第九章 わたしという居場所
午後の風が、オフィス街のビルのすき間を縫うように通り抜けていく。
その風にスカートの裾を軽く揺らしながら、美由紀は歩いていた。
ふと、ショーウィンドウに映った自分の姿に目をとめる。
控えめなブラウス、落ち着いたスカート、首もとを飾る小さなペンダント。
どれも、以前の“てつ”には縁のなかったものばかり。
だけど、そこに映るひとが“わたし”であることに、いまはもう迷いがなかった。
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週に数回だけ、契約スタッフとして通い始めた小さな出版社。
事務職としての業務は主に入力と資料整理、電話の応対が少し。
名刺には「美由紀」とだけ書かれていた。
姓は伏せていた。
本名を出すことに抵抗があったわけではない。
ただ、美由紀として、ここに存在したかった。
「美由紀さん、これ明日までにファイル分けお願いできます?」
「はい、承知しました」
自然にそう答える自分に、美由紀は少しだけ驚く。
少し前の自分だったら、声が震えていたかもしれない。
けれど、ここでは誰もが名前で呼び、仕事で見てくれる。
“性別”ではなく、“人”として。
――たったそれだけのことが、どれほど支えになるか。
同僚の由梨が、コーヒーを持ってきてくれた。
「疲れてない? 最近ちょっと忙しそうだったから」
「ありがとう。だいじょうぶ。まだ、がんばれる」
湯気の立つカップを両手で包むと、手のひらにあたたかさが移った。
それはコーヒーの温度ではなく、きっと、人からもらった“気づかい”のぬくもり。
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その日の帰り道。
美由紀は電話で日向と話した。
「今日ね、少しだけ……自信がついた気がする」
「いいことだ。美由紀はちゃんと、まっすぐに進んでるよ」
「わたし、ちゃんと“居場所”を作れるかもしれない。
“わたし”として、生きていくことに、怖さが減ってきた」
「それは……たぶん、“愛されてる”って実感があるから、じゃない?」
少し黙って、美由紀は頷いた。
「……うん。愛されてるって思えると、自分のことも信じられる。
そんな気がしてる」
夜風がそっと吹いて、髪が肩をなでるように揺れた。
歩道の街灯が灯りはじめる時間。
その灯りの下で、美由紀はもう一度、鏡のようなショーウィンドウをのぞき込んだ。
そこには、きちんと前を向いて立つ“自分”がいた。
名前も、姿も、声も――そして生き方も、“わたし”そのものだった。
**第10章「告白と選択」**では、美由紀が「過去」と「現在」のはざまで揺れる中で、
とある“古い友人”との再会を果たします。
「てつ」として過ごしていた日々を知るその人物との対話のなかで、
彼女は“過去を否定すること”と“受け入れて進むこと”の狭間に立たされていきます。




