始まり
温かい目で見守ってください。
諸星茜は暗い路地を駆けていた。
時刻はまだ午後2時くらいのはずだ。それなのに路地はまるで夜のように暗い。何故か太陽の光が入ってこない異常な暗さの路地を茜は何かに追われるように駆けていた。
というより実際茜は何かに追われていた。
何者に追われているのか、何故追われているのか分からないがとにかく捕まったらヤバイということを本能が察知していた。茜は今にも倒れそうな身体を叱咤して走り続ける。一体何でこんなことになったのか思い返してみる。
今日は大学の講義が早く終わって、さっさと家に帰ろうと駅までの道を歩いていた。そしたら、いつのまにかこの見知らぬ路地に立っていた。以上回想終わり。
訳が分からない。
特に寄り道もしていないのに気づいたらこの変な路地に迷い込んでいたのだ。しかも、ただならぬ気配を背中に感じて咄嗟に走り出したのはいいが、しばらく走っても背中から感じる気配はさっきから小さくなるどころか大きくなっている。
「はぁっっ……はっ……!なん…なん…だよ…これ…」
曲がり角を何回も曲がり、異界のような道をひた走る。方向感覚は既に狂い、同じ道を走っているような感覚に陥る。どれくらい走ったかは分からないが後ろを振り向かずにひたすら全力疾走する茜の体力はもう限界だった。身体が酸素を求めていて辛い。それなのに、本能は走れ!逃げろ!と訴えかけてきて茜はなんとか身体を動かしている状態だった。
そして、その時は突然訪れる。
ふっと身体から力が抜けるような感覚。そのまま茜は足をもつれさせて前のめりに倒れた。自分の限界を超えて走り続けた茜は糸が切れた人形のように地面に崩れ落ち、指の一本も動かせずただ荒い息を繰り返す存在になってしまう。
(早く逃げなきゃ……に…げ…)
脳に酸素が足りないのか思考もまとまらない。それでも本能は逃げろと叫んでおり、背後から迫る正体不明の恐怖と合わさって気が狂いそうだった。
なんとか周囲のことを把握しようと倒れたまま視線を前に向ける。
一瞬、全ての思考が止まった。
それをなんと形容したらいいだろう。少なくとも人型だということは理解できる。でもそれだけだ。奈落。深淵。全てを飲み込む闇を人の形に無理矢理成形したらこうなるだろう。この世に存在してはいけないような黒い姿を持つナニカが、背後にいたであろう恐怖の主が、茜の目の前に立っていた。
「…………っ!……!?……っや…!」
恐怖と息切れで声がうまくでない。疲労と震えで立つこともできない。カチカチと歯がぶつかり合う音だけが耳に残る。人としての本能が脳が焼き切れるほど警鐘を鳴らしている。蛇に睨まれた蛙のように、茜は動くことができなかった。
一歩。 人型の闇が、恐怖が近づいてくる。それだけで茜は気が狂いそうになった。今すぐに舌を噛み切って死ぬことができたら、この苦しみから解放されるのかもしれないという考えが茜の脳裏を掠めた。
また一歩。 理性が削られていく。呼吸が浅く速くなっていく。冷や汗が止まらない。舌をうまく噛めない。
さらに一歩。 一歩。 一歩。 一歩。 一歩。 一歩。 一歩。 一歩。 一歩。
目の前。
「だれかたすけて」
母を見失った幼子のような茜の声は誰にも届くことのなく。人型の闇が茜へと手を伸ばし掴み上げる。首を強く掴み上げられ息ができなくなるが、もがくこともできない。
(首……へし折られ……しんじゃ…)
徐々に強くなる首を掴む力に絶望の予測が茜の脳裏に浮かぶ。凄まじい苦痛で白んでいく脳内は走馬灯を流していく。もう間もなく襲うであろう決定的な痛みと死に抵抗も許されず叩き落される。その瞬間、
《発現》【虹】
機械的な天啓が、
《宿主が行動不能と判断》
粉砕される異音と共に、
《外敵の排除と宿主の延命を行います》
茜に舞い降りた。
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