第十二章 わたしという未来
春の風は、やわらかく、少しだけ冷たかった。
美由紀は駅前の桜並木を歩いていた。
手術の日程は、すでに決まっていた。
戸籍変更の手続きも進んでいる。
身体と名前が、ようやく“重なる”日が近づいている。
けれど、その未来はただ晴れやかで明るいものではなく、
時折、深い影も一緒に連れてくる。
「ほんとうに、これでよかったのかしら――」
独り言のようにつぶやいた言葉が、桜の花びらに吸い込まれていく。
身体を変えることが、人生のすべてを解決してくれるわけじゃない。
けれど、それでも前に進みたいと思ったのは、もう“後戻りしたくない”から。
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翔太と、ふたたび会うことになったのは、あの日の電話から数週間後のことだった。
「美由紀、変わったな。いや、違うな……ようやく“会えた”気がする」
その言葉に、美由紀は驚いて顔を上げた。
「会えた?」
「うん。あのころの“てつ”は、ずっと仮面をかぶってた。
でも今は……ちゃんと“美由紀”が、目の前にいる」
翔太の目は、嘘をついていなかった。
それは恋でも友情でもなく、“ひとりの人間”としてのまなざし。
「……怖くない?」
「正直、少し戸惑ってるよ。
でも、それ以上に、“こうして話せること”が、すごく嬉しい」
その言葉に、美由紀の胸があたたかく満たされていくのを感じた。
「わたしね、これから手術を受けるの。
ようやく、自分の身体を、“わたしのもの”にできる気がしてる」
翔太は、しばらく沈黙したあと、小さく頷いた。
「……応援するよ。でも、無理はしないで。
何かあったら、頼ってくれていい」
美由紀はゆっくりと息を吸い込み、そして微笑んだ。
「ありがとう。わたし、ようやく……
“未来”という言葉を、自分のものにできる気がしてきた」
⸻
その夜、日向にメールを送った。
《いつか、ちゃんと“わたし”を連れて、そっちに行きたい》
しばらくして届いた返信は、短くて、でも心に沁みる言葉だった。
《いつでも待ってる。ずっと、君の居場所はここにある》
その言葉を見た瞬間、なぜだか涙があふれてきた。
嬉しくて、苦しくて、切なくて――でもたしかに、生きていると実感する涙。
美由紀は静かに顔を上げた。
夜の窓に映る自分の瞳が、しっかりと前を見据えていた。
過去も、不安も、孤独も、すべて引き受けて、
それでも“わたしとして生きる”という未来を、自ら選びとるということ。
それが、“わたしであること”。
――名前を越え、身体を越え、いま、ようやく“未来”に立っている。
続く**最終章「愛という名前」**では、美由紀が再び日向のもとを訪れ、
ふたりの関係にひとつの答えを見出します。
それは「恋愛」という言葉だけでは言い表せない、
“誰かとともに生きること”そのものの肯定。
そして、美由紀が最後に手にする“ほんとうの名前”とは――。




