2-1 下京 宿
急遽差し替えました。既読の方は、申し訳ありませんが再読願います。
背筋を伸ばし、筆を構える。
人払いをした静かな室内で、白紙の紙にそっと墨を落とす。
かつて生きていた時代で習字と呼ばれていたものは、どちらかというと実用というよりも芸術方面に振れたものだったが、この時代では普通に学ぶべき教養であり、必須科目だ。
ただし、遠い未来のように系統的で完成された書体というものがないから、書く人それぞれ勝手な解釈で仮名や漢字を崩して使う。
特にそれが間違っているわけでもないのがややこしい。
つまり、正解というものがはっきりと決まっていなくて、アバウトの幅が広く、まったく違う形状なのに同じ文字だったり、ただ一本線を伸ばしただけのものなのに、多様な読ませ方をしたりするのだ。
勝千代に三十年以上の書道歴がなければ、かなり苦労していただろう。
とはいえ、遠い未来への兆しのようなものはある。
書にも流派があり、それによりおおよその型のようなものがあるのだ。
勝千代は東雲の伝手で、当代でも屈指と言われている書家、藤波家の当主に師事していた。
武家がこうやって公家に書や詩歌、作法などを習うのは珍しい事ではないが、勝千代程度の身分ではなかなかこのレベルの師につけることはない。
もちろん謝礼金はしっかりと払っている。
京までの往復に滞在費まで合わせると、かなりかさばる額が掛かってしまう。
当初は勝千代も遠慮しようとしたのだが、叔父たちを含め福島一門の後押しで、年に一度京に行くことが許されていた。
その心遣いを無駄にしない為にも、十日の滞在期間を有意義に過ごすのは義務だと考えている。
階下でバタバタと乱れた音がして、それが望まぬ来客のせいだということはわかっていたが、集中を途切れさせることはなかった。
勝千代がこの時間を大切にしている事を、側付きたちは皆知っているので、大概の「邪魔」は追い払ってくれるはずだ。
もちろん、ここは京だ。勝千代よりもはるかに身分立場が上の者が大勢いる。
側付きでは対応しきれない「邪魔」が入ることもあり得るとわかってはいた。
切りのいいところまで一文を書ききり、少し俯瞰してその形状を確認していると、「失礼いたします」と土井が声をかけてきた。
意図的に排除していた周囲の音が戻って来て、硯の上にそっと筆を置く。
「申し訳ございません、お勝さまに話があると、侍所の松田様と名乗られるお方が」
知らない名だ。
そもそも現在の京の治安は極めて悪い。侍所だ検断職だとは言っても、単なる形式上名目上名前が残っているだけで、ほぼ……いやまったくその機能は果たせていない。
組織そのものが存在すると言ってもいいものか、それすらも怪しいぐらいだ。
とはいえ、武家の頂点が幕府だという事は確かで、守護はその下にあり、勝千代はさらにその下の陪臣、側付きらは更に位が下がる。
いくら実が伴っていないとはいえ、京の治安を維持する役人を無碍にできる立場ではなかった。
「……奥にお通しして」
こらえきれず溜息をつき、指先についた墨を懐紙で拭う。
気が進まない客だが、迎え入れるのに小袖に袴というわけにはいかない。
三浦兄弟が運んできた直垂を身にまとい、小物類も含めてわりとフォーマル対応可な身なりに改めた。
気合が入っているとまではいわないが、割としっかり目な服装だ。
それだけで、やってきたのがそれなりの身分の方なのだとわかる。
「お客人について何か知っているか?」
最後に胸紐をきれいに結んだ三浦兄を見下ろして問いかける。
「藤波邸にいた役人たちに、何かあれば宿の方に来るようにと言うておりました。その件かもしれません」
ということはまた難癖をつけに来たのだろうか。
「連れてきている武士たちが、今朝がたのものとは雲泥です」
なるほど。廊下に控える若手の数が増え、ピリピリして見えるのはそのせいか。
「捕えに来たというわけではないのだろう。気負うな」
そわそわと視線をさまよわせていた者たちが、はっとしたように勝千代を見た。
しまったな。余計に身構えさせてしまった。
客人は、初日に勝千代が入った最も広い部屋に案内されていた。
「福島勝千代にございます」
廊下でそう名乗ると、「入られよ」と若干神経質にも聞こえる声が返ってくる。
客人の配下が丁寧な仕草でそっと障子に手をかけ、滑らせた。
その所作の如才なさに、やはり客は「それなり以上」なのだろうと気を引き締める。
勝千代が廊下に腰を下ろしたまま頭を下げ、礼法に沿った挙動で入室する様子を、複数の目がじっと見守っているのを感じた。
まるでテストを受けている気分だ。
そんな事を考えながら、指先まで意識を集中させて、粗など見せないように気を配る。
いやちょっと待てよ。むしろ田舎の粗忽ものを演じればよかったか?
いまさらそんな事を考えて、ちらりと上座を見てから深く頭を下げる。
「福島勝千代殿か」
先程の、入室の許可を出したのとはまた別の声が勝千代の名をつぶやいた。
あまり特徴のない、感情の乗らない声だ。
声だけで、相手がどういう人間かを判断できるわけもないのだが、何故かその男の声には、ひどく背筋を冷やす雰囲気があった。
「顔を上げられよ」
京訛りではない。
どこのお国の人だろう、と考えながら顔を上げ、無意識のうちに小首を傾げそうになった。
視線を上げないようにしていたので、これまで気づかなかった。
だが、その男を一度見たものは、二度と忘れることはないだろう。
茶色い髪、明るい茶色の目。頬にはそばかす。肌の色は見るからにトーンが違う色白だ。
外国の血を引いているのか?
そう思ってしまう程の、特筆するべき異相の持ち主だった。




