32
ひび割れた壁の向こうは、
まるで別世界だった。
薄暗いトンネルを抜け、錆びた鉄階段を何段も下りる。
コンクリートの湿った匂いが鼻をつき、
足元にはぽたぽたと、水のしずくが垂れていた。
そして──たどり着いたその場所は、
静まり返った街の残骸のような場所だった。
古い倉庫のような建物が、無造作に連なっている。
壁には意味のわからない記号や言葉がスプレーで書き殴られ、
ところどころ破れた布が風に揺れていた。
電灯は何本か点いていたが、どれも薄暗く、
空間全体が“夜のような灰色”に染まっていた。
だけど、
私の胸がざわついたのは──それだけじゃなかった。
この空間には、価標の気配がなかった。
誰の腕にも、誰の胸にも、
色も、光も、何ひとつ浮かんでいない。
私は思わず立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「ここが……」
ツクモは振り返らずに言った。
「“シェード”。
世界から零れ落ちた者たちが、影として生きる場所だ」
歩くうちに、いくつもの視線を感じた。
廃棄された自販機の陰、
ふいに姿を現した男と目が合った。
肩には大きな麻袋を掛け、腕にはいくつもの擦り傷が刻まれている。
外の風に焼けた肌は荒れており、その目は刃のように鋭い。
一瞬だけ、驚きと探るような色がその瞳に走ったが、
すぐに表情を閉ざし、感情の読めない無機質な視線へと戻った。
何も言わず、麻袋の重みを受け止めるように肩をわずかに揺らし、ゆっくりと奥へ消えていった。
窓の割れた建物の中。
毛糸の人形を胸に抱えた女性が、こちらに気づくと小さく微笑んだ。
そして、その人形の手をそっと持ち上げ、ひらひらと振ってみせる。
言葉はなかったが、その仕草は「ようこそ」と告げているようだった。
すぐ横では、
真っ黒な布に針を通す手があった。
その主は中年くらいの女性で、私と目が合った瞬間、手を止めた。
わずかに眉を下げ、困ったような、けれど温かい色を含んだ目でこちらを見つめる。
──まるで「こんな若い子たちがシェードに来るなんて……」と心配しているかのように。
やがて、彼女は静かに針を持ち直し、再び作業を続けた。
壁際の影の中に、制服姿のまま膝を抱えて座る少女がいた。
艶のある黒髪を肩で揺らし、片方の目だけをこちらに向ける。
その視線は探るようで、どこか冷ややか──けれどほんの一瞬、
唇の端がわずかに上がった気がした。
すぐに顔を背け、髪の奥に表情を隠してしまう。
もう一人、
壁にもたれながら空を見上げている人物がいた。
両手を空中でゆっくり動かしていて、何かを“描いている”ようだった。
表情は──無表情。でも、目はどこか遠くを見ていた。
誰も言葉を発しなかったが、
この場所には、確かに“生きている人間の目”があった。
私は小さく息を呑んで、ツクモに問いかけた。
「あの人たちも……破標に?」
ツクモはわずかに首を傾げて言う。
「そうとも言えるし、違うとも言える。
彼らは、“制度の外”に自分を選び取った者たちだ」
「価標に拒まれ、誰からも理解されず、
それでも“生きる”ことを諦めなかった人間の集まりだよ」
ナギが少し顔をしかめながら、横から尋ねた。
「ここ……“バレて”ないのか?
破標をかくまってる場所なんて、当局が放っておくとは思えないけど」
ツクモは肩をすくめて言った。
「バレてないよ。少なくとも、君たちがこの場所を密告しない限りは」
「“無灯区域”の深部。価標が届かない空白領域。
彼らは“見えない場所”には興味を持たない。
価標が測れない者に価値はない、という理屈の上にあの制度は成り立ってるからね」
その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
──価値が測れないから、ここには誰も来ない。
皮肉だけど、それが唯一の“自由”なんだ。
ツクモはそこで立ち止まり、
振り返って、ナギをじっと見た。
「……さっき、僕の名前を呼んだな」
ナギは少し目を伏せ、低く答えた。
「……都市伝説で聞いた。
“七色すべての価標を得た天才”、
“制度を否定して消えた男”。
学校の図書室の奥──削除された記事がいくつか残ってた。
ツクモ。それが……あんたの名前だ」
ツクモは唇をわずかに持ち上げた。
「なら、話は早い」
彼はコートの裾をゆっくり翻し、私たちを先へと導いていく。
「君たちも、もう“価標の中”では生きられない」
「だからここで──
“自分の価値の輪郭”を、もう一度見つけ直すんだ」
「シェードは、社会から見れば“無灯区域”だけど、
僕たちにとってはようやく目を開けて呼吸できる場所でもある」
私は、足元を見た。
何かを選んだという感覚はなかった。
ただ、連れて来られて、迷いの中に立っている。
でも、それでも──
さっきまで胸を締めつけていた焦りや怒りが、
少しずつ、溶けていく気がした。
「君はどうする?」
ツクモが私を見て、尋ねる。
私は──答えられなかった。
だけど、隣に立つナギが、私の背中を押すように言った。
「……今、無理に答えなくていい。
でも、お前はここでなら、ちゃんと息ができるはずだ」
私は少しだけ息を吸い、ぽつりと呟いた。
「……ルルの代わりに、
この場所で、答えを探したい」
それが、今の私にできる、精一杯の言葉だった。




