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ひび割れた壁の向こうは、

まるで別世界だった。


薄暗いトンネルを抜け、錆びた鉄階段を何段も下りる。

コンクリートの湿った匂いが鼻をつき、

足元にはぽたぽたと、水のしずくが垂れていた。


そして──たどり着いたその場所は、


静まり返った街の残骸のような場所だった。


古い倉庫のような建物が、無造作に連なっている。

壁には意味のわからない記号や言葉がスプレーで書き殴られ、

ところどころ破れた布が風に揺れていた。


電灯は何本か点いていたが、どれも薄暗く、

空間全体が“夜のような灰色”に染まっていた。


だけど、

私の胸がざわついたのは──それだけじゃなかった。


この空間には、価標の気配がなかった。


誰の腕にも、誰の胸にも、

色も、光も、何ひとつ浮かんでいない。


私は思わず立ち止まり、ぽつりと呟いた。


「ここが……」


ツクモは振り返らずに言った。


「“シェード”。

世界から零れ落ちた者たちが、影として生きる場所だ」


歩くうちに、いくつもの視線を感じた。


廃棄された自販機の陰、

ふいに姿を現した男と目が合った。

肩には大きな麻袋を掛け、腕にはいくつもの擦り傷が刻まれている。

外の風に焼けた肌は荒れており、その目は刃のように鋭い。

一瞬だけ、驚きと探るような色がその瞳に走ったが、

すぐに表情を閉ざし、感情の読めない無機質な視線へと戻った。

何も言わず、麻袋の重みを受け止めるように肩をわずかに揺らし、ゆっくりと奥へ消えていった。


窓の割れた建物の中。

毛糸の人形を胸に抱えた女性が、こちらに気づくと小さく微笑んだ。

そして、その人形の手をそっと持ち上げ、ひらひらと振ってみせる。

言葉はなかったが、その仕草は「ようこそ」と告げているようだった。


すぐ横では、

真っ黒な布に針を通す手があった。

その主は中年くらいの女性で、私と目が合った瞬間、手を止めた。

わずかに眉を下げ、困ったような、けれど温かい色を含んだ目でこちらを見つめる。

──まるで「こんな若い子たちがシェードに来るなんて……」と心配しているかのように。

やがて、彼女は静かに針を持ち直し、再び作業を続けた。


壁際の影の中に、制服姿のまま膝を抱えて座る少女がいた。

艶のある黒髪を肩で揺らし、片方の目だけをこちらに向ける。

その視線は探るようで、どこか冷ややか──けれどほんの一瞬、

唇の端がわずかに上がった気がした。

すぐに顔を背け、髪の奥に表情を隠してしまう。


もう一人、

壁にもたれながら空を見上げている人物がいた。

両手を空中でゆっくり動かしていて、何かを“描いている”ようだった。

表情は──無表情。でも、目はどこか遠くを見ていた。


誰も言葉を発しなかったが、

この場所には、確かに“生きている人間の目”があった。


私は小さく息を呑んで、ツクモに問いかけた。


「あの人たちも……破標に?」


ツクモはわずかに首を傾げて言う。


「そうとも言えるし、違うとも言える。

彼らは、“制度の外”に自分を選び取った者たちだ」


「価標に拒まれ、誰からも理解されず、

それでも“生きる”ことを諦めなかった人間の集まりだよ」


ナギが少し顔をしかめながら、横から尋ねた。


「ここ……“バレて”ないのか?

破標をかくまってる場所なんて、当局が放っておくとは思えないけど」


ツクモは肩をすくめて言った。


「バレてないよ。少なくとも、君たちがこの場所を密告しない限りは」


「“無灯区域”の深部。価標が届かない空白領域。

彼らは“見えない場所”には興味を持たない。

価標が測れない者に価値はない、という理屈の上にあの制度は成り立ってるからね」


その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。


──価値が測れないから、ここには誰も来ない。


皮肉だけど、それが唯一の“自由”なんだ。


ツクモはそこで立ち止まり、

振り返って、ナギをじっと見た。


「……さっき、僕の名前を呼んだな」


ナギは少し目を伏せ、低く答えた。


「……都市伝説で聞いた。

“七色すべての価標を得た天才”、

“制度を否定して消えた男”。

学校の図書室の奥──削除された記事がいくつか残ってた。

ツクモ。それが……あんたの名前だ」


ツクモは唇をわずかに持ち上げた。


「なら、話は早い」


彼はコートの裾をゆっくり翻し、私たちを先へと導いていく。


「君たちも、もう“価標の中”では生きられない」


「だからここで──

“自分の価値の輪郭”を、もう一度見つけ直すんだ」


「シェードは、社会から見れば“無灯区域”だけど、

僕たちにとってはようやく目を開けて呼吸できる場所でもある」


私は、足元を見た。


何かを選んだという感覚はなかった。

ただ、連れて来られて、迷いの中に立っている。

でも、それでも──


さっきまで胸を締めつけていた焦りや怒りが、

少しずつ、溶けていく気がした。


「君はどうする?」


ツクモが私を見て、尋ねる。


私は──答えられなかった。


だけど、隣に立つナギが、私の背中を押すように言った。


「……今、無理に答えなくていい。

でも、お前はここでなら、ちゃんと息ができるはずだ」


私は少しだけ息を吸い、ぽつりと呟いた。


「……ルルの代わりに、

この場所で、答えを探したい」


それが、今の私にできる、精一杯の言葉だった。

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