好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が
ジェラルドは王弟であり、そして二十二歳という若さで飛空騎士団の騎士団長を務めていた。
肩でゆるく縛ったプラチナ・ブロンドの髪はやわらかく艶めき、晴天での飛空中は陽光を弾いて美しく輝く。
きめ細かい白皙の肌に、瞳は珍しい碧と琥珀色のオッド・アイ。すらりとした美丈夫で、その細腕で驚くほどの大剣を意のままに振るい、襲い来る魔物から王都の平和を日々守り続けていた。
周囲を魅了してやまない彼は、王弟という高貴な身分でありながら妻帯しておらず、そもそも婚約者すらいなかった。
理由は単純明快である。
――ジェラルドは、筋金入りの女嫌いだったのである。
◇
他者からの好意というものは、ジェラルドにとって煩わしい以外の何物でもない。
ジェラルドはただそこに存在しているだけなのに、周囲の注目を根こそぎ集めてしまう。耳が痛くなるほど甲高い嬌声を浴びてしまう。うっかり目でも合おうものなら失神させてしまう。
うっとうしいことこの上ない。
今日もジェラルドは遠巻きに熱い視線を送ってくる女性たちを完全黙殺し、足早に訓練所へと急ぐ。
飛空騎士団に属する騎獣たちのため、騎獣舎を兼ねた訓練所には広大な敷地が割り振られていた。緑にあふれたこの場所に来ると、ジェラルドはいつもほっとする。
「おはようございます、団長」
「ああ。おはよう、ディルク」
出迎えてくれた副団長であるディルクに挨拶を返し、ジェラルドはあからさまに眉を跳ね上げた。
ディルクの後ろに、見知らぬ女の姿が見えたからだ。ディルクはすぐさま察した様子で、一歩下がって女性の隣に立つ。
「紹介いたします。こちらはバーレイ伯爵家ご令嬢、エヴェリーナ様です」
「エヴェリーナと申します。殿下にお目にかかれて光栄です」
「…………」
ジェラルドは無言でエヴェリーナを見やった。随分と奇妙な令嬢だ、といぶかしく思う。
エヴェリーナはドレス姿ではなく、男物のズボンを身に着けていた。
そしてあろうことか化粧をしておらず、素顔がむき出しだった。せっかく豪華な金髪は、装飾もなく後頭部で一つに結んでいる。
「エヴェリーナ嬢は、その、実は……」
「わたくしは、今日からこの騎獣舎で見習いとして働かせていただくことになったのです」
言いにくそうに言葉を濁すディルクの後を引き取って、エヴェリーナがはきはきと告げた。
「ジェラルド殿下。お耳汚しとは存じますが、我がバーレイ伯爵家の事情をお聞き願えますか?」
そうして生真面目な表情を崩さぬまま、エヴェリーナが静かな口調で語り出した。
◇
先代バーレイ伯爵――エヴェリーナの父親が亡くなったのは、今から八年前のことであったという。
跡継ぎである弟は、当時まだたったの十一歳。エヴェリーナたちの母親は弟を産んですぐに亡くなっていて、つまりはエヴェリーナたちには頼れる保護者がいない状況だった。
「わたくしは当時十八で、かろうじて成人はしておりましたが、世間知らずの若輩者でございました。伯爵家の家督に目がくらんだ親戚たちはわたくしたちを侮り、我先にと後見を申し出ました。……乗っ取りを企んでいたのは、誰の目からも明らかでしたわ」
エヴェリーナは、それをきっぱりと退けた。
幼い弟が成人するまでは、エヴェリーナが後見として弟を支える。親戚たちには堂々とそう宣言した。
エヴェリーナは当時結婚を控えた身の上だったが、婚約者に事情を説明し婚約は解消となった。
それから八年。
エヴェリーナは自らの幸せは捨て、弟と伯爵家のために尽くした。伯爵家当主代行として日々励み、名ばかり当主である弟を厳しく教育し、亡き両親に代わってありったけの愛情を注いだ。
「――その甲斐あって、弟は昨年立派に成人いたしました。それから早一年、少しずつわたくしも手を離し、今では完璧に伯爵家当主として独り立ちしております」
「それは喜ばしいことだ。……それで、あなたがここで働く、というのは?」
苦虫を噛みつぶしたような顔でジェラルドが問うと、なぜか副団長であるディルクがその巨体を縮こまらせた。
冷や汗をかきながら、「実は……」と言いにくそうに口を開く。
「その、エヴェリーナ嬢に、頼み込まれまして。何度も断ったのですが、しつこくしつこく食い下がられまして」
「わたくしはこれまで、自分の人生をバーレイ伯爵家に捧げてまいりました。今、こうして自由を手にしたからには、己に正直に生きていこうと決めたのです」
ディルクの言葉をさえぎって、エヴェリーナが進み出た。
八年前に十八ということは、今では二十六歳のはずだ。けれども化粧っ気がないせいか、ひっつめ髪ですべすべの額が丸出しのせいか、ジェラルドの目からはとてもそうは見えなかった。まるで十代の無垢な少女のように映る。
「――ずっと、お慕い申し上げておりました」
苦しげに絞り出された声音に、ジェラルドははっと我に返った。
エヴェリーナの言葉が浸透するにつれ、急激に心が冷えていく。
……ああ、またか。
やはり女というのは、誰も彼も皆同じだ。
失望するジェラルドには少しも気づかずに、エヴェリーナが必死になって言い募る。
「たとえこの思いが叶わずとも、ただお姿を見られたら幸せなのです。側にいて、吐息を感じられるだけでいいのです。わたくしに気を許してくれずとも、わたくしは身も心も尽くしたいのです」
熱をはらむ、潤んだ瞳でジェラルドを見る。
ジェラルドは嫌悪を感じて、端正な顔をゆがめた。明確な拒絶を示すため、手のひらをエヴェリーナに突きつける。
「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」
「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣――……ライオネル様のことがっ!」
突き出されたジェラルドの手を握り、エヴェリーナが叫んだ。
頬は真っ赤に染まっていて、キャッ言っちゃった!というように恥ずかしげに目を伏せる。
「……………………は?」
ジェラルドの口から、大層間抜けな声が漏れた。
◇
「はああ。はああ……。好き。好きすぎます」
『…………』
「らららら、ライオネル様っ。おおおお初にお目にかかりますです。わわわたくし、エヴェ、エヴェ、エヴェリーナとももも申しまする。かしこ」
『……グフッ』
騎獣舎のライオネルは、こらえきれぬように噴き出した。
それまでは全く興味がなさそうに寝そべっていたのに、わずかに顔を上げてエヴェリーナに銀色の瞳を向ける。エヴェリーナが感極まったように目を潤ませた。
「ら、ら、ら、ライオネル様……! あの、あの、よろしければ、御髪を整えさせていただける栄光をっわたくしにお与えくださいませんでしょうかっ?」
ライオネルは少し考え、ややあって緩慢に頷いた。
エヴェリーナは歓喜する。
「ありがとうございます! 騎獣に関する書物を、ぼろぼろになるまで読みふけりました。こちらは最上級の魔木から作られたブラシで、魔力の通りが格段に良くなるそうなのです。では、失礼して……」
ぶるぶる震える手でブラシを握り、エヴェリーナはライオネルに歩み寄る。
ライオネルは、金色の獅子に似た見た目をしていた。
星を散りばめたような銀の瞳に、ふさふさした豊かなたてがみ。背中から伸びる翼は雄々しく立派で、ここだけ羽毛のような手触りだ。
「や、やわらか……っ。い、いかがでございますかライオネル様? ご不快ではございませんか?」
『グルルルル……』
ライオネルは目を閉じて、気持ちよさそうに唸っている。
それでエヴェリーナも安堵したようで、丁寧な手つきでライオネルの巨体をブラッシングしていく。「素敵」「極上の毛並みです」「ライオネル様は世界一格好いい」などと、合間合間に大げさな賛辞を差し挟む。
ライオネルは素知らぬ顔をしていたが、傍観しているジェラルドには丸見えだ。三角の耳がぴくりぴくりと反応している。
「……おい、ディルク」
地を這うような低い声に、ディルクがビクッと巨体を揺らす。
「一体何なのだ、あれは?」
「も、申し訳ありませ……」
ディルクは苦しげに謝罪すると、ジェラルドに合図してライオネルとエヴェリーナからさりげなく距離を取った。
エヴェリーナは少しも気づかない。ライオネルの毛並みに夢中だ。
自分の動向に気を払わない女がこの世に存在することに、ジェラルドは静かな衝撃を受けた。
「そのう……見ての通り、エヴェリーナ嬢は大の騎獣好きなのです。彼女が騎獣に目覚めたのは齢三歳のころ、亡きお父上の騎獣に一目惚れをしたのがきっかけだったそうです」
「…………」
『目覚め』だの『一目惚れ』だの、一般的に騎獣に使う言葉ではない気がする。
ジェラルドは頭痛をこらえた。
騎獣とは誰もが持てるものではない。
上質で秀でた魔力を持つ者でなければ騎獣の主にはなれず、そのため騎獣を持てるのは魔力の高い高位貴族に限られる。
「あれだけ騎獣好きなのに、彼女自身は騎獣を持っていないのか?」
「弟君は高い魔力を有しておいでですが、残念ながらエヴェリーナ嬢の魔力は平均以下でした。それでも諦めきれず、何度も『魔鳥卵』を入手してはみたものの、一度も孵らなかったそうです」
騎獣は『魔鳥卵』と呼ばれる魔獣の卵から生まれる。
魔鳥は鋭く長いくちばしを持つ鳥型の魔獣で、その子育て方法はかなり特殊だ。一度の産卵で四、五個の卵を産み、最も大きい一つを除いて母鳥が巣の下に蹴落として捨ててしまう。
魔鳥は険しい崖の上に巣を作り、寒さのゆるんだ春先に産卵をする。
崖下に落とされた卵は傷一つ付いていない。そのままだと朽ち果てていくだけだが、人間が魔力を注いで『主』となれば、様々な見た目をした極上の騎獣が生まれるのだ。
「エヴェリーナ嬢は何年もかけて、卵に毎日必死に魔力を注いでみたそうなのですがね」
「ライオネルはたった一日足らずで孵った。短期決戦で一気に魔力を注いでこそ、強く賢く美しい騎獣が生まれるのだ」
ジェラルドは得意気に胸を張った。
ライオネルはジェラルドの自慢だった。
その翼は力強く、飛空騎士団のどの騎獣よりも速く飛ぶことができる。戦闘時には言葉で指示を出さずとも、ジェラルドの意のままに動いてくれる。
「騎獣はなかなか主人以外に心を開かず、世話をできる者はまれでしょう? ライオネルがエヴェリーナ嬢を気に入らなければ、他の騎獣に割り当てるつもりだったのですが……」
ディルクが困ったみたいに肩を落とした。
ジェラルドは眉をひそめる。
どうやらディルクのこの様子では、エヴェリーナが騎獣舎の世話係見習いになることは決定事項のようである。普段から細かな人事は副団長に任せきりとはいえ、伯爵令嬢が騎獣舎で働くなどとは前代未聞だ。
「ディルク。なぜ、彼女を採用した?」
「うぐぅ……っ!」
ディルクが苦しげに胸を押さえた。
その視線はうろうろとさまよい、額からは脂汗がにじみ出ている。
「金でも積まれたか? それとも色仕掛けか?」
「ちっ違いますッ!!」
悲鳴を上げて、ディルクは慌てたように自身の口をふさいだ。
ぎくしゃくとエヴェリーナの方を確認するが、彼女は何も気づいていない。嬉しそうにブラッシングを続けていて、その周囲には花が飛んでいる幻が見える。
「違う、のです……」
強面の顔をゆがませ、ディルクがしょんぼりした。
「実は、彼女と自分は……その、元、婚約者、でして……」
「はああ!?」
ジェラルドが目を剥く。
「親同士が決めた婚約者で、互いに好意があったわけではありません。それでも彼女が婚約の解消を申し出た時は、自分もかなり迷いました……」
幼いころからの婚約者として、懸命に伯爵家を守ろうとする彼女を支えるべきではないのか。
弟が成人するまで、彼女を待ち続けるべきではないのか。
ディルクも葛藤したと言うが、ディルクの両親がそれを許さなかった。
何よりエヴェリーナの後押しもあり、婚約は円満に解消され、一年ほど後にディルクは別の貴族令嬢と婚姻した。今では二児の父親である。
「それで、まあ、今回彼女から『どうか力になってほしい』と頼まれて断りきれませんで。騎獣舎でなど働かず、良縁を探そうかとも申し出たのですが、怖い笑顔で即座に断られてしまいました」
「……さすがに元婚約者からそんな申し出をされたら嫌だろう。その程度、男女間の機微にうとい俺ですらわかるが」
あきれ果てるジェラルドに、「そんなものですかね」とディルクはますます落ち込んだ。
こちらの密談など知らぬげに、エヴェリーナは大興奮でライオネルの毛並みを堪能している。
ライオネルも満更ではなさそうで、リラックスした様子で目を閉じていた。ジェラルド以外の人間に、ライオネルがここまで心を許すのは珍しい。
(しかし、女か……。好意を向けられるのがうっとうしいな。どうしたものか)
考え込みながら、エヴェリーナに歩み寄る。
何度か声を掛けたが返事をしないので、業を煮やしたジェラルドは、嫌々ながら彼女の肩を軽く叩いた。エヴェリーナが驚いたように振り返る。
「あ、いたんですか?」
「…………」
いたんですか?
ジェラルドは我が耳を疑った。いたんですか?
生まれてこの方、そんな問いかけは一度もされたことがない。好むと好まざるとに関わらず、ジェラルドはいつも周囲の注目の的だった。
好意、羨望、敵意、嫉妬。
種類は違えど、いつだって周囲はジェラルドを放っておいてはくれないのだ。
それなのに。
あ、いたんですか?
いたんですか?である。いたんですか?
「……エヴェリーナ嬢。団長……いや、ジェラルド殿下に対して失礼であるぞ」
ディルクが控えめにたしなめて、エヴェリーナははっとしたように目を丸くした。
「あッ、申し訳ございません! 言い直しますね。……まあ、いらっしゃったのですか?」
「…………」
言い直したから何だというのか。
ジェラルドの端正な顔から、完全に表情が抜け落ちていく。
ハラハラしたように自分を見守るディルクの視線を感じながら、ジェラルドは静かにエヴェリーナに向き合った。
「……それでは本日より、ライオネルに誠心誠意仕えるように」
◇
騎獣は主の魔力だけを糧とする。
その命すら主と分かち合っていて、主が生きている限り騎獣はどれだけ傷ついても死ぬことはない。その代わり、主が死を迎えるとき、騎獣もまた終わりを迎えるのだ。
「……何を与えている?」
翌朝。
いつも通り騎獣舎に来たジェラルドは、エヴェリーナに怪訝そうに問いかけた。
ライオネルの前には大きな白皿があり、皿の上では特大のステーキが湯気を立てている。
ひざまずいていたエヴェリーナは、すぐに立ち上がって優雅に礼を取った。
「おはようございます、殿下。こちらは牛肉のステーキでございます」
「それは見ればわかる。俺が聞きたいのはそうではなくて」
「ええ、わかります。ミディアム・レアですわ」
「焼き加減を聞いているわけでもないっ」
エヴェリーナと会話していると、どうにも頭が痛くなってたまらない。
不思議そうに首を傾げるエヴェリーナに、ジェラルドは歯を食いしばって説明する。騎獣に必要なのは主の魔力だけで、食物摂取は必要ないことを。
「存じております。ですが栄養としては必要なくとも、楽しみとしての食事は必要です」
エヴェリーナは澄んだ青の瞳で、まっすぐにジェラルドを見つめる。
「我が父の騎獣も、好んで野菜を食べておりました。ライオネル様は獅子のような見目ですから、お肉がお好みなのではないかと考えたのです」
そう言って、確かめるようにライオネルに視線を向けた。
ライオネルは興味津々といった様子でステーキの匂いを嗅ぎ、躊躇なくばくりとかぶりついた。驚いたように瞳孔を開き、またたく間に完食してしまった。
「ライオネル様、ご満足いただけましたか?……わあっふふっ、くすぐったいですっ」
じゃれつくように、ライオネルがエヴェリーナに毛並みをこすりつける。エヴェリーナは可憐に頬を染め、うっとりとライオネルのたてがみを撫でた。
「……ライオネル。そろそろ朝の飛行に行くぞ」
低く命じたジェラルドに、ライオネルは動きを止める。
エヴェリーナを見つめ、ゆっくりとひざまずくようにその巨体を伏せた。まるで「乗れ」と言わんばかりに。
「……っ。ライオネル!?」
「まあ。ライオネル様」
エヴェリーナは一瞬だけ目を丸くして、すぐに寂しそうに微笑んだ。
「わたくしは行けません。空を駆けたらどれだけ素敵だろう、と幼いころより夢想しておりましたが、父は決してそれを許しませんでした。父の騎獣に乗せてもらったことは、一度たりともないのです」
「…………」
ジェラルドは眉根を寄せてエヴェリーナを見やる。
朝の飛行は、あくまで肩慣らしだ。
魔物が活性化するのは魔力が一日で一番強まる夕暮れ時であり、その時間帯は飛空騎士団で集中的に上空を見回りする。これが夕方の飛行であれば、ライオネルは決してエヴェリーナを誘わなかっただろう。
「……おい。ライオネル」
『グルル〜』
ライオネルはじっと純真な瞳でジェラルドを見上げた。
尻尾がぱたぱたと左右に揺れている。「おいしかったの」とその瞳が言っていた。
「…………」
飛空騎士団の中でも、己の騎獣におやつを食べさせる騎士はそれなりにいる。けれど、ジェラルドは一度もそうしたことはなかった。
必要のないものを、わざわざ与える意味がわからなかったからだ。
(……だが、これほど喜ぶのだな)
ジェラルドはこれまでの自分の行いを悔いた。ライオネルを喜ばせるのは、いつだって自分でありたいのに。
はあ、とジェラルドの口からため息が漏れる。
踵を返してロープを取ってきて、「乗れ」とエヴェリーナに指示を出した。
「え?」
「先に乗れ。それから落ちぬようにロープで固定する。……空を、駆けてみたいのだろう?」
信じられない、と言うようにエヴェリーナが目を見開く。
小さく震えながら、ライオネルを振り返った。ライオネルは鷹揚に頷き、エヴェリーナが乗りやすいよう再び地面に伏せる。
「……っ。し、失礼、いたします……」
恐る恐る、エヴェリーナがライオネルにまたがった。
感激したように何度もライオネルを撫で、豊かなたてがみにそっと顔を埋める。うっとりと目を閉じた。
「準備が整いました、殿下……。さあどうぞ、わたくしとライオネル様を、ぴったりと隙間なく縛り上げてくださいませ」
「阿呆。縛るのはライオネルとお前ではなく、俺とお前だ」
あきれて突っ込みながら、ジェラルドもひらりとライオネルにまたがる。
エヴェリーナを後ろから抱き締めるようにして、腰の辺りにロープを巻きつけた。
「よろしいのですか? 失礼ながら殿下は、女性があまりお得意ではないと伺っておりますが……」
「得意不得意で表すならば不得意だが、お前に関しては別に何とも思わない」
ジェラルドはそっけなく告げる。
(そもそも、これは女ではないしな)
ジェラルドに好意を持たず、ジェラルドの顔に見惚れず、ジェラルドに色目を使わず、そして挙句の果てには「いたんですか?」である。ジェラルドにとって、それはもはや女の定義に当てはまらない。
「しっかり掴まっていろ。――飛べ、ライオネル!」
ライオネルの翼がはためく。
ぐんと一気に飛び上がり、風に乗って高度を上げる。エヴェリーナの口から声にならない悲鳴が漏れた。
「……っ」
空はどこまでも晴れ渡っていて、雄大な王城があっという間に豆粒大に小さくなっていく。
上空の空気は澄み渡り、遠くで湖が光を弾くのが見えた。エヴェリーナが大きくあえぐ。
その肩が激しく震えているのに気づき、ジェラルドは眉根を寄せた。
騎士でもない、まして令嬢には刺激が強すぎたかと、気遣おうとした瞬間だった。
泣き濡れた顔で、エヴェリーナがジェラルドの方に身をよじる。
「……すごい。すごいです、殿下」
頬を寄せ、吐息がかかりそうなほど距離が近づく。おくれ毛がジェラルドの唇にかすかに触れた。
エヴェリーナは、へにゃり、と子どものようにあどけない笑みを浮かべる。
「わたくしに、こんなにも広い世界を見せてくださって――……心から感謝いたします、ジェラルド殿下」
「……!」
心臓がドクンと大きく跳ねる。
触れ合う体が熱い。ジェラルドは大慌てで赤くなった顔を背けた。
……どうして、「女ではない」などと思ってしまったのだろう?
動揺するジェラルドに少しも気づかず、エヴェリーナは体勢を戻して無邪気に空の旅を楽しんでいた。
◇
騎獣舎は、これまで以上にジェラルドにとって心安らげる場所となった。
朝、騎獣舎へと向かうジェラルドの足取りは至極軽い。
「おはようございます、殿下」
「……ふん。おはよう」
ゆるみそうになる顔を引き締め、ジェラルドはエヴェリーナへ無愛想に挨拶を返す。
ライオネルは気持ちよさそうな顔で、エヴェリーナからブラッシングされている最中だった。
「ブラッシングが終わったら、俺とライオネルは軽く上空を見回ってくる」
朝の飛行にエヴェリーナを同行させるのは、天候の良い日を選んで週に一度といったところだ。毎朝だとありがたみがなくなりそうだし、ジェラルドの心臓が保たない気がするからだ。
エヴェリーナは特に不満そうな様子もなく、心得たように頷いた。「もう少しで終わります」と真剣にブラシを動かす。
(いつもながら丁寧な仕事でよいな)
心の中でつぶやいた褒め言葉は、実際にジェラルドの口から出たことはない。どんな顔をして伝えればいいかわからないからだ。
「ライオネル様、今日の毛並みもつやつやでございますね。好き。好きすぎます」
(エヴェリーナの髪だって美し……いや、まあライオネルには負けるがなっ!?)
ジェラルドはぶんぶん首を振り、己の思考を追い払った。
そんな不審な行動をしていても、今日もエヴェリーナは少しも気づかない。彼女が見ているのはいつだってライオネルだけなのだ。
ジェラルドにはそれが不満で、ふう……と聞こえよがしにため息をついてみる。なんて悩ましげなのかしら、と数多の女たちを虜にしてきた吐息である。
『へきちっ』
「まあ! ライオネル様のくしゃみは何と可愛らしいのでしょうっ」
「…………」
ライオネルのくしゃみに負けた。
ブラッシングで飛んだ毛が、ライオネルの鼻をくすぐったらしい。エヴェリーナはくすくす笑いながら、ライオネルの鼻を優しく拭いてやる。
「……さ、終わりましたわ。あら? どうかされましたか、ジェラルド殿下?」
「いや……行ってくる」
ライオネルを連れてすごすごと騎獣舎から出かけて、ジェラルドはすぐに足を止めた。
エヴェリーナに言わねばならないことがあるのを思い出したのだ。
「エヴェリーナ嬢。来月の城の舞踏会にはむろん出席するのだろう?」
「え? いいえ、出ませんけれど」
「えっ!?」
ジェラルドは目を剥いた。
何ということだ。王である兄から「お前もたまには令嬢をダンスに誘え」と毎回叱られることに辟易し、けれども今回はエヴェリーナがいるじゃないか、と己を奮起させたというのに。
(肝心のエヴェリーナがいない、だと……!?)
エヴェリーナが困ったように微笑する。
「わたくしが出席すれば、弟がわたくしをエスコートせねばならなくなるでしょう? 舞踏会は出会いの場。行き遅れの姉が側にいては、弟の邪魔になりますもの」
「なっならば、この俺がエスコートしよう!」
考える間もなくジェラルドは叫んだ。
己の発言に驚き、顔が一気に熱くなる。
それでも、引くことはできない。
エヴェリーナの手を取って、ジェラルドはその瞳をじっと覗き込む。エヴェリーナの目が泳いだ。
「それは……わたくしは、殿下にご迷惑をおかけするのも嫌なので……」
「迷惑などではない!」
「……駄目なのです。どうぞ、わかってくださいませ」
エヴェリーナは静かな口調ながら、きっぱりと拒絶した。ジェラルドは絶句する。
初めてこれほどまでに他者を求めたのに、受け入れてもらえなかった。
絶望感を味わうジェラルドの背後で、ライオネルが低く唸った。ジェラルドははっと目を見開く。
(……そうだ!)
「――エヴェリーナ嬢! じっ実は、当日はライオネルも連れて行く予定なのだ! 舞踏会仕様で見栄え良く着飾ってやるつもりで」
「行きます」
エヴェリーナは食い気味に身を乗り出し、すぐさま前言を翻した。
◇
それでも、エヴェリーナはジェラルドのエスコートだけは断固として断った。
ジェラルドは不満気だったが、エヴェリーナにだってちゃんとわかっているのだ。
貴族令嬢でありながら騎獣舎で働く自分が、ひどく異質な存在であるということを。変わり者の行き遅れなどをエスコートすれば、ジェラルドが失望されてしまう。
「姉様。とてもお綺麗です」
舞踏会当日。
弟であるトーミが、大げさにエヴェリーナを褒め上げる。
エヴェリーナはこれまで伯爵家当主代行として、年若だからといって舐められぬよう年配の夫人が好むような地味なドレスばかりをまとっていた。化粧もあえて老けて見えるよう厚塗りしていたほどだ。
けれど今日のエヴェリーナは、父が存命だったころのドレスに久しぶりに袖を通した。
化粧は淡く、エヴェリーナ本来の美しさを引き立てる程度にとどめている。
エヴェリーナは弟の賛辞にはにかんだ。
弟のためにも、今日は『普通の』令嬢に徹して目立たぬよう気をつけようと誓う。
そんなエヴェリーナの決意は、王城の大広間に到着した瞬間にもろくも崩れ去った。
「ライオネル様ッ!! はああ、はああ……っ何という素敵なお姿なのでしょうっ」
ライオネルが得意気に胸を膨らませた。
金のたてがみは品よく編み込まれ、その立ち姿はいつも以上に凛々しく見える。
首には絹の深紅のリボンが巻かれていた。たてがみに隠れるのを考慮してか、たっぷりとした長さで金の毛並みに良く映えている。
「素敵。好きです。好きすぎます」
「姉様。落ち着いてください」
はあはあと息を荒くするエヴェリーナを、困ったようにトーミが止める。周囲から明らかな嘲笑が聞こえた。
「さすが、『バーレイ伯爵家の行き遅れ』ですわね」
「お見苦しいこと。ジェラルド殿下とお近付きになるために、殿下の騎獣にまで色目を使われるなんて」
「仕方ありませんわ、あのお年なのですもの。後がないと必死なのですわよ」
エヴェリーナはきつく唇を引き結ぶ。
顔色を変えた弟の手を掴んで止めようとした瞬間、「……後がない?」と低く冷え切った声が割って入った。
エヴェリーナははっとして振り返る。
「後がない……後がない、だと? 貴様らは、エヴェリーナの一体何を見ているのだ?」
碧と琥珀のオッド・アイに、怒りをたぎらせたジェラルドだった。
いつもの騎士服ではなく、王弟らしく今日は漆黒の礼服を身に着けている。エヴェリーナに暴言を吐いた令嬢たちが真っ青になった。
「ジェラルド殿下――」
エヴェリーナをかばうように立ち、ジェラルドが令嬢たちを睨み据える。
「エヴェリーナは前しか向いていない。いっそ清々しいほど、己の欲望に忠実なのだ。なぜだと思う?――エヴェリーナには『後』ではなく、無限に広がる『この先』があるからだ」
ぴしゃりと告げて、ジェラルドはエヴェリーナに向き直った。
うやうやしく己に差し伸べられた手に、エヴェリーナは目を見開く。
「――エヴェリーナ嬢。どうかわたしと踊っていただけませんか?」
「…………」
エヴェリーナは声もなく、ただジェラルドを見つめ返す。
胸が高鳴り、エヴェリーナの瞳がぼうっと熱に浮かされる。
「……困ります」
「えっ?」
ジェラルドはぎょっとした。
まさかこの状況で、断られることは想定していなかった。焦るジェラルドをよそに、エヴェリーナは困惑したように自身の胸を押さえる。
「困るのです……どうしましょう? わたくし、ライオネル様に負けないぐらい、ジェラルド殿下が素敵に見えてしまいました。わたくし……ジェラルド殿下を、お慕いしてしまったのかもしれません」
「はああッ!?」
「どうしましょう……。ジェラルド殿下は、女性がお得意ではありませんのに。もしやわたくし、騎獣舎を首になってしまいますか?」
泣きそうな顔を向けられて、ジェラルドの思考が焼き切れる。
はくはくと口を開くばかりで何もしゃべれない。嬉しさよりも驚きが勝って、どう答えればいいのか少しもわからない。
『――ガウッ!!』
「っ!」
背後からライオネルに吠えられ、ジェラルドはビクッと肩を揺らした。
悠然と歩み寄ってきたライオネルが、鼻先で荒々しくジェラルドの背中を押す。慣れ親しんだ、銀の星が散る瞳で見つめられ、ジェラルドは急激に落ち着きを取り戻していく。
「……エヴェリーナ」
静かに呼びかけると、エヴェリーナは覚悟したように顔を上げた。悲痛な覚悟を決めた表情だった。
小さく笑い、ジェラルドは強引にエヴェリーナの手を取る。
「何の問題もない。……言っただろう? 女性は不得意でも、お前だけは別だと」
「……え……」
「――俺も、心からお前を慕っている」
耳元にささやきかければ、エヴェリーナの体が激しく震え出した。
その体を衝動のまま抱き寄せて、ジェラルドはきつく目を閉じる。温かな幸福感に浸っていたら、背後から突然体当たりをかまされた。
『ガウガウ〜ガウッ』
「わかった、わかった!……エヴェリーナ。ライオネルもお前を慕っているそうだぞ」
『ガウッ!』
元気いっぱいな返事に、こわばっていたエヴェリーナの表情がゆるんでいく。
それを見て、まだまだライオネルには敵いそうにないな、とジェラルドは苦笑した。
「……ジェラルド! ようやく、ようやくお前も身を固める気になってくれたか!?」
「あっ、兄上!?」
国王である兄が、歓喜に顔を輝かせて駆け寄ってくる。慌てて周囲が道を開けた。
ジェラルドは思いっきり顔をしかめる。
このままでは、暴走した兄がこの場で婚姻を命じるのは想像に難くない。それは断じて嫌だった。
王命などではなく、エヴェリーナには自分自身の言葉で求婚したい。
そう思った途端、ジェラルドはエヴェリーナの手を取って走り出していた。ライオネルもすぐさま追ってくる。
「おいっジェラルド!?」
「姉様〜〜〜〜っ!?」
「今宵の舞踏会、我らはこれにて失礼させていただきます!」
振り返りもせずに告げて、ジェラルドはバルコニーに飛び出した。
エヴェリーナと共にライオネルの背中に飛び乗り、ライオネルはすぐさま力強く床を蹴る。
「……っ。わ、あ……っ」
「今日はロープがないからな。俺にしっかりしがみついていろ、エヴェリーナ」
力強く抱き寄せれば、エヴェリーナが頬を染めて頷いた。
闇の中で輝く王城を眼下に見下ろし、二人は冷たい夜の空気を吸い込んだ。ほてった体が冷えていくのが心地いい。
(ジェラルド殿下が、好きすぎます)
どうしてか照れくさくて、ライオネルに愛を捧げるようには素直に口に出せない。
だから今はまだ、心の中でひっそりと。
エヴェリーナは噛みしめるようにしてつぶやいた。
お読みいただきありがとうございました!
余談ですが、エヴェリーナの亡き父の騎獣は小さな羽の生えたピンクの豚さんで、鳴き声は「プクプク」でした☆
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