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第41話 長閑な時間 その4


 湯けむりの立ち込める浴室。

 壁一面が石造りで、裸足を踏み出してみれば床は滑りにくくなるような加工が施されているのが分かった。

 浴室の奥に鎮座する浴槽は決して広くはないものの、平民が使うような木製の桶ではなく高級感溢れる陶磁器製である。


 モンクシュッド男爵家の人間は毎日湯船に浸かると聞いて驚いたが、この完成度を目の当たりにした今はそれも頷ける。


 湯けむりの中を進み、鏡の前まで辿り着くと、真っ白な影──ではなく自身の裸体が映し出された。


 相変わらず抑揚の無い身体だ。

 虚栄心から小ぶりな胸を寄せ上げて無理やり谷間を作ってみるが、更に虚しくなるだけだった。

 相変わらず成長の見込みのない部位がある一方で、やはり髪と瞳の色、翼の消失といった変化も依然としてある。


 天界にいる時、鏡の前でポージングを考えていた時とは随分と姿が変わってしまったな、と思いながら石鹸を手に取る。


 何とかして翼を生やす方法は無いだろうか……?


 石鹸にお湯を加えて手を擦り合わせていると、それに含まれた香料が先程まで入浴していた母娘の残り香と合わさり、湿潤さを含んだ妖艶な花の香りが浴室に広がった。

 しばらくすると、手の平に充分な程の泡山が出来上がったので、それを自身の身体に乗せていく。


 生クリームを乗せられるケーキと心を通わせながら白泡に包まれると、タオルを用いて身体の洗浄に移行した。


 白い肢体とその合間に布を往来させる。

 手を動かす度に柔らかく滑らかな肌がぷるりと揺れて、心地の良い痛みが身体中に駆け巡った。

 

 午前中にフェゴール夫人に教わった洗い方だ。

 手の先から首元、胸、腹、下半身、足先までしっかりと。

 出る垢も無いのに手順に従って洗う私。

 天使は生命としては"完全"に近く、圧倒的な吸収効率から食事を取っても排泄は無く、垢や抜け毛も出ない、と夫人には説明したが、信じてはもらえなかった。


 今はフェゴール夫人の監視はないとは言え、こうしてりちぎに洗浄しているのは、ひとえに私が大真面目であるからだ。


 こうして身体を洗浄している間、脳は余暇を持て余しているので思考に耽ることにする。

 久々の孤独だ。

 孤独は嫌いではない、思考を加速させてくれるからな。

 話題はやはり、これまでのモンクシュッド男爵家の者たちとのやりとりだろう。


 ここ【メリディ・リサ】に訪れてからは激動の日々だった。

 と言っても、まだ二日目なのだがな。

 それでも世界の現状と故郷の最悪の末路を知り、迫り来る暗殺部隊を撃退した上で、ヒューマンのマナーを叩き込まれるという非常に濃厚な二日間だったと言えるだろう。


 それらを経て、モンクシュッド男爵家の用心棒という地位を確立した今、激流のような時の流れの中で取り逃してしまった情報を追うこととしよう。


 アールディア正教団に改めて触れてみるか。

 いや、これから始まる魔法教育について考えるべきか。

 そう考えた刹那、モンクシュッド男爵による戦闘指南中の独白が引っ掛かった。


 再び私の恥部を掘り返すつもりはない。

 着目すべきは他の始天使についてだ。

 

 私が管理する魔法は世界に存在しなくても良い。

 それは独白の中でも触れたことであるし、私は今も尚、生命維持の観点においてのみそう考えている。

 一方で、他の管理要素はやはり世界に必要不可欠だ。

 必要不可欠なのだが、現在世界に私以外の始天使は存在していないはずだ。


 そこで気になったのだ。

 なぜ世界は未だに成り立っているのだろう、と。


 始天使は自身の管理対象以外には興味を持たないようにするという暗黙の了解があったせいか、気が付かなかったな。

 モンクシュッド男爵から【メリディ・リサ】の成り立ちを聞いた際か、先の戦闘指南中に聞いておけば話が早かったのだが。


 こういう時に私の思慮の浅さというか、他者との会話が苦手な部分が露見してくるようだ。


 言い訳はさておき、本題に戻るとしよう。

 魔法以外は当然管轄外である為、詳しいことは分からないが下界の根幹を成す要素たちは近年安定化していたものの、それなりの監視と修正は必要だったはずだ。

 それこそ百年に一度は何かが起こっていたような……。


 いや、待てよ。

 何か思い出せそうだ。

 「まあいいか」と見逃した情報の中から……そうだ、ハゼランが「魔物は見なくなった」と言っていた。


 それは明確な変化、もとい異常だ。

 下界の生命分布は確か……「生と死」と「感情」若しくは「捕食」の管轄だったはず。

 待て、他にも何か気になっていたことがあった。


 この二日間での曖昧だが指摘するまでもない変化。

 我が右目の僅かな痛みでもなくて……胸の奥に疼く黒き衝動でもなくて……ああ、何だか太陽が眩しいのだ。

 以前までは天界にいても「眩しい」と感じることはなかったのだが、百年後の下界では度々思う時があった。


 天界という巨大な雲群が消えたからだろうか。

 星々の始天使ルキスが生きていれば聞くことが出来たのだが……いないから正確なことは分からないな。

 まあ、今のところ実害は無いから良いか。


 そう言えば、ルキスには最後まで嫌われたままだったな。

 もう少しで仲良くなれそうでもあったものの、皮肉かな、彼女から貰った星のペンダントだけが私に残された形見となってしまった。


 ……これからも大切にしよう。


 そして、大切にしていく為には世界が無くてはならない。

 

 あくまで推察だが、ここまで連ねた異常を顧みるに、世界は破滅の道を歩み始めていることが考えられる。

 それもそうだ。

 これまで不眠不休で働いてきた世界の管理者たちがいなくなってしまったのだから。 


 破滅に向かう世界を救う為にはどうするべきか……。


 ──「天界再建」

 ふとそんな言葉が脳裏を過ぎる。

 無限の可能性を秘めた魔法を以てすればあるいは……。


 いやしかし、故郷も家族もいない虚ろな世界において、再び私が世界の管理者に就くというのも気が乗らない。

 天使の時代が終わり、人の時代がやって来たというのならば受け入れてやるのも一興だ。

 それに、モンクシュッド男爵家での生活も悪くはない。

 世界が滅びゆく運命ならば、いっそのこと……。


 うーむ……中々難しいな。


 【聖都】で信仰を集めている「世界の救世主」とやらは、どう考えているのだろうか。

 まさか気が付いていないわけではあるまい。


 それと信仰と言えば、初日に訪れた【メリディ・リサ】の教会でも気になった事があったな。

 なんたら集団とかんたら幹部だったか?

 状況が状況だったので、はっきりとは覚えていない。


 気になることがありすぎてよく分からんな。

 機会があれば誰かに聞いてみるとしよう。


 全身を洗い終わったので思考を止め、お湯で洗い流す。


 以前までの屋敷では浴槽のお湯を使って泡を流していたそうだが、先のマナー講座で私は水道魔法(ウォータ・クラシオ)を施した。

 その結果、頭上付近の魔法陣に手を翳して良い感じに捻れば良い感じのお湯の雨が降り注ぐようになっている。


 私は白雨の中へ身を投じた。

 身体中の泡を洗い流すと同時に、自身の胸に手を伸ばす。

 白い平原に盛り上がる控えめな双丘に、若干指を埋めながら舐め回すように手を動かした。


「ん……己の胸を弄るとは……実に変な感覚だな……」


 これは風呂マナー講座の準備待機中に、レヴィアからこっそり教えてもらった「バストアップ体操」である。


 聞くところによると、レヴィアの友人の一人は齢十二にして大層豊かな胸を持っているようで、それを育んだのがまさしくこの「バストアップ体操」という話なのだ。

 ポイントはしっかりと泡立てた石鹸を塗った上で、このようにお湯で流しながら胸を揉むことらしい。

 

 ここで、先程まで律儀に泡を塗りたくっていたのは決して当体操の為では無いということは強く主張しておく。


 勘違いしないでもらいたい。

 私の胸は一万年経ってもこのままだったのだ。

 今更ヒューマンの少女たちの間で流行している風説を試したところで、万年手の平サイズの我が胸が成長するはずがない。


 だが、まあ、私は無限の可能性を司る者である為、念の為真偽を確かめる義務があるとは思う。

 なので、もうしばらく試してみることにする。


 ──それから半刻程。


 湯船に浸かっても尚、胸を揉みまくっていた私。

 手の運動に段々と目が回ってきて、白い肌が嘘のように赤く火照り出し、乳の先が妙な感じになってきた所でようやく浴室を出た。


 効果の程は分からん。

 ただ、すごく虚しい気持ちになったことは確かである。


 こんな時は魔法を発動させるに限る。

 身体の水滴と複雑な心境を吹き飛ばすのに相応しい魔法──【乾燥魔法(パナ・ドライヤ)】を発動させた。

 基礎魔法【旋風(デア・ウィンド)】の殺傷能力を完全に取り除き、簡易的に改良した日常魔法だ。

 

 足元から起こった突風が一瞬にして湿り気を吹き飛ばす。

 やはり「日常魔法」は便利だな。


 そうして脱衣室に用意されていた寝間着(女性物と男性物があったので後者を選んだ)を身に纏って、脱衣室を後にした。

 

 今日は休んでくれ、と言われていた私は夜の屋敷内を進む。


 目的地は私の部屋。

 一階の調理場付近にある。

 前任者(確かメラルドという名だ)の部屋をそのまま引き継ぐ形となったのだが、彼はほぼ一日中門の前に立って護衛を果たしていたらしく、部屋は至極綺麗であった。

 

 昨晩も寝泊まりしたわけだが、その寝心地は最高だった。

 これまでの人生における最高峰のベッドだったと思う。

 食事も美味しいし、住む者も賢明であるし、本当にモンクシュッド男爵家様々である。


 隣室のルビネッタの部屋を通り過ぎて、真鍮製のドアノブに手を掛けた時、調理場の方から物音が聞こえてきた。


 コックが明日の朝食の下拵えをしているのか、と考え付き、当然の如く好奇心を覚えた私はドアノブから手を離した。

 調理場はすぐそこだ。

 胸を高鳴らせながら近付いていってみると想像とは異なる音──食器同士が触れ合う高い音ではなく、パラパラと紙を捲る音が聞こえてきた。


 妙な懐かしさを覚えながら顔を覗かせると、テーブルに向かって身体を伏せる令嬢レヴィアの姿があった。


 暗がりの中で、蝋燭の灯りだけが辺りを照らしている。


「何をしているのだ?」


「ひゃあ!? フィーネ様!? ど、どうしたのですか!?」


 丸い目を更に丸くして、明らかな動揺を見せるレヴィア。

 私と同じく風呂上がりということで、普段とは違うくるくるを解いた長髪となっており、少し大人っぽい印象を受ける。

 その身のネグリジェがそれを更に助長させているようだ。


 先程の脱衣室に置かれていた物と同じであろうネグリジェはかなりの薄着であるが、やはり胸は膨らんでいない様子。

 一瞬仲間意識を覚えるが、彼女はまだ幼い。

 どうかそのままであってくれ、と大人気なく願う私がいた。


「物音がしたので来たのだ。私の部屋はすぐそこだからな」


「そ、そう言えばそうでしたわ。前まではルビィしかいませんでしたから。そ、その……フィーネ様。このことは他の方には内緒にして下さいませんか?」


 遠慮がちに聞いてくるレヴィアの手元には手軽な本があり、よく見てみれば「チェリーパイ」という文言が目に入った。

 調味料や材料(草花もあった)、完成形等の絵もある。

 所謂レシピ帳というやつか。


 彼女は内緒と言ったが、今から作るのだろうか。

 夕食を済ませたばかりであるというのに、レヴィアも中々隅には置けないな。


「良いだろう……その代わり私にも食べさせてくれ。ちょうど甘い物が食べたかったのだ」


「い、いえ今から作るのではありませんわ! 作るのは明日の朝なのです」


「なるほど……? では、なぜ内緒にする必要がある」


「実は明日の狩猟遊びに持っていこうと思っていますの。お父様に食べて頂きたくて、ひそかにお母様と計画を立てていたのですわ」


 と語るレヴィアの耳は見事な桃色だった。

 その様子に温かな家族愛を垣間見た私は、少しだけ彼女たちを羨ましく思うのと同時に寂しさを覚える。

 私が完全に失ってしまったものを彼女は持ち合わせていた。


 下界に存在する地の民の中で、ヒューマンは特段弱い。

 他の種族と比べて身体は脆く、寿命も動物や魔物に次いで短い。

 しかし、その反面彼らは強い心を授かっている、

 だからこそ、いつの時代も絶えることなく強く確かな愛を育むことが出来るのだ。


 もし仮に本当に世界が破滅の道を進んでいるとして。

 私がこのまま立ち止まったままでいれば、目の前の景色は失われてしまうのか、と漠然と考えた。


「よし……その約束、必ず守ることを誓おう。黎明の時、我が魔法の力が必要とあらば声を掛けるがいい。私ならば音を立てずに地水火風雷光を顕現させることが可能だ」


「あ、ありがとうございます!」


「その代わりと言ってはなんだが……少し聞いても良いか?」


「勿論ですわ……? わたくしがフィーネ様にお伝え出来ることがあれば良いのですけど」


「うむ……レヴィアは始天使を知っているか?」


「はい! 始天使様と言えば、世界を支えながらわたくしたちのご先祖様を助けてくださった本物の守護者ですもの!」


 先程までの可愛らしい態度とは打って変わって、こちらに身を乗り出さんばかりの勢いに若干圧倒される。

 いつだったか、知名度アップを試みていたことがあったが、いざ信仰が滲む眼差しを目の当たりにすると気が沈むようだ。


 眼前のレヴィアが"用心棒フィーネ"に向けて言っているわけではないとは理解しているのだがな。


 とは言え、これは良い機会だ。

 浴室で思い浮かんだ疑問を解決するチャンスである。


「そう……今から百年前、世界の根幹を成す要素を八名の始天使が管理していた。それは勿論レヴィアも知っているな?」


 まずは常識的な所から話を広げていこうと考えた私。

 それから現在の管理状況に繋げていく算段だ。

 間髪入れずに心地の良い返事が再び返ってくると思っていたのだが、なぜかレヴィアは怪訝そうな表情を浮かべていた。


「細かいことですが……フィーネ様、始天使様は七人ですわ」


 そう言ってから、七つの名前をスラスラと列挙したレヴィア。

 確かに彼女が口にした名前は私の記憶と合致していた。

 魔法の始天使が除外されていること以外はな。


「待つのだ……レヴィア。魔法の始天使マギウェル・デア・フィーネが抜けているぞ。光の使者、最後の生き残りだ」


「そ、それは……フィーネ様が作った設定の中の……独自の存在ですわよね?」


 なるほど……。

 そう来たか。


 私はもう、始天使を名乗る面白可笑しい存在としてモンクシュッド男爵家の者に認知されているのだな。


 そして、どうやら魔法の始天使はいなかったことにされているらしい。

 まあ、元々知名度は低かったからな。

 それに我が真の魔法は忘れ去られていたし、私の自己紹介を聞いた者たちもピンときていなかった様子だった。

 

 納得出来ないが、納得出来る。


 はあ……。

 上手く話を展開しようと試みていたが、出鼻を挫かれたので完全に意気消沈してしまった。


 今日は寝よう。


「レヴィアよ、私はもう眠くなってきてしまった」


「へ? 聞きたいことはもうよろしいのですか?」


「うむ。明日は成功すると良いな……レヴィアに光の祝福あれ」


 驚いた顔のままでいるレヴィアを後にして、私はふかふかのベッドがある部屋に向かうのだった。


 難しいことを考えたので、今日はよく眠れそうだ。


 と何の成果も出ていないのにも関わらず、充実感を覚えて廊下を歩いていると意外な出来事に出くわした。


 黒い影が私の部屋の前に立っていたのだ。


「夜分遅くにすまない、フィーネ嬢。渡しておきたいものがあるのだが、少し良いかね」


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