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──真っ白な霧の中にいた。
音がない。
風もない。
ただ、遠くから“水の滴る音”だけが響いている。
足元は確かに地面なのに、感触が薄い。
歩こうとしても、足が進まない。
「……どうして、そんな顔をしてるの」
声がした。
振り向くと、そこに“誰か”が立っていた。
性別も、年齢も、はっきりしない。
長い髪のようにも見えるし、短く刈り込まれているようにも見える。
ただ──その瞳だけは、やけに鮮やかだった。
「黒は……ただの汚れじゃない」
淡々と、けれど温度を帯びた声。
「塗り潰された記憶の色だよ」
胸が、ずきりと痛む。
意味は分からないのに、なぜか涙がこみあげた。
手を伸ばそうとした瞬間──
「おーい! 起きろ!」
耳をつんざく声で、世界が割れた。
◇
「っ……!」
飛び起きた私の目の前に、ナズナの顔があった。
「……な、何?」
「集合だよ。今日の作業分担、決まったから」
「……作業?」
「金稼ぎ。シェードもタダじゃ生きられないからさ」
眠気を引きずったまま周囲を見ると、他のメンバーも準備をしている。
ナギはすでに起きていて、屈強そうな長身の男性サイと並んでいた。
肩には大きな麻袋を担いでいる。
ツクモが全員を見渡して告げる。
「今日は二手に分かれる。
ナズナとアリスは、街での回収作業。
ナギとサイは、搬送と積み下ろしだ」
サイと呼ばれた男性は無言で頷くだけだったが、その背中は岩のように動じない雰囲気を持っていた。
ナギはその隣で少し緊張した表情をしている。
ナズナがこちらを見て、口の端を上げた。
喉の奥がひりつく。
──あなたも破標でしょ?
そう言い返したくなったけれど、ここではそれを口にする勇気はなかった。
ナズナの笑みは、どこか余裕と挑発の入り混じった色をしていて、
私の言葉なんて軽く受け流されそうな気がしたからだ。
◇
回収作業──というのは、表向きは“不要品の収集”だった。
街の外れや廃棄場から、金属や古布、使える部品を拾ってくる。
シェードではそれらを修理・加工して売るのだという。
「……つまり、ゴミ拾い?」
「まあ、言い方悪いけどそんなとこ。
でもね、制度の中じゃ価値ゼロでも、こっちじゃ飯代になる」
ナズナは慣れた足取りで廃ビルの中に入っていく。
足音がやけに響く。
「シェードの仕組みって、こんな感じなの?」
「大まかに言えばね。表で色を失った奴らが集まって、
最低限食っていけるだけ稼ぐ。物々交換も多いし、現金も必要なときはある」
「危なくないの?」
「危ないよ。制度の連中に見つかれば終わりだし、
同じ影の世界でも、こっちを食い物にするやつはいる」
笑いながら言うけれど、その笑顔は目まで届いていなかった。
ふと、さっきの夢の言葉が脳裏をかすめる。
──黒は、塗り潰された記憶の色。
胸がざわついたけれど、私は何も言えずに黙って歩いた。
◇
一方その頃──
ナギはサイとともに、荷車に積まれた金属部品を黙々と運んでいた。
「……重くないか?」
「平気だ」
短く返された声に、ナギは少し驚いた。
寡黙な男だが、その動きは正確で迷いがない。
サイは荷物を下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「色があろうがなかろうが、運ぶ重さは変わらない」
ナギは一瞬、その言葉の意味を考えていた。




