第三章 揺らぎの中で
「ねえ、最近ちょっと……変わったね」
会社の給湯室で声をかけてきたのは、事務の先輩だった。
彼女は遠慮がちな笑顔を見せながらも、目はじっと美由紀の変化を見逃さなかった。
「え……そうですか?」
「うん、肌がなんだか……きれいになったっていうか。うらやましいなぁって」
その言葉に、美由紀は笑って返しながら、心のどこかが微かにひやりとした。
言葉の端にある無邪気な視線が、どこまで気づいているのか、測れなかった。
社内では、表向きは「てつ」として勤務していた。
けれど徐々に変わっていく表情、声のトーン、仕草。
気づかれていないはずがない。
美由紀自身が、自分の内面と外見が一致し始めるほどに、まわりとの境界線が浮き彫りになっていく。
仕事終わり、日向と会うカフェに向かいながら、心はざわついていた。
「……バレてきてると思う。わたしの“変化”、隠せないよね」
カップを手に取った美由紀は、ぽつりとそう漏らした。
「バレるっていうより、“伝わる”んじゃないかな。
嘘をついてないってことだし、恥ずかしいことじゃないよ」
日向の言葉は正しい。
けれど、美由紀の心はそれを受け止めきれないほど、揺れていた。
⸻
数日後、上司に呼び止められた。
「少し話がある」
会議室で向き合った上司は、意外なほど穏やかな表情をしていた。
一瞬の沈黙のあと、彼は静かに言った。
「最近の君のこと……いろいろな声が耳に入ってくる。
ただ、それがどういう意味か、直接聞かせてほしかった」
美由紀は深く息を吐いた。
恐れていた瞬間だった。
だが、逃げたくなかった。
「……私は、女性として生きていこうと決めました。
身体も、名前も、戸籍も、少しずつ変えていきます。
ただ、今の仕事に対する姿勢や責任には、一切変わりはありません」
沈黙。
上司の表情は、しばらく変わらなかった。
「……わかった。正直に話してくれて、ありがとう。
社内の理解がすぐに追いつくとは限らない。でも、私個人としては、君を尊重したいと思っている」
その言葉に、美由紀の胸はじんわりと熱くなった。
すべてが順風満帆ではない。
けれど、言葉を尽くし、心を込めて対話すれば、誰かに届く可能性がある。
会社を出た後、空を見上げた。
冬の夕焼けが空を染めていた。
「……伝わった、ちゃんと」
そう呟いた美由紀の目に、光るものが浮かんでいた。
次章「第4章:わたしという場所」では、美由紀が名前の変更や戸籍の手続きを進めながら、「社会の中のわたし」を改めて問い直していく物語が展開されます。