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最終章 愛という名前

春の終わりの雨は、細く、やさしかった。

長い冬を越えて芽吹いた緑の中に、微かに残る花の香り。

美由紀は、小さなスーツケースを引いて、あの日の坂道を登っていた。

その先にあるのは、日向のアパート。

そして、彼が待っている場所だった。


駅からの道は、見慣れたようでいて、まるで別の国の風景のようだった。

かつて、戸惑いと不安を胸いっぱいにして歩いた道――

今は胸の奥で、静かに確かな鼓動が響いていた。


玄関のチャイムを押すと、すぐにドアが開いた。

そこにいたのは、変わらない日向――

けれど、彼の瞳は少しだけ潤んでいた。


「……ようこそ、美由紀」


「ただいま……って言っても、いい?」


「もちろん。ずっと待ってた」


その言葉に、美由紀の緊張がふわりとほどけていく。


「何年もかかった気がする。でも、ここに来るための時間だったんだと思う」


日向は黙って、美由紀の手を取った。

その手は、細くなった彼女の指を、まるで傷をいたわるように包み込んだ。



部屋のなかは、以前と変わらぬ温かい空気だった。

コーヒーの香り、窓の外の木々、静かな音楽――

すべてが“受け入れてくれる世界”だった。


「手術は、終わった?」


「うん。まだ身体は少し痛むけど、不思議と軽くなったの。

 “これがわたしの身体”って、やっと思えたから」


日向はうなずき、マグカップを差し出した。


「……あの頃、君が“美由紀”と名乗った瞬間から、

 たぶん、僕の中では全部が変わったんだと思う。

 “好きだ”って言葉が、もっと深くて複雑な意味を持ちはじめてた」


「わたしも……ずっと怖かったよ。

 “愛される資格”があるのかどうか、わからなかった」


「資格なんてものは、最初からなかった。

 ただ、君が君であることを、僕は愛してたんだよ」


静かな沈黙が、ふたりのあいだを満たしていく。

美由紀は、ゆっくりと唇を開いた。


「……ねえ。ひとつ、お願いしてもいい?」


「何?」


「“てつ”って、名前を……もう、呼ばないで」


日向は、優しく微笑んだ。


「わかってるよ。

 君は、美由紀。僕の知っている、美しいよししるし


その瞬間、美由紀は涙をこらえきれなかった。

あふれた涙は、長い旅の終わりと、新しい旅のはじまりを告げていた。



夜になり、窓の外に月がのぼる頃。

ふたりはソファの上で肩を寄せ合っていた。


「これから、どうするの?」と日向が尋ねると、

美由紀は小さく笑って、こう答えた。


「“わたしであること”を、生きていく。

 名前を越えて、身体を越えて……

 そしていつか、“愛”という名前で、生きていけたらいいな」


その言葉に、日向はただ静かに頷いた。


部屋のなかに流れていた音楽が、いつの間にか止まっていた。

けれど、ふたりの間には、静かな旋律が鳴り続けていた。


未来という名の、永遠のメロディ。


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