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月下残響

車内の空気が凍り付いた。


浩介の楽し気な表情は一瞬で消え、代わりに鋭い警戒の色が宿る。ルームミラーに映る彼の目は、獲物を捉えた獣のように研ぎ澄まされていた。


「終わりのタイミング、ね……」


私は小さく呟き、柄から手を離した。代わりに、左の太腿の内側に手を滑り込ませる。タイトスカートの奥、隠していた場所に触れる。


冷たい金属の感触が、確かな存在を知らせる。


静かに、だが確実にそれを引き抜いた。

磨き上げられた一丁の拳銃が、車内の闇の中で鈍く光を返す。銃口をゆっくりと、浩介の方へ向ける。彼の表情がわずかに揺れた。だけど、すぐにいつもの薄い笑みに戻った。


「やっぱり、ただの可愛い子じゃなかったんだね」


「当然でしょ。アンタが連れて来た”死神”とだって、やりあったんだから」


親指でセーフティを解除する。

カチ、という小さな音が、張りつめた空気に鋭く響いた。スカートの奥から現れた狂気は、明らかに彼の予想を裏切っていた。


「それに、彩矢って名前で呼ばれたの……あんたが初めてじゃない」


啖呵を切りながら、銃口を彼のこめかみに押し当てる。

それでも浩介は、余裕の表情を崩さない。


「面白い。気に入ったよ、彩矢」


そう言いながら、彼はアクセルを深く踏み込んだ。

スポーツカーは唸りを上げて加速し、夜の闇を切り裂いていく。


「どこへ行くつもり?」


「さあ……君の"終わり"を見届けに、かな」


浩介の口元に浮かんだのは、意味深な笑みだった。

私は銃口を逸らさぬまま、フロントガラス越しに前方へ目を向けた。

無数のテールランプが、逃げ惑う魂のようにちらついている。


(あの女……そして、この男。こいつらの目的は一体……?)


疑念は尽きない。だけど、今は考えるよりも動くべき時だ。

私は銃をしっかりと握り、熱を帯びはじめたトリガーに指をかけた。


――その時だった。


ふいに視界がぐにゃりと歪んだ。


銃の感触が遠のき、エンジンの轟音が水の中に沈んでいくようにくぐもる。

目の前にあったはずの車内が、黒い波に飲み込まれるように溶けていく。


そして私は――湖にいた。


虚数の星々を背に、静謐な湖面で女性がピアノを奏でていた。


踊る、踊る、指先が鍵盤の上でステップを踏む。まるで、月光を浴びて舞うバレエダンサーのようだ。それは紛れもない幻想。


けれど、辺り一面に反響する和音の群れと、彼女の肩をやさしく照らす三日月だけが、この光景の真実を尚も主張しているようだった。

理解を越えた光景。でも、その旋律は、私がこの世界で一番好きな曲だった。


鍵盤はリズミカルにロンドを奏でていく。

その音色に導かれるように、過ぎ去った日々が鮮やかに蘇る。

そして、最後のフォルティシモが湖面に吸い込まれるように消えた時、彼女はすっと立ち上がりこちらへ歩いてきた。


思わず息をのんだその瞬間、深い黒曜石の髪をかき上げ、女性は私の胸元を掴んだ。


「まだそんなに鮮明なのね。地に足がついていないくせに」


「…アンタはあの空の女ね!浩介とグルなんでしょ!?……」


聞き覚えのある声だった。

演奏に聞きほれていたのが悔しい。言い返すのが精一杯だった。


魂が肉体を離れるほどの激痛が、まやかしの星空を嗤うように、鮮烈に全身を貫いていく。けれど、目の前の女は違う。偽りなんかじゃない。


漆黒のスーツに身をつつみ、指先に触れた襟元の生地は、上質なベルベットの感触だった。間違いなく、『生きている人間』。

だからこそ、ピアノと共に水面に浮かんでいるという事実は、一層異様だった。


「『レクイエム』を拒むとはね。私たちの『異世界送り』が失敗したのは、初めて」


琥珀色の瞳に魅入られると、身体は金縛りにあった様に動けない。見えない麻縄が体の肉に食い込んでいくよう。


「何もかも思い通りになると思ったら、大間違いだから!」


静かな湖面に私の叫びが反響する。


女はくるりと背を向け、夜空の三日月に手をかざした。

すると、淡い月の光が細かな粒子となって古びたピアノを包み込み、次の瞬間には、年季の入った武骨なトラックがその場所に姿を現した。


「哀れな人ね。『あちら』へ行けば、もう何もかもが思うがままなのに」


彼女はどこか寂しそうに、まるで憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。

その瞬間、湖全体が眩い白光につつまれた。


そして――目を覚ました私は、見慣れた白い天井を見つめていた。

枕元に置かれたスマホのアラームが、あの湖で聴いた旋律を静かに繰り返していた。


けれど、私は気づいていた。

あの出来事が、夢でも幻でもなかったことに。


なぜなら、手の中にはまだ、あの冷たい金属の感触が残っていたからだ。


そして、窓の外には――


赤い三日月が、何事もなかったかのように浮かんでいた。


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