第六章 名前を越えて
「――では、これにて、正式に記録を変更いたします」
窓口の女性が淡々とした声で言い、書類を綴じた。
それは、長く続いた手続きの、たったひとつの終着点。
けれど美由紀にとっては、自分という存在がようやく社会のどこかに“承認”された瞬間でもあった。
新しい戸籍。
そこには「美由紀」という名前が、そして「女性」としての記載があった。
文字だけではない。
それは、声にならなかった数々の葛藤と涙と、恐怖のすべてを越えてきた証だった。
帰り道、区役所の出口に立ったとき、不意に風が頬を撫でた。
春の匂いが、かすかに混じっていた。
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日向にはその夜、手渡しで報告した。
小さな封筒に、変更済みの住民票の写し。
それをじっと見つめていた彼が、ゆっくりと微笑んだ。
「……おめでとう、美由紀。ほんとうに、ほんとうに……」
その言葉の先は、うまく言葉にならなかったのか、それとも言葉にする必要がなかったのか。
「ありがとう」
ただ、それだけの言葉が、美由紀の胸にまっすぐ届いた。
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それから数日、日向と美由紀は互いの家を行き来するようになっていた。
けれど関係が「恋人」として変わったわけではない。
むしろ、名前を超えた関係が、ようやく始まったのだと、美由紀は感じていた。
「ねえ、美由紀って、どうして“美由紀”って名前にしたの?」
夜、ふたり並んでテレビを観ていたとき、ふいに日向が尋ねた。
少し迷ってから、美由紀は答えた。
「“美しく、由るもの”っていう意味。……自分の中に、ちゃんと“由来”が欲しかったの。
何かを“美しい”って思える心とか、それに由って立っていられる名前。そういうのが、欲しかった」
「うん……すごく、いい名前だと思うよ。似合ってる」
日向の言葉は素直で、それがまた心地よかった。
「でも、名前だけじゃなくて、もっと奥の……たとえば声とか、肌とか……触れたときの温度とか。
そういうのに、いちばん“その人らしさ”が宿るんじゃないかなって思う」
「……それって、“触れたい”ってこと?」
美由紀は小さく笑いながら、問い返す。
日向は少しだけ照れくさそうに、でもはっきりとうなずいた。
「うん。美由紀に、ちゃんと触れたいって思ってる。
名前じゃなくて、肩とか、髪とか、目の奥とか――そういう“君”に」
その言葉を受け止めながら、美由紀は小さく息を吸った。
深いところで、波が静かに打ち寄せるように、何かがひとつ、解けていく気がした。
「……いいよ。少しずつ。
わたしも、ちゃんと“わたし”に触れてほしいって、思えるようになってきたから」
春の風がカーテンをふわりと揺らした。
その夜、美由紀は初めて、自分という名前の内側から、誰かに“身体”をゆるやかに開いた。
次章「第7章:境界の消える夜」では、美由紀が日向と過ごすひとときの中で、“男と女”“自分と他者”という境界を越えていく夜を描きます。
身体と心、愛と孤独、光と影――すべてが交わり、やがて消えていく境界線の先に、美由紀は何を見るのか。