5
放課後。
太陽の位置が少し斜めに傾き始めていて、影が伸びていた。
廊下には、部活に行く子たちのざわめきがうっすらと響いていて、
私の靴音だけが妙に響く。
あの子の教室の前まで来てしまったのは、たぶん少しだけ、怖かったから。
“またあとで”って言ったルルが、昼休みにも姿を見せなかった。
私はただ、“様子を見るだけ”のつもりだった。
でも──
ガラッという音とともに、
ルルが突然、教室の扉を開けて飛び出してきた。
目が合う。
一瞬だけ、私を見た。
何かを言いかけたような口元だった。
でも、ルルはそのまま走り去ってしまった。
見下ろすと、床にひとつのヘアピンが落ちていた。
ルルのヘアピンだ。
胸がざわざわする。
理由が分からないまま、私はそっと、彼女の教室のドアに近づいた。
中には、まだ数人の女子が残っていた。
ペンのキャップをカチカチ鳴らしながら、笑い声がこだまする。
私は、少しだけ開いたドアの隙間から、そっと耳を傾けた。
「ねえマジで、今日のルルの顔見た? ガチで泣きそうだったんだけど」
「だって“色なし様”だもんね〜。感情くらい隠せば?」
「あの机の紙、昨日より効いたかもね。あれさ、ウケるよね。価値ゼロの“ゼロ標”とか」
「てかさ、誰が貼ったとか、もう関係なくない? あれ、事実じゃん」
聞きたくない、知らなくてよかった言葉だった。
でも、耳は勝手に拾って、心に刻みつけてしまう。
私は、その場を離れようとした。
気配を消すように、足音を立てないように、
ドアの陰から、静かに体を引いた。
「ていうかさ――」
声のトーンが少しだけ低くなって、笑いが混じった。
「いつも一緒にいる、あの子いるじゃん。無表情の、喋んない子」
「あー、なんだっけ、ア……アリス?」
「そう。あの子もゼロ標でしょ? 価値ゼロ同士、お幸せに~って感じ」
「あはは、いいねそれ。ゼロとゼロで、マイナスになったりして」
「マジで、色なしって見てるとこっちの価標まで濁りそう」
「触ったら移るとか聞いたし」
「うわ、きっも〜」
笑い声が、ガラスを割るみたいに響いた。
私は、体の奥が急に冷たくなるのを感じた。
私は皆から見えていないと思っていた。
聞かれていないと思っていた。
でも、ちゃんと“蔑まれて”いた。
ルルと、私は、価値ゼロ。
踏まれて、笑われて、それでも何色にもなれない私たち。
……帰ろう。
そう思って、私は踵を返した。
そのときだった。
廊下の角の、死角になった柱の向こう。
誰かの姿が、ふと視界の端に映った。
誰かが、そこに立っていた。
制服の襟元をゆるく留めて、
壁にもたれながら、
こちらの様子を静かに伺っているように見えた。
一瞬だけ目が合ったような気がしたけれど、
相手は視線を逸らすでもなく、ただ、そこに立っていた。
……知っている子では、なかった。
すぐ近くの教室で、誰かがささやいた。
「ナギって、またあんなとこでひとりで立ってんの」
「白銀のくせに、影が薄いよね」
私は、その名前を聞いた。
ナギ。
名前だけが、胸の奥にひっかかるように残った。
顔も声も知らないのに、なぜかその名前だけは強く、焼きつくように覚えた。
私がその場を離れると、
ナギと呼ばれたその子は、
ゆっくりと、柱の陰に姿を消していった。
その背中に、
確かに“誰かを見ていた視線”の重みだけが残った。