第二章 からだの変化、こころの波
ホルモン療法が始まった。
最初の注射を受けた日は、少しだけ非現実的な気持ちだった。
長年「なりたい」と願い続けてきた「女性としての身体の感覚」が、ついに現実のなかで動き出す。
それが嬉しい半面、心の奥には得体の知れない緊張もあった。
「どうだった?痛くなかった?」
帰り道、日向がそう尋ねたとき、美由紀は微笑んだ。
「平気だった。でも……なんだか、変な感じ。
自分の中で何かが、本当に変わるんだって思ったら、ちょっと怖くもあって」
「うん。そりゃそうだよ。大きなことだし、簡単に割り切れないと思う」
日向の声は、いつもと変わらず優しい。
その変わらなさが、美由紀の足元を支えてくれている。
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日が経つごとに、体は少しずつ応えてきた。
肌が柔らかくなり、胸の奥にじわじわとした張りを感じる。
鏡を見るたびに、わずかな変化が映り込む。
口元の線が丸くなったような気がして、そっと指でなぞる。
けれど、その変化は単なる肉体の変容ではなかった。
感情が、揺れる。
小さなことに涙がにじむ。
テレビの中の何気ないセリフが、胸に刺さる。
夜、ふと孤独が胸を締めつけるようにやってくる。
「……こんなに、心が揺れるの、想像してなかった」
ある晩、美由紀はソファの上で呟いた。
その横に座る日向は、何も言わずに彼女の肩を抱いた。
「怖い。けど……戻りたくない。絶対に」
「大丈夫。美由紀が美由紀であるために変わっていくことを、俺はちゃんと見てる。
無理に笑わなくていい。どんな美由紀も、俺にとっては……全部“きみ”だよ」
その言葉に、美由紀は静かに目を閉じた。
頬を伝う涙が、温かくて、痛くて、どこかやさしかった。
その夜、美由紀は夢を見た。
自分の名を、誰かが優しく呼ぶ夢。
美しく変わった声で「美由紀」とつぶやく、確かな未来の自分の声だった。
次章「第3章:揺らぎの中で」では、心の揺れとともに訪れる、周囲との摩擦や葛藤、新たな選択と向き合う時間を描いていきます。