや、我は二度と負けない。魔法を拠り所として自身を鼓舞していた弱き者は死んだ。今ここにいるのは──魔法を操る我こそが至高と知った史上最強の魔法使いである。我は我を信じる。故に負けぬのだ」
敗北を、絶望を、劣等を、苦悩を、全てを受け入れ、全てを糧とし、そして、心を闇に染める。
「光の時代が終わり、人の時代が到来したと言うのならば。人の時代が偽りの信仰と盲目の悪人が地上に蔓延り、誰もが自由に生きられない世界ならば────我が滅ぼしてやる」
彼女は漆黒の片翼を羽撃かせ、右眼に闇を灯らせた。
「光を闇に転じて、我が史上最強の悪人と化す。
我が魔道を邪魔する者は排除しよう。
我が同胞を傷付けた者には復讐しよう。
悪人が世界を支配するのならば、それすらも蹂躙しよう。
遍く悪食を喰らい、永劫の悪夢を見よう。
我がこの世界を貪り尽くすのだ。
我が玉座に君臨す。
そして、【天使法】最終干渉『終末』を我が発令するのだ。
我は世界に終焉を齎す者──魔法の堕天使マギウェル・デア・フィーネである」
もう一度、笑みを浮かべて、無に息吹を注ぎ込んだ。
「『奇跡解放!! 漆黒より深く、閃光より輝け、無限より来たるは我が魔法──【魔導書・顕現】!!』」
奇跡の力によって顕現した白色の魔導書。
表紙には稲妻のような黒色の亀裂が入っていた。
傍から見れば傷のようだっただろう。
しかし、所有者からしてみれば永きに渡る封印に終わりを告げる歓喜の風穴であった。
理屈や思考を置き去りにした、衝動から魔法が顕現する。
「白の魔導書よ、我に力を貸せ。闇に満ちた禁忌の魔導に至った過日、我が身に掛けた制約を今ここで解き放つ──『世界を消滅せし、始まりの闇よ、我が許に顕現せよ──【暗闇】』!!」
魔法の堕天使の身体、その中心から闇が迸り、拡散する。
そして、世界は深淵に包まれた。




