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どれくらい走ったのか分からなかった。
肺が焼けるように痛くて、足がもつれそうだった。
校舎裏の資材置き場に飛び込んだところで、ナギがようやく足を止める。
「はぁ……はぁ……」
私も壁に手をついて、息を整えた。
「……なんで、助けたの?」
喉が熱く、声が震えていた。
「私は逃げたいんじゃない……! このまま終わらせたくないのに!」
ナギは黙ったまま、暗がりの中で立っていた。
その左腕に巻かれた白銀の価標が、わずかに鈍く光っている。
「破標を助けるなんて、自分の立場だって危うくなるよ……どうして」
私の言葉が途中で切れた。
外から足音が近づいてきていた。
「くそ、もう追ってきてる……」
ナギが顔をしかめる。
「教師だけじゃない。“対策本部”が出てきた。あいつらが来たら……終わりだ」
「……対策本部?」
ナギは短く頷いた。
「破標の“排除”を専門にしてる連中だよ。教師じゃ止められない」
私は背筋が冷えるのを感じた。
「……でも私、逃げたくなんかない……!」
「今、逃げたら……ルルの声も、私の想いも、全部なかったことにされる」
「誰にも届かなくなるんだよ……!」
それでも、私の足は震えていた。
“怖い”と、“伝えたい”が、胸の中でせめぎ合っていた。
「動けるか……?」ナギが問う。
そのときだった。
「──まだ“選べるうち”に、こっちへ来い」
低く、空気を震わせるような声。
資材置き場の奥。割れた壁の向こうに、一人の影が立っていた。
灰色のロングコート。制服ではない。その胸元には、色が抜けたような曖昧な標章。
その瞳は、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「……ツクモ……?」
ナギが、かすれた声で名を呼ぶ。
「知ってるの?」私は聞いた。
ナギは少しだけ顔を背けながら答える。
「……存在だけは。制度の外に消えた、“唯一の虹色”」
ツクモは片手を差し出した。
「この先には、価標も選定もない。あるのは、“お前自身”だけだ」
その言葉が、私の胸の奥にゆっくり届く。
──でも、それでも。
「私は……また……逃げたくない」
私は小さく呟いた。
ナギが、私の手を取った。
「それでも、今は生きなきゃダメだ」
「アリス、お前の声が“本当に届く場所”まで──俺が、連れてく」
私は顔を伏せて、躊躇した。
けれどその間にも、外の足音は迫ってくる。
「ごめん、でも──」
ナギは私の腕を強く引いた。
私はバランスを崩し、そのままツクモのいる闇の方へ引き込まれていく。
「まって……!」
「大丈夫。ここから先は、“お前の言葉”がちゃんと届く場所だ」
ナギの声が、真っ直ぐだった。
私は叫びたかった。
私はまだ、終わりにしたくなかった。
でも──
ナギの強い手と、ツクモの静かな瞳に、何も言い返せなかった。
私たちは、価標のない世界の入口へと、
踏み出していった。




