13-1 伏見 北条軍争乱1
日が暮れて数刻。
北条本陣から少し距離があるこの場所からでもわかるほどの、大きな騒めきが起こった。
軍が動く際の低周波をまとった地鳴りのような音ではない。
もっと唐突に、怒声のような歓声のようなものが聞こえたのだ。
勝千代はパチリと目を開けた。
ね、寝てたわけじゃないぞ。一瞬無我の境地でこっくりしたかもしれないが……
「始まりましたな」
しっかり入り口をふさぐ位置に座り込んだ逢坂老が、低くさびた声で言う。
耳を澄ませる。
この距離で、刃の音などが聞こえるはずもないが、軍が動くような事態になればさすがにわかる。
左馬之助殿のあの気質からして、配下の者に嫌われているという事はないと思うが、トップの言う事が正義の武家の世界、直属の上司のいうことと、総大将の言う事が違う場合、集団がどう転ぶかは計れない。
あくまでも勝千代の予想だが、生きてさえいれば左馬之助殿が圧勝だろうと思っている。
当主の弟とその他では、その身の価値が雲泥に違う。
闇に葬るという手段を取るしかなかった者たちだ、それしか軍を掌握する方法がなかったからそうしたのだ。
誰の目にもわかりやすく帰還をアピールし、副将らの謀反を追及できれば、何も知らない者たちはおそらく当主の弟の方につくだろう。
詮議をすると騒ぎ立て、軍の動きを止める。
可能な限り引っ張って、細川軍が迫ってきても動かない。
北条軍がまるまる伏見まで出て来てくれたおかげで、非常にやりやすくなった。
最終的にどちらの勢力につくにせよ、後からいくらでも言い訳がつく状態だ。
まあ、せいぜいごたごたしていてくれ。
「掌握できるでしょうか」
三浦兄のつぶやきに、室内にいた複数名が微妙な表情になる。
あの天性の暢気さは、人に好まれはするが、いささか心もとなくもある。
三浦らの脳裏にあるのはおそらく、農家の後家の尻を目で追い、幼い勝千代に縋りつく頼りない男の様子だろう。
だがまあ、ああいう奴が意外と最後まで生き残るのかもしれない。
味方とは言えない勝千代ですら、ちょっとは手を貸してやろうという気にさせるのだから。
もちろん大前提として、忠実な側近団は必要不可欠だ。
実兄がそれをわかっていないはずはなく、おそらく副将はその「しっかりした側近」だったのだろう。
ふと脳裏に、兄弟して人を疑うことを知らない暢気な気質だったらどうしよう、という懸念が過った。
いやまさかな。
ますます関東地方に勢力を拡大している北条氏のトップが、究極の善性の持ち主であるはずはない。
だましだまされ、ある程度の清濁を併せのめる者でないと、大国を治めるのは困難だと思う。
「では、田所に合図を送ります。若はそろそろお休みになってください」
「わかっている」
副音声で、「子供は寝る時間です」と念押しが来た。
勝千代はむっと唇を尖らせ、逢坂老を見上げた。
危険な下京に勝千代自身が行くことは全力で皆から拒否された。……まあ、自衛できないお子様などただの足手まといなので、駄目な事はわかっていた。
皇子をお連れするのに忍びだけをやるわけにもいかず、勝千代の護衛及び側付きたちはそばを離れたがらず、ではと名乗りを上げたのが田所だ。
そしてみんなして、勝千代の顔を見るなり早く寝ろ、すぐに寝ろと口やかましく言うのだ。
眠そうに見えるのはわかっている。
けれども、この状況で熟睡できるほど神経は太くない。
目はしょぼしょぼするし、生あくびがずっと出る。
それでも、深い眠りは訪れない。
逢坂が連子窓の側まで寄り、真っ暗な屋外に目を凝らした。
勝千代も立ち上がり、その隣で少し背伸びをして軒下を覗き込む。
真っ暗過ぎて何がどこにあるかもよくわからない通りに目が慣れてきて、ぼんやりと複数名の人影らしきものが浮かび上がってきた。
三浦が窓際に寄せた灯明の皿に掌で影をつくり、離し、リズムよく点灯して見えるようにする。
その合図を待っていたのだろう、通りの人影が手を上げた。
うちからは田所らと忍び数名、一条家から土井侍従と幾人かの武士たち。
彼らは下京に侵入して身を隠し、皇子らを脱出させる時期を計る。
それがいつになるかわからないし、間違いなく命がけになるだろう。
いったい何人が無事に戻ってくれるだろうか。
人影は数歩遠ざかると闇に溶け、まったく何も見えなくなった。
奇しくも月のない夜だ。ぶ厚い雲が空を覆い、今夜は闇夜になるだろう。
この闇が身を隠してくれるのは幸いだが、それは敵味方同じ条件。
まさに一寸先は闇。どこに何が潜んでいるかわからないというのは恐ろしいものだ。
「さあ、寝間の用意は済んでおります」
逢坂に促され、小さく溜息をつく。
「どうぞ」
例によって例のごとく、いつの間にか部屋にいた弥太郎が香り立つ薬湯を差し出してきた。
絶対よく眠れる系の薬を混ぜているだろう。
勝千代は、主君に薬を盛るとは何事、と思いながらも、素直に湯呑みを受け取った。
自分でも、このままだと頭の働きが鈍るので、睡眠が必要だとわかっていたからだ。
おそらくは睡眠導入剤のような、精神を落ち着ける軽いものだろうと予測していたのだが……一口飲んで、即落ちだった。
ふっと身体から力が抜ける感覚がして、床に頭をぶつける前に支えたのは逢坂老だ。
こいつら、グルだな。
遠ざかる意識下で、さっさと臥所まで運ばれ、丁寧に掛け布にくるまれるのを感じた。




