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私は、
自分の手を見つめていた。
ここに来るまで、何を考えていたのか──
正直、よく思い出せない。
ただ、
息が詰まりそうで、
立っていることすら苦しくて。
気がつけば、ナギの手を握って、走っていた。
……覚悟があったわけじゃない。
何かを信じたわけでも、望んだわけでもない。
ただ、
「その場に、いられなかった」
それだけだった。
でもそれでも。
私は──走った。
あの場所から逃げたことが、
“ルルを否定すること”になってしまったのでは…
もしかして、私はまたルルを……
隣で、ナギがふっと息をついた。
「……ここって、本当に安全なのか?」
ツクモが少しだけ歩みを止めて、肩越しに答える。
「制度の外に出た以上、
“絶対の安全”なんてものは存在しない」
「ただ、少なくとも今は──
君たちを“誰かの色”で裁こうとする者はいない」
その言葉に、
私はようやく少しだけ呼吸ができた気がした。
「じゃあ……俺たち、しばらくここにいてもいいか?」
ナギがそう尋ねると、
ツクモは短く「うん」とだけ答えた。
私とナギは、少し離れたベンチのような場所に腰を下ろす。
シェードの空気は、冷たくて、静かだった。
でも、不思議と“拒まれている感じ”はなかった。
しばらく沈黙が続いて──
ナギがぽつりと口を開く。
「……これから、どうする?」
私は少し考えて、でも答えられなかった。
だから、逆に問いかけた。
「……ナギは?」
「ナギだったら、まだ“あっち”に戻れるんじゃないの?」
白銀の価標。
制度の中でも優等生とされる色。
アリスと違って、“まだ間に合う”人間。
けれど──
ナギは静かに首を振った。
「無理だよ。俺、もう顔バレしてる」
「講堂で破標を助けた奴って、きっともう記録されてる。
……捕まるか、抹消か──どっちにしても、“前の俺”には戻れない」
そう言ったナギの目に、迷いはなかった。
「……あんなの、見過ごせなかった」
「ルルのことも、アリスのことも。
もう黙って見てるだけの人間ではいたくなかった」
私は、黙って聞いていた。
「……でも、ありがとう」
そう絞り出すように言った私に、
ナギは「礼なんていらないよ」と苦笑した。
少しの間、沈黙が流れた。
「……どうする?」
ナギがもう一度尋ねる。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「分からない。でも──
“あっち側”には、もう戻れないってことだけは分かってる」
「戻ったところで、誰もルルのことをちゃんと見てくれないし、
私のことも、“黒”としてしか見ないから」
ナギは頷いた。
「俺も……同じようなもんだ。
黙ってたこと、見過ごしたこと、もう取り返せない」
「でも、“これからは何を見ても黙らない”って、決めたんだ」
その時だった。
「──いいね、本気なの伝わる」
柔らかくも凛とした声が、ふたりの会話に割って入る。
振り向くと、
灰色の布を羽織った女性が、こちらを見ていた。
年齢は分からない。
けれど、指先には糸を巻いていて、
彼女の背後には、黒い布がそっと揺れていた。
その布には、
白い糸で“言葉の断片”が縫い込まれていた。
感情の綻びを、縫い合わせるように──。
彼女の目は、どこか遠くを見ていたけれど、
そこには確かな温度があった。
私の背後──
崩れた壁の陰に、もうひとつの影があった。
人形を抱いた女性。
何も言わず、じっとこちらを見ている。
その眼差しは、壊れたものすべてを許すような、
静かな、母性のようなものを帯びていた。
ネリは、系で言葉を縫い、
ミオは、人形を静かに抱きしめている。
その佇まいのコントラストが、妙に印象に残った。
ふたりの隣で、
他のシェードの住人たちも、少しずつ姿を現し始めていた。
“色”を失った人たち。
“価値”を奪われた人たち。
でも──
その瞳には、
今の私よりずっと強い、確かな光があった。
「誰かの色」じゃなく、
「自分だけの何か」を抱えている目。
私は、無意識に胸元の制服をぎゅっと握りしめていた。
その仕草はまるで、
自分が“まだここにいる”ことを確かめるようだった。




