第四章 わたしという場所
戸籍の変更申請に必要な書類を手に、美由紀は区役所の窓口に立っていた。
名前も、性別も、自分の中ではすでに変わっている。
でも、社会の帳簿にはまだ“てつ”として記されていた。
「ご本人確認のために、こちらの署名を……はい、フルネームでお願いします」
ペンを握る指先がわずかに震える。
美由紀は静かに書いた。
「園崎美由紀」
初めて書類上でその名前を書く瞬間。
書き終えたとき、胸の奥にひとつ、灯がともったようだった。
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それは、たとえるなら地図を書きかえるような作業だった。
幼いころから使っていた「てつ」という名前。
その名前に込められた家族の思いや、社会からの期待。
それらを否定するのではなく、自分の言葉で上書きしていく作業。
夜、いつものバーで日向に報告すると、彼は静かにグラスを置いた。
「……すごいことだよ、美由紀。それが、ひとつの区切りになると思ってた?」
「区切り……なのかな。でも、それ以上に“ここから”って感じがして」
日向は優しく微笑んだ。
「そう思えるって、強いな。オレも見習わなきゃ」
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週末。実家に帰る決心をした。
「話したいことがある」と母にだけ連絡を入れた。
コートの襟を整え、インターホンを押す。
開いた玄関に現れた母は、一瞬目を見開いたあと、柔らかく笑った。
「……おかえり。寒かったでしょ」
「ただいま。……うん、ちょっと寒かった」
温かい味噌汁の香りが漂う台所で、美由紀は母に向き合った。
自分のこと、名前のこと、身体のこと――全部を話した。
母は黙って聞いていた。
最後まで聞き終えると、彼女は静かに言った。
「……お父さんには、少し時間が必要かもしれないけど。私は……美由紀、って呼ぶわね。
あなたのその名前、すごく似合ってる」
その言葉を聞いたとき、涙がとめどなく流れた。
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帰り道。
夕焼けが街を包むころ、美由紀は小さな川沿いの道を歩いていた。
水面に映る空も、変わりゆく日常も、すべてが美しく見えた。
「わたしは、ここにいる」
声に出さずにそうつぶやき、そっと笑った。
揺らぎも、迷いも、過去の痛みも、
そのすべてを抱えてなお、美由紀は今、確かに「わたしという場所」に立っていた。
次章「第5章:触れあう輪郭」では、美由紀が他者との深いつながりや新たな愛情に直面し、戸惑いながらも自分の身体と心の境界を見つめていく過程が描かれます。