第36話 黒影 その2
時が止まったかに思えた。
目の前の光景を脳が処理しきれず活動を停止する。
それから堤防が決壊したように困惑、焦燥、恐怖が一気に押し寄せて、それが絶望になりかけた所でサラマンダーはようやく我に返った。
目の前の用心棒が右手をこちらに向けてきたのだ。
一瞬にして肌が粟立ち、背筋が寒くなる。
闇夜に浮かび上がる青白い手の平は、今や自分たちを射殺す凶器としか思えなかった。
「散開しろッ!!」
サラマンダーは思わず声を出していた。
闇の道を歩む暗殺者にとって己に関する情報を与えることは敗北、もとい死に繋がる。
それが例え些細な情報、声色であってもだ。
だからこそ仲間内だけが分かる手信号や目配せ等を決めておくのだが、今はそれこそが命取りになる状況だった。
というよりも記憶に刻まれた適切な手信号を探している余裕が無かったと言った方が正しい。
静寂の中で響き渡るサラマンダーの声に、唖然としていた仲間たちがビクリと身体を震わせてから敵を取り囲むように散らばった。
その光景に安堵する。
まだ、大丈夫だ。
まだ、戦える、と。
黒鴉は常に最悪の状況を想定して行動してきた。
──もし、途中で仲間が死んだとしても任務は必ず遂行する。
その覚悟は未曾有の敵を前にしても健在だ。
サラマンダーはそのまま後ろに下がって距離を取った。
遊撃役ノームは屋敷側、用心棒の右後方を位置取り、その対角には支援役ウンディーネが庭に生えた木に隠れるようにしている。
各々が出来る戦意を持ちながらの最大限の後退だ。
しかし、屋敷の庭はお世辞にも広いとは言えない為、用心棒との距離はさほど遠くない。
サラマンダーが暗殺家業を始めて早十年、暗殺対象にもっと大きな家を買っておけと思ったのはこれが初めてだった。
とりあえず何より優先すべきは情報収集だ。
敵の情報を掴み、対策する。
黒鴉はそうやって数多の困難と試練を乗り越えてきた。
とは言え、全員が仲間を失ったことに動揺している。
長期戦はミスを生むだろう。
手早く済ませなければ、とサラマンダーは眼光を鋭くした。
「憐れな……まだ私と戦う気か。その黒き翼では雲の上で光り輝く奇跡の使徒には届かん。暗殺は諦めて巣に帰るのだ」
憎たらしいまでに美麗な声で泥をかけてくる用心棒。
確かに彼女の瞳、立ち居振る舞いからは依然として殺気が感じられなかった。
黒鴉のことを敵とすら認識していないのだろうか。
だが、甘い。
それが奴の弱点だ。
サラマンダーは既に勝機を見い出していた。
用心棒はおそらく素人だ。
主人を狙いに来た暗殺者に向かって長々と自己紹介をする用心棒など聞いたことがない。
加えて、魔法使い、ということも自信満々に語っていた。
用心棒にルールがあったならば奴はとっくに独房入りだろう。
敵に容易に情報を明け渡すその傲慢さが、奴自身に刃を向くのだ。
サラマンダーは指をくるりと二つ回して「包囲」を指示する。
それから遅滞無く、三人がほぼ同時に動き始めた。
いつでも回避出来るように準備しながらジリジリと距離を縮めて敵の攻撃を誘発するのだ。
一歩、二歩、と足を進めると敵に動きがあった。
やはり奴は戦闘経験が浅い。
完全に狙い通りだ。
「我が慈悲を蔑ろにし、自ら死に近づくとはな……ならば、最強の用心棒にして、至高の魔術師であるマギウェル・デア・フィーネに挑んだことを後悔させてくれる──『塵を焼く、始まりの炎よ、我に力を──【発火】』」
難解な言葉──詠唱を唱える用心棒。
奴の手にあった分厚い本、おそらく魔導書の頁がひとりでに捲られ始めて、淡い光を放ち始めた。
やがて、奴の視線は包囲する黒鴉の中で僅かに多く距離を詰めていた支援役ウンディーネに向かった。
よし、とサラマンダーは安堵する。
驚くべきことに奴は"本物の"魔法使いだ。
【メリディ・リサ】の監視者からの情報は正しかった。
世間一般に知られる魔道具ではなく、とっくに忘れ去られた古のやり方「詠唱」を用いて魔法を使ってくる。
直接見るのは初めてだったが、歴史書の通り魔法発動まで時間がかかっていた。
それ即ち、敵に準備する時間を与えるということ。
幸い支援役ウンディーネは水の魔道具を多く持っている。
火を消すには水。
それは例え魔法でも従わなければならない自然の摂理だ。
やがて用心棒の手の平から炎が放たれた。
いくら本物な魔法とは言え、【発火】は基礎魔法として知られる最も低威力の魔法のはずなのだが、その炎は周囲一帯を昼と錯覚する程に照らしてウンディーネに襲いかかる。
そこらの魔道具とは明らかに火力が違うようだ。
対してウンディーネは「【水壁】」と唱えて魔道具を発動させる。
注ぎ込まれた少量のマナに反応して、金の指輪に嵌められた水色の石が輝き、水の障壁を作り出した。
海の一部を切り取って持ってきたような重厚な壁はあらゆる遠距離攻撃を失速させ、多く場合は無力化する。
更に今回の相手は炎だ。
どれほど火力があっても突破は不可能。
「【水壁】か……賢明な判断だが、相手が悪い。『【転術】──空に鳴り響く、始まりの雷よ、我に力を──【雷鳴】』」
「──ッ!? ──あ」
炎を水の壁が遮る瞬間、用心棒が更に何かを唱えた。
すると、竜の息吹のような炎が渦を巻きながら纏まり始めて一筋の線のようになったかと思えば、何かが弾ける音の後に雷に変化、ウンディーネの細い身体を貫いた。
馬鹿な。
有り得ない。
発動した魔法をそのまま別の魔法に変えるだと?
そんな横暴が罷り通って良いのか?
だが、あの青白い閃光はまさしく雷であり、直撃したウンディーネは地面に倒れて動かない。
「呆けていても奴は二度と起き上がらんぞ──『目下に広がる、始まりの土石よ、我に力を──【土塊】』」
四度目の詠唱。
殺される、そう思っても足が動かなかった。
妙な力強さを帯びた言葉を言い終えた用心棒は顔だけを動かして横を一瞥すると、人差し指をなぞるようにして上から下にほんの少しだけ振った。
次の瞬間、巨大な岩石が遊撃役ノームの頭上に突如として現れる。
極度の緊張が作り出した静寂の中、誰もが声を出せずにいるとグシャッという音と共に大地が鳴り響いた。
唯一生き残ったサラマンダーは吐きそうになる。
勿論、血が苦手などという理由ではない。
岩石の下で僅かな欠片と液体と化した仲間は、何かが違えば自分だったかもしれなかった。
目前に迫った死の恐怖とどこか安堵の気持ちを抱いた自分に吐き気を催したのだ。
これが発現者、魔法使いの力なのか。
何もない所から風、火、雷、土が生み出される光景は、魔道具を扱うサラマンダーをして、理解の範疇を超えていると判断せざるを得なかった。
【メリディ・リサ】に潜伏していた諜者から情報の情報提供を、任務の障壁とはならない、と蔑ろにせずよく聞いておくべきだった。
今から三日程、突如として魔法の力に目覚める者が現れた。
原因は全く不明。
加えて、その現象は主に辺境の地で確認されたということで、アールディア正教団より魔法の使用禁止の託宣が下された。
曰く「原罪に及びかねない力」らしい。
百年前以前は世界中の人々が扱っていたというその力は「女神の落日」を機に酷く不安定化し、新魔法の開拓も不可能となった為、教皇様を含めた【アンハンゲル】が代替品且つ上位互換品として作り出した魔道具が流通して久しい。
サラマンダーが人を殺して間もない頃、聖都にある大聖堂の地下に忍び込んだことがあった。
堅牢な扉の先にあった本棚から興味本位で手に取った史書には天地を揺るがすような魔法、記憶に残っているのは「勇者のみが討伐可能な魔王を力任せに倒した究極の魔法」が書かれていた。
他にも「瞬く間に長距離移動を可能にする魔法」や「外見のみならず感情まで模倣した分身魔法」なんかもあった。
それを言葉だけを用いて扱っていた者と同じ根源の力を持つ者が目の前にいる。
どこか超然とした彼女は自身と同じヒューマンとは思えなかった。
──だが。
サラマンダーは否定句を頭に浮かべる。
だが、それは伝承にすぎない。
例え史実だったとしても、この辺境の地で用心棒をしている彼女が歴史書の化け物と同一人物であるはずがないのだ。
もっと言えば、この現代に魔法が復活してまだ三日しか経っていない。
究極魔法まで習得した者などいるはずもなく、その証拠に用心棒は現代における基礎魔法しか使ってこない。
つまり、奴にこれ以上の力は無い。
この戦いにおいて予想は外れてばかりだ。
そのせいで仲間を三人失ってしまったと言ってもいい。
だが、進まねばどの道死があるだけだ。
どんなに不確かであっても進む理由にさえなれば構わなかった。
「黒鴉、最後の一人よ……貴様はよく頑張った。だから逃がしてやってもいい」
対して、サラマンダーは腰に付けたナイフを逆手に握る。
黒鴉を舐めるな、と何とか絞り出した怒りをバネにして強く足を踏み出した。
血流にマナを漲らせて、少しでも速度を出す。
決死の覚悟で突撃した身体が用心棒の元へ届く刹那、サラマンダーは初めて敵の表情が歪むのを見た。
今更、殺害を後悔しているのか、とも思ったが、よく見ればそうではない。
それは間違いなく恐怖だった。
見紛うはずがない。
サラマンダーは暗殺対象が浮かべるその表情が好物なのだ。
相手が強ければ強い程、初めて浮かべた恐怖は輝く。
なぜ?
一瞬そんな疑問が浮かんだが、すぐに掻き消される。
サラマンダーの脳内は既に狂喜に支配されていた。
勝てる。
今宵初めての獲物を前にして、サラマンダーは普段以上の力を発揮する。
依然として動かない、いや、動けないでいる用心棒の背後に回り込み、その首をナイフで斬り裂いた。
確実な肉を断つ感触。
血飛沫が地に散りばめられる音が鼓膜を震わせる。
それは何にも代えがたい快楽の味だ。
用心棒はゴボゴボと音を立てて膝を付いた。
手に握られたナイフには真っ赤な鮮血。
魔法使いは近接戦闘には向いて──
「い、痛い……痛いじゃないか!!」
「……は?」
サラマンダーは声を出して驚く。
それも当然だ。
確実に首を切り裂いたにも関わらず、用心棒は立ち上がり言葉を発して──いや、よく見てみれば傷は綺麗に塞がっていた。
目に涙を溜めて首元を擦っている姿は、まるで掠り傷をした子供のようだった。
サラマンダーはもう一度ナイフを見る。
確かに刀身には血が付着していた。
もっと言えば、血が付く前には獣畜をものの数秒で息絶えさせる程の強力な毒が塗られていたのだ。
だが、用心棒が倒れる様子はない。
何なのだコイツは。
全てを投げ出してしまいそうになるサラマンダーだったが、歪む視界の中でとある物を捉えた。
魔法使いの魔導書だ。
思えば用心棒は常に魔導書を持っていた。
何かを読んでいるような仕草は見せなかったが、詠唱に反応してか輝きを放っていたのは間違いない。
いや、元来魔導書は魔法使いをサポートする役目を持っていた、と史書か何かで目にしたことがある。
最早考えている暇など無かった。
余裕綽々と言った風か、咳払いをしたり、「あー」などと言ったりしている用心棒との距離を一気に詰めた。
そして、奴の左手首を叩き斬り魔導書を奪うことに成功した。
「痛いッ!! ってそれは私の!!」
「馬鹿が。油断したようだな。お前はこれがなきゃ何も出来ないんだろ」
手中に収めた魔導書を見るとニヤケが止まらなかった。
共に視線をくぐり抜けてきた仲間たちを一瞬にして葬り去る程の暴力的な強さを誇っていた用心棒を無力化したのだ。
ここに至ることが出来たのはまさに僥倖と言ってもいいが、絶えずに思考を続けたおかげでもある。
今度こそ確実に勝った。
普通に倒すよりも悦びが大きかった。
この女をどうしてやろうか、と想像するだけで身体の芯から興奮してくる。
聖職者たちに明け渡すのは確定として、それまでは多少好きにあつかっても良いはずだ。
貧困街の浮浪者たちに嬲らせてやろうか。
いや、コイツの手で暗殺対象アシュマン・モンクシュッドを殺させるのも良い。
いっそのこと、調教の末に奴隷にするのも手だ。
楽しくて仕方が無い。
抑えられぬ悦びを発散する為に、ちょうど良い所にいた敗北者を蹴り上げようとする。
しかし、力を抜きすぎたのか避けられてしまった。
「チッ……避けやがって、雑魚が」
「……貴様、何か勘違いしているな?」
用心棒は斬ったはずの手首をまた擦りながら言った。
心底呆れたような表情で。
その姿にサラマンダーは首を傾げる。
「は? お前、傷が……」
「魔法によって回復しているとでも思ったか? 黒鴉よ、人生の終幕を迎える前にその記憶に刻んでおくがいい。喉を斬っても死なない生命もいる、とな」
「ば、馬鹿な……お前は何者だ」
「それともう一つ、新たな天啓を得た記念に教えてやろう。貴様が盗んだ白の魔導書は戦闘においては私を引き立てる装飾に過ぎない。カッコいいから手に持っているし、カッコいいからひとりでに頁を捲るようにしているだけだ。まあ、それが無ければやる気にならないというのもまた事実だがな」
訳の分からないことをペラペラと話す用心棒。
カッコいい?
コイツは戦闘中にそんな事を考えていたのか?
許せなかった。
もはや死んでいった仲間などどうでもいい。
眼前の飄々とした表情が、先程までの恐怖を払ったこの女が許せない。
何か活路は無いか、と未だに手中にある魔導書を無我夢中で捲ってみる。
しかし、その殆どが空白だった。
再び肌が粟立つのが分かり、反射的に前方を見る。
用心棒はニヤニヤと笑っていた。
「クククッ……貴様も気になるだろう? 私の新たなる天啓が──神託ちゃん二号よ、聞こえているか!」
用心棒の呼びかけに手元の魔導書が淡い光を放つ。
『はい、マスター』
「今から私と貴様の中のマナ残滓を接続する。その後、既に回復済みの基礎魔法一回と半分のマナを送るぞ。私の言いたいことが分かるな?」
『全て承知しました、マスター』
夢でも見ているのか。
喋り始めた魔導書にサラマンダーは気が狂いそうになる。
それでいて未だにかつて無い焦燥感に襲われていた。
用心棒は何か事を起こそうとしている。
状況は全く把握出来ていないが、ひとりでに頁を動かす魔導書が更なる輝きを放つのを見て確信した。
狙うべきはコイツだ。
手首に付けた【火球】の魔道具にマナを最大限まで送り、魔法名を唱えて直ちに発動する。
サラマンダーの腕輪の赤い石が輝き、火の球が現れた。
ただの火の球ではない。
暗殺者となってから長年愛用してきて、これまで幾つもの生命を焼き殺した火の球だ。
『マスター、接続が完了しました』
「よし、では遠隔発動を許可する。行くぞ──」
『「──【火球】」』
魔導書が白い光を霧散させると、炎の球が顕現する。
方法は違えど、それはサラマンダーが発動させた魔法と全く同じもの──のはずだった。
魔道具による【火球】と魔法による【火球】がぶつかり合い、そして、あっけなく"本物の炎"が全てを飲み込んだ。
薄れゆく意識の中、次々に思い浮かぶ過去の情景の中で、大聖堂の地下にあった史書に「至高の魔術師フィーネ」という名前があったのを思い出してから、サラマンダーは灰となった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ふう、と私は息を吐いた。
ナイフで斬られた手首に傷が無い事をしかと確認してから、活躍してくれた白の魔導書を空に放り投げて消失させる。
いやはや、一時とは言えマナ切れになるとはな。
何度か脅してやれば恐れをなして逃げ帰ると思ったのだが、最後の最後までしぶとい奴らだった。
おかげで身体中血塗れである。
魔道具に頼っている時点で力量の差は明らかだと言うのに、盲目的に何度も立ち向かってこれたものだ。
とは言え、成果もあった。
まずは覚醒から少量でもマナを得たことで魔法の無効化を再度実現出来たこと。
次に白の魔導書の人工的な知能部分──「神託ちゃん2号」を活用した魔法の遠隔発動を閃き、実用化出来たこと。
これらは今後戦闘があるのならば大層役立つことだろう。
黒鴉のリーダーらしき男が私の大切な魔導書に触れるという嫌悪感から、あの天啓に至ったのは我ながら天才的だ。
やはり男は駄目だな。
なんと言っても胸が無い。
あとはまあ……近接戦闘は全く出来ないと改めて分かったことも成果と言えば成果だろう。
身体を斬られたのは初めてだったが、やはり痛いのだな。
早くマナを集めて身体の護りを高めたいところだ。
「『其の源を我に──【吸収】』」
周囲に霧散していた暗殺者たちのマナをかき集める。
あまり多くはなさそうだが、やらないよりはマシだろう。
一帯の空気が僅かな輝きを見せた後、身体中に明瞭感が溢れた。
『所有マナの上昇を確認──【水壁】、【風刃】、【岩石砲】【散雷】が接続可能になりました』
意外と増えたな。
接続可能な魔法が増えていくのは喜ばしいことだが、やはり放出された全てのマナを回収することは難しいようだ。
などと考えていると、背後で扉の開く音がした。
見れば、剣柄に手を掛けた此度の暗殺対象モンクシュッド男爵だった。
戦闘に参加していないにも関わらず、汗だくで息を荒くしている。
「ぶ、無事か、フィーネ嬢。助けに行くべきか、却って邪魔となるか、悩んでいる内に全て終わってしまった。すまない」
「うむ……案ずるな。貴殿も心労があっただろう。だがしかし……少々気持ちが悪いというか……まるで身体に毒が回っているような──うぅ……オエッ」
口から赤と白の液体、カプレーゼ(のようなもの)が出てきた。
掃除することを申し出たが、断られる私。
カプレーゼの処理をモンクシュッド男爵に任せて、温かい風呂に入り、フカフカのベッドで眠りに就くのであった。




