第八章 朝の光の中で
窓の外に朝が来ていた。
淡い光がカーテンのすき間から差し込んで、床に、ベッドに、美由紀の肌にやわらかく広がっていく。
目を開けると、隣には眠る日向の穏やかな寝顔があった。
呼吸の音が静かに重なって、部屋の中にはまだ夜の余韻が残っていた。
けれどその空気さえも、どこかあたたかい。
自分の髪をなでるように額に落ちた前髪を指で払いながら、美由紀はゆっくりと身体を起こした。
シーツが肌に触れる感触が、いつもと違う気がした。
身体が変わったわけじゃないのに、まるで新しい肌に生まれ変わったような、そんな錯覚。
――変わったのは、きっと「わたし」のほうなんだ。
鏡の前に立って、髪を整える。
すっぴんの顔を見つめながら、ふと口元がゆるんだ。
「……おはよう、美由紀」
ひとりごとのように、でも確かにそこに“誰かとしてのわたし”がいた。
それはもう、てつではない。
ただ“美由紀”として、朝の光を浴びる自分。
そんなふうに微笑むのは、いつぶりだっただろうか。
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「起きた?」
日向が、まだ寝ぼけまなこのままベッドから顔を出した。
「うん。ちょっと先に鏡の前で……なんとなく、自分を見てたの」
「どんな顔してた?」
「……ちょっと照れてる顔」
「それなら、見たかったな」
日向の声には、もう照れがなかった。
美由紀が、ようやく“自分を好きになれる”瞬間に立ち会えたこと。
それを、彼はなによりも嬉しく思っているようだった。
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朝食はトーストとゆで卵と、インスタントのスープ。
特別な朝ごはんではなかったけれど、どこかしら特別に感じられたのは、きっと昨夜のことを心がまだ覚えていたからだ。
言葉を交わさなくても、視線が何度も重なる。
ふいに笑い合って、また黙ってスープをすする。
その時間さえも、ただ“わたしであること”を肯定してくれている気がした。
「ねえ」
「うん?」
「ありがとう。……ほんとうに」
その言葉に、日向は少しだけ困ったように笑った。
「オレのほうこそ。……美由紀と朝を迎えられてよかったって、思ってるよ」
ふたりの間にあった“名前”や“身体”の境界線は、もうすっかり薄くなっていた。
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この日、美由紀は一歩、街へと出ていった。
揺れる髪、軽く化粧をした頬、胸元を隠すように巻いたストール。
見た目のためじゃない。
自分が“自分”でいられるための、ささやかな鎧だった。
でも、もう怖くなかった。
美由紀は、自分の歩幅で、春の光の中を歩いていた。
次章「第9章:わたしという居場所」では、美由紀が“社会”の中にどのように立ち、自分自身の居場所を築いていくかが描かれます。
職場や他者との関係の中で見えてくる“自認”と“現実”の狭間――そこに、彼女は何を見つけていくのか。