第一章 診察室にて
白い廊下。無機質な照明。
美由紀は受付で名前を告げると、番号札を受け取り、静かに待合室の椅子に腰を下ろした。
隣に座る日向が、そっと彼女の手を握った。
緊張が、無言のうちに伝わる。彼女の手は、少し汗ばんでいた。
「……大丈夫?」
「うん……うん、行こうって決めたの、わたしだから」
そう答える声は少し震えていたが、それでもまっすぐだった。
受付から番号が呼ばれた瞬間、心臓が跳ねるように脈打つ。
それを感じながら、美由紀はゆっくりと立ち上がった。
診察室のドアを開けると、そこには、淡いグレーのカーディガンを羽織った年配の女性医師が座っていた。
優しげな眼差しで、美由紀に微笑む。
「はじめまして。田島です。今日はお越しいただきありがとうございますね」
「……よろしくお願いします」
初対面の緊張で、声が思うように出ない。
けれど、田島医師の語り口は穏やかで、どこか安心感があった。
「今日はお話を伺いながら、今後の方向性を一緒に考えていければと思っています。無理に話そうとしなくて大丈夫。時間はたくさんありますから」
そう言われて、美由紀はふっと肩の力を抜いた。
少しずつ、自分の話を始める。
子どものころから抱えていた違和感。
てつという名前のまま過ごした思春期。
最初にメイクをした夜、名前を「美由紀」と名乗った日のこと。
そして日向との出会い。彼と過ごす日々が、どれほど自分を肯定してくれたか。
「……でも、今のこの身体のままだと、どこかで立ち止まってしまう気がして。
私はこの先、“自分”として生きていくために、ちゃんと前に進みたいんです」
静かに、けれど強く語った美由紀の言葉に、田島医師はしばし黙って頷いた。
「よくお話ししてくださって、ありがとうございます。
まずはホルモン療法について、必要な検査や手続きを進めていきましょう。
その先のことも、焦らず、順を追って考えていければと思いますよ」
そうして差し出された次回の診察日と、必要な血液検査の案内。
美由紀はそれを両手で受け取りながら、深く息をついた。
診察室を出たとき、待合室で立ち上がった日向が彼女を見て、そっと訊ねる。
「……どうだった?」
美由紀は小さく笑った。
「……うん。ちゃんと、話せた。少しずつ、始まっていくよ」
日向はうなずいて、彼女の手をもう一度握った。
その手の温もりは、ほんの少し涙ぐみたくなるほど、やさしかった。
次章「第2章:からだの変化、こころの波」では、ホルモン治療の始まりと、美由紀の身体と心に起こる変化を描いていきます。