序章 静かな決意
美由紀は、鏡の前にいた。
夜の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。
化粧を落とし、何もまとっていない自分の顔をじっと見つめながら、ふと深く息を吐いた。
自分は、ようやくここまで来た――。
そう思うと、胸の奥が少しだけ震える。
だが、震えの中には、もう後ろめたさや否定の影はなかった。
リビングのテーブルには、封筒がひとつ。
名前が記された書類と、数枚のパンフレット。
「性別適合手術に関するご案内」
それは、長く思い描いてきた未来の扉に、手が届いたという証だった。
日向は、少し離れたキッチンで食器を洗っている。
水の音が静かに部屋を満たしていた。
その背中に、美由紀は静かに声をかけた。
「ねえ……日向」
「ん?」
「……来月、病院行くことにした。カウンセリング、予約取れたの」
水の音が止まる。
振り返った日向は、しばらく黙って美由紀を見つめていた。
その瞳に、驚きよりも、深い理解が浮かんでいるのを、美由紀は感じた。
「そっか……ちゃんと、決めたんだね」
美由紀はうなずいた。
「怖くないわけじゃない。でも、ここから逃げたら、ずっと“わたし”に会えない気がするの。
わたしの身体を、ちゃんと“わたし”にしてあげたい」
日向は美由紀のもとに歩み寄り、その手をそっと包んだ。
「じゃあ、一緒に行こう。カウンセリング、俺もそばにいる」
美由紀の目に、涙がにじんだ。
それは弱さからではなく、あまりにも静かな安心に触れたからだった。
「ありがとう、日向……わたし、ちゃんと変わっていきたい」
そう言った彼女の声には、どこまでも確かな決意が宿っていた。
外では、春の風が揺れている。
その音すらも優しく、美由紀の背中を押してくれているようだった。