表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

第六章 名前を越えて

「――では、これにて、正式に記録を変更いたします」


窓口の女性が淡々とした声で言い、書類を綴じた。


それは、長く続いた手続きの、たったひとつの終着点。

けれど美由紀にとっては、自分という存在がようやく社会のどこかに“承認”された瞬間でもあった。


新しい戸籍。

そこには「美由紀」という名前が、そして「女性」としての記載があった。


文字だけではない。

それは、声にならなかった数々の葛藤と涙と、恐怖のすべてを越えてきた証だった。


帰り道、区役所の出口に立ったとき、不意に風が頬を撫でた。


春の匂いが、かすかに混じっていた。



日向にはその夜、手渡しで報告した。

小さな封筒に、変更済みの住民票の写し。

それをじっと見つめていた彼が、ゆっくりと微笑んだ。


「……おめでとう、美由紀。ほんとうに、ほんとうに……」


その言葉の先は、うまく言葉にならなかったのか、それとも言葉にする必要がなかったのか。


「ありがとう」


ただ、それだけの言葉が、美由紀の胸にまっすぐ届いた。



それから数日、日向と美由紀は互いの家を行き来するようになっていた。

けれど関係が「恋人」として変わったわけではない。

むしろ、名前を超えた関係が、ようやく始まったのだと、美由紀は感じていた。


「ねえ、美由紀って、どうして“美由紀”って名前にしたの?」


夜、ふたり並んでテレビを観ていたとき、ふいに日向が尋ねた。


少し迷ってから、美由紀は答えた。


「“美しく、由るもの”っていう意味。……自分の中に、ちゃんと“由来”が欲しかったの。

 何かを“美しい”って思える心とか、それに由って立っていられる名前。そういうのが、欲しかった」


「うん……すごく、いい名前だと思うよ。似合ってる」


日向の言葉は素直で、それがまた心地よかった。


「でも、名前だけじゃなくて、もっと奥の……たとえば声とか、肌とか……触れたときの温度とか。

 そういうのに、いちばん“その人らしさ”が宿るんじゃないかなって思う」


「……それって、“触れたい”ってこと?」


美由紀は小さく笑いながら、問い返す。


日向は少しだけ照れくさそうに、でもはっきりとうなずいた。


「うん。美由紀に、ちゃんと触れたいって思ってる。

 名前じゃなくて、肩とか、髪とか、目の奥とか――そういう“君”に」


その言葉を受け止めながら、美由紀は小さく息を吸った。

深いところで、波が静かに打ち寄せるように、何かがひとつ、解けていく気がした。


「……いいよ。少しずつ。

 わたしも、ちゃんと“わたし”に触れてほしいって、思えるようになってきたから」


春の風がカーテンをふわりと揺らした。

その夜、美由紀は初めて、自分という名前の内側から、誰かに“身体”をゆるやかに開いた。

次章「第7章:境界の消える夜」では、美由紀が日向と過ごすひとときの中で、“男と女”“自分と他者”という境界を越えていく夜を描きます。

身体と心、愛と孤独、光と影――すべてが交わり、やがて消えていく境界線の先に、美由紀は何を見るのか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ