七五 六三〜恋した貴方はスパイでした〜
ーーからんころん。
カウンター席、窓から3番目。きっと彼……清水さんは今日も、こんなふうに注文するだろう。
「「珈琲とサンドウヰッチ」」
パッ、と目が合う。
「参ったなあ」上品にはにかむ清水さん。
「だって、すっかり常連さんなんですもの」
はしたないんじゃないかとは思いつつも、私はちょっぴり舌を出してみせた。
厨房から、彼の仕草を覗き見するーーそれがここ最近の、私の密かな日課だった。
女よりも滑らかそうな、濡羽色の髪に、海の底を彷彿とさせる、切れ長の瞳。
一見すると地味だけれど、どこか洗練されていて。内なる美、静謐な佇まい……もはや、灰皿を手繰り寄せる手つきすら、一切の無駄がないように感じられる。
危うくきゅうりを、みじん切りしそうになった時だった。
「モヨ、Harry up!」
店長のジョセフが、こちらの思考を遮るように短く叫ぶ。私は、はいっ、と慌てて返事をするしかなかった。
途端に、ほわんとした湯気に包まれる。
(あ、また……)
さっきまで、たしかに目で追えていたはずなのに。今度は一体どこに行ってしまったんだろう、清水さん。
時折、不思議に思う。
彼はよほど存在感が薄いのか、ちょっとでも気を抜こうものなら、たちまち視界から姿を消してしまうのだ。
そして、
そんなことが、なぜかよくある。
「おまちどおさまです!」
しかめっ面の彼に、私はつとめて明るく告げる。
「おお、ありがとうございます」
結局、やや小柄な体躯は、新聞紙にすっぽり覆われていた、というだけだった。
(本当に、影みたいな人)
追加のナフキンを置きながら、はたと気づいた。
「異国語……ずいぶん、難しいのを読んでらっしゃるのね。私にはさっぱりだわ」
外資系のお仕事だったかしら……?と、嫌味を込めたつもりなんて微塵もなかったのに、清水さんはすかさず、新聞紙を丸めてしまった。
私のむくれた表情から何かを悟ったのか、
「せっかくの洋食です。ぜひ、温かいうちにいただきたいんでね」
清水さんはゆっくり、形の良い唇を緩ませる。
「やっぱり、ここのサンドウヰッチは絶品だ。上の国旗も実に愛らしい」
私はほっと胸を撫で下ろすーー良かった、気づいてくれていたのね。
「清水さんが美味しそうに召し上がってくださると、私もなんだか嬉しくって。うふふ、今日はですねえ、爪楊枝に遊び心を施してみたんです」
「いじらしいなあ。ひょっとして、俺限定ですか」
童心に返りたい私とは裏腹に、清水さんは優雅に珈琲を嗜む。
なんというか、こう、ものすごく"場数"を踏んでいそう……悪戯っぽく頬杖をついた彼を、私は直視できなかった。
ああそうだ。話題をすり替えるべく、しーっ、と囁く。
「店長には、できれば内緒にしてくださいね。まあ、彼ほど真面目な人もそうそういないのだけれど」
私も清水さんも、苦笑い。
「それは言えてるーーただ、ずっと二人だけで切り盛りしていては、体調を崩すこともザラなんじゃ?」
彼はさりげなく、私の目の下を指差した。みるみる顔が紅くなったのが、自分でもよく分かった。どうやら全てお見通しだったらしい。
「……ええ。実はこの頃、寝つきが悪いようで」
昨日も、夜な夜な電報を打つジョセフに毛布をかけてあげたばかりだ。こんな小言にすら、清水さんは「へえ」と愉しげに口角を吊り上げてくれる。
気分の良くなった私は大袈裟に手をあおぐ。
「それにしても、よっぽど疲れていたのでしょうねーー丸とか四角とか、そんなのばっかり。全く意味の分からない文だったんですもの」
ご馳走様を言い終わらないうちに、清水さんはスーツの内側から、何やら万年筆のようなものを取り出した。
「たいへん美味かったです。国旗に労いの言葉を忍ばせておいたから、後で店長にも見せてあげてください」
瞳の奥にはすでに、猫のように爛々とした光が宿っていた。
お盆に食器を載せ、会釈した時にはもう、清水さんの背中は遠ざかっていった。そこはかとない物足りなさで、私の胸はいっぱいになる。
(また異国語、なのかしら……)
というより、字も細かすぎてよく見えなかった。もしかしてそこには、殿方にしか理解できない世界でも展開されているんだろうか。私は勝手に、仲間はずれされたような気になってくる。
*
次の日も、そのまた次の日も。清水さんには会えなかった。まあ、無理もない。店長がいきなり倒れてしまったのだから。
過労のせいもあるのかと思い声をかけてみるも、当の本人は青ざめた顔で「店を閉める」の一点張りだ。
(暇は暇で、つらいものなのね)
今までシャキシャキ働いていたぶん、ぼーっと過ごすのにもそろそろ飽きてきていたところだった。とりあえず買い出しにでも行こうーー支度を終えると、裏口のほうから、コンコンと軽快な音が聞こえてきた。
「俺です。店長のお見舞いに上がらせてもらえませんか」
すぐさま、彼だ、と確信した。
私は思わず、感嘆の声を上げる。
「やあ、すみません」
月桂樹、カルミア、ゼラニウム……大きな花束を抱えて、清水さんは立っていた。
「お客様がお見えになりましたよ」
私が言うと、ジョセフはーー掠れた悲鳴を漏らして後ずさった。
(え……?)
おそるおそる、振り返る。そこにいるのは穏やかな笑みを讃えたままの、清水さん。彼が一歩一歩距離を詰めるごとに、ジョセフは体を弓なりに曲がらせた。
「よっ、よしてくれっ……! 要人暗殺計画なんて馬鹿げたことを企てているのは、上層部の人間だけで、ワタシは……!」
ワタシは、何もーー。そこまで言ったところで、ジョセフは正気を取り戻したように押し黙った。
「失望しました。ジョセフ・グレイ……あなたには、二重スパイの容疑がかけられている」
清水さんは花束の中から、写真やら蘇言機やらを、手品のごとく取り出した。
呆然と立ちつくす私をよそに、おびえるジョセフの耳元へ、それらは運ばれていった。
たしかに、写真も、声も……ジョセフによく似た男性のものだ。
「他でもない、こちらのお嬢さんが証言してくれたんですよ。あなたは毎晩のように本国へ送る機密情報を打電していた。そうですね?」
「ま、まさかーー!」
スパイだなんて、そんな。きっと何かの間違いに決まっている。だってジョセフは、街一番の料理上手で、孤児の私を引き取ってくれるくらい、優しい人で。
しかし。
私の淡い期待は、がっくり項垂れるジョセフによって、無惨に打ち砕かれた。
「本当、なの、ジョセフ……」
ふいに、ポン、と肩へ清水さんの手が置かれた。「退がって」低い声で耳打ちされながら。
刹那、地を這うようなすさまじい咆哮が轟いた。
空の酒瓶を手にしたジョセフは、こちら目がけて一直線に走ってくる。
「やめっーー」
清水さんは軽く跳ねたかと思うと、しゅるり、勢いよくジョセフの首に巻きついた。その苦しそうなうめき声に、私は強く目を瞑る。
「さあ。無駄な抵抗はよして、俺と一緒に来てください」
(一体、どこにそんな力が……)
彼の細腕からは、想像もつかないほどの力だった。
息も絶え絶え、ジョセフが涙目になって言う。
「ワタシを拷問にかけるのは構わないが、この子はーーモヨはどうなる! 独りぼっちで、寂しい思いをさせるわけにはいかないだろう! ワタシはまだ、父親としての務めを果たせていないのだ」
「なるほど」清水さんは機械的に頷いた。
「……子どもを引き合いに出すんですね。ずるい人だ」
ギリギリと、ジョセフの首を締め上げる力がいっそう強くなったようだった。
「わ、ワタシ、は……かはっ」
「や、やだ、ジョセフっ……!」
「娘さんに何か言い残すことは」
淡々と告げられ、私はたまらず、清水さんの手首を掴んだ。
「どうか、どうかお願いです。命だけは……! たしかに、ジョセフは悪いこと、してるのかもしれない。それでも私の家族は……この人しか、いないんです!」
たかが女ひとり全力を出したところで、清水さんの手はびくともしなかった。冷ややかな視線のみが、私に降り注がれる。
「そういう掟なんですよ。俺にはどうしようもできない」
「私が見張っていますから! もう二度と、悪いことなんてしないように……!」
食い気味に答えた私に、一瞬、ほんの一瞬、泣きたくなるような優しい微笑みが向けられた気がした。
「困ったな……こんなにも真っ直ぐで、綺麗な瞳に見つめられたら」
頬を、さらりと撫でられる。内緒話の続きをするかのように、清水さんは囁いた。
「君は、こっち側に来ちゃいけないよ」
行き場を失った片手。思わず私は、待って、と叫んだ。
「私、貴方のことがーーすっ……」
目にも留まらぬ速さだった。
その先は言わせまいといったふうに、ハンカチーフで口元を覆われたきり。私の意識は、ふつっーーと途切れた。
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夜空に煙をくゆらせる。どうせ俺も、そのうち始末されるんだろうなーーなどと、他人事のように思ってみる。
敵に国の機密情報を握らせたまま、任務はあえなく失敗……いやはや、スパイたるもの、一時の情に揺さぶられるなんて有り得ない。
結局俺は、組織の連中のような化け物にはなりきれなかったのだ。
脳裏に、裏切られたような顔をした女の顔が浮かび始めた。
とはいえ、辛いのだって、苦しいのだって、しょせん今だけだ。無知であればあるほどそうなのだ。彼女もきっと、いずれは俺のことなんて綺麗さっぱり忘れられるくらいには大人になるだろう。だって人生は、つまるところ歩く影にすぎないのだから。
「愛は盲目、恋人たちにはその愚かしさがまるで見えない……はは。言い得て妙だよな」
ぼんやりしているうちにぽとりと落ちた吸い殻を、俺は灰になるまで踏み潰す。
ひとつ、微笑してみせた。いつだったか欧州の美術館で見た『最後の晩餐』が、今はひどく懐かしい。今宵の煙草は、格別美味かった。
あとがき
ハッピーエイプリルフール。最後まで読んでくださりありがとうございました。余談ですが、タイトルの『七五 六三』は、いろはにほへとの暗号表に当てはめると「好き」という意味になります。個人的には、奥ゆかしいスパイっぽくて気に入っています!