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「……本当に、お前さあ」
担任の声は、呆れ半分、面倒半分、そしてほんの少しの苛立ちを含んでいた。
「自分の価標が無色って、どういうことか分かってる? 高校三年で、もうすぐ社会に出るんだぞ?」
私は視線を机に落としたまま、答えない。
「ルールに従うのが嫌なのか? 反抗してるつもり?
それともただの怠慢? どっちにしても迷惑だよ」
言葉の刃が、皮膚をかすめていく。
「こんな調子じゃ、選定会だって……」
「先生ー!これ、提出するやつですよね?」
不意に、他の生徒が声をかけてきた。
担任がそちらを向いた瞬間、私は無言のまま教室を出た。
教室を出た後、なぜかまっすぐ帰る気にはなれなかった。
まるで、どこかで深呼吸をしたいみたいに。
私の足は、そのまま進路指導室の前で止まった。
ノックをしてドアを開けると、中には進路指導のサカイ先生が一人で書類に目を通していた。
「あれ、アリスさん? どうしたの?」
「少し、話があって……」
私の声は少し硬かった。
サカイ先生は眼鏡を外し、椅子を回してこちらを向いた。
「まあ、座って。冷たいお茶でも出せればいいんだけどね」
冗談みたいなことを言いながら、書類を脇に寄せた。
私は静かに椅子に腰を下ろした。
「……私、無色のままで。
選定会のことも、正直、よく分からなくて」
「何をしても、価標が反応しないんです。
みんなと同じことをしても、私だけ──変わらない」
サカイ先生はしばらく黙って、それから眉間に軽くしわを寄せた。
「……そういう子、毎年いるよ。
真面目で、一生懸命なのに、どうしてか、色がつかない子」
「私ね、ずっと疑問なんだよ」
サカイ先生は、ふっと視線を窓の方にやった。
「どうして“見えない価値”は、誰にも伝わらないんだろうって。
誰よりも静かに頑張ってる子が、最後に置いていかれるこの仕組み……」
声が、どこか悔しそうだった。
私は言葉も出せず、黙って先生の横顔を見つめた。
「でもね、アリスさん……」
サカイ先生は、少し言葉を選ぶように、息を整えた。
「僕も、この制度の中で働いてる。
生徒に“価値”をつけて、それを“指導”って言わなきゃいけない立場なんだ」
「だから、本当は──」
そこまで言って、先生は少し口をつぐんだ。
「ごめんね。
立場のわりに、無力なことばかり言って」
私は、下を向いたまま、膝の上で手を握った。
「じゃあ……私は、どうすれば」
「……分からないんだ。
僕だって、君たちの“正しさ”を守りたいと思ってるけど、
本当に君を救うには、何かを“壊す”必要がある気がしていてね」
「それでも……」
サカイ先生は、椅子の背にもたれながら、ゆっくりと言った。
「“色がつかない”のは、アリスさんの価値がないからじゃない。
君が、まだ誰の色にも染まってないだけかもしれないって──
そう思うことは、きっと間違いじゃないよ」
それは、“教師”という立場を越えた、
一人の人間の本音に聞こえた。
私は立ち上がって、頭を下げた。
「ありがとうございました」
声がかすれていたけど、サカイ先生はうなずいてくれた。
私は迷わず、ルルの教室の方へ向かった。
廊下の角を曲がると、
ルルが一人で靴箱の前に立っていた。
たぶん、帰ろうとしていたところ。
「ルル」
彼女が振り返る。
「アリス……どうしたの?」
私は息を吐くように言った。
「……選定会のこと」
「ああ……」
ルルの表情が、少し曇る。
私たちは並んで歩きながら、昇降口の柱の影で立ち止まった。
放課後の空気はすこしだけ涼しくて、けれど張り詰めていた。
「……そろそろ、本当に色をつけないとマズいよね」
私の声は、どこか他人事のようだった。
「どうしよう?」
ルルは少しだけ考えるような顔をしてから、静かに言った。
「でもさ、無理やりやっても、価標って反応しないんだよね」
「うん……私、やったつもりなんだけど、
みんなと同じことしても、全然変わらなかった」
「私も」
小さな声が、靴箱の方に吸い込まれていった。
「でも、“とりあえず何か動いてるふり”だけでも、記録に書けるし……」
「図書室の整理とか、校内ボランティアとか」
「SNSで“共感っぽいこと”書くのも、わりと反応取れるって」
「“共感っぽいこと”ね……」
私たちは、わずかに笑った。
それがほんとに意味のあることかは分からなくても、
“無色のまま立っているよりはマシ”だと、どこかで自分に言い聞かせていた。
「じゃあ、また明日。相談しながら、なんかやってみよう」
ルルがそう言って、笑った。
私はうなずいて、
その笑顔がちゃんと見られたことだけで、救われる気がした。




