第十一章 名前のその先へ
名前が先だった。
“美由紀”という名を名乗ったその日から、心が静かに整っていった。
けれど――身体は、まだ“過去”を抱えたままだった。
それがどうしても、引っかかっていた。
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「GID(性別違和)診断は、確定しています。
ホルモン療法の経過も順調ですね。美由紀さんが望まれるなら……
次は、戸籍の変更と適合手術の相談に入っていくことになります」
診察室のなかで、医師は落ち着いた口調で語った。
美由紀は頷きながら、その言葉をひとつひとつ受け止めていた。
白い壁、窓の外の鈍い曇り空、聴診器を机に置く音――
すべてが静かな決意を求める空間に思えた。
「手術をすれば、“生まれた時の性別”と“いまの名前”が一致する。
でも……それって、ほんとうに必要なことなんでしょうか?」
そう問いかけたのは、美由紀自身だった。
医師は目を細め、少しだけ間を置いて言った。
「必要かどうかを決めるのは、医師でも制度でもなく、あなた自身です。
どの段階で“自分でいられるか”、それが一番大切なことですから」
“自分でいられること”。
それが、美由紀のなかで最も根源的な願いだった。
誰かの“理屈”や“制度”ではなく、
この身ひとつで“わたし”と名乗ることを、まっすぐに信じるための道。
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日向に、そのことを打ち明けたのは、その夜だった。
「手術……受けようかと思ってる。まだ、迷ってるけど」
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
「……怖くないの?」
「怖いよ。手術も、その先も。
でも、ずっと心のどこかで感じてた違和感を、もうこのままにしたくない」
「……君の決意なら、俺は受け止めるよ。
美由紀がどんな身体になろうと、俺にとっては美由紀だから」
その言葉に、美由紀は静かに目を閉じた。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
「ありがとう。……わたし、ようやく“名前のその先”に行ける気がする」
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週明け、役所の戸籍課に足を運んだ。
受付の女性職員は、書類を見て少しだけ驚いた表情をした。
けれどすぐに淡々と案内を始めた。
申請書に名前を書く瞬間、美由紀の手は震えなかった。
“美由紀”という文字を筆記体で書き終え、ふと窓の外を見る。
灰色の空に、うっすらと光が差していた。
――名前は、わたしが選んだ。
身体も、わたしが選ぶ。
誰かに決められるものではなく、
“わたしであること”を生きるという、ただそれだけの意志。
その一歩が、今ここに刻まれていた。
**第12章「わたしという未来」**では、手術の決断を経た美由紀が、
新たな暮らしと社会との関わりのなかで、“他者との共存”を見つめ直していきます。
翔太との再会が再び意味を持ちはじめ、日向との関係にも変化が訪れる予感――。
物語はいよいよ“わたしという人生”の核心へと向かいます。




