12-2 伏見 北条軍2
「なんと」
数日で一気に老けた顔の土居侍従が、北条軍が下京を出たという知らせに顔を険しくする。
「宇治川を塞がれる前に、御出立なさったほうがよろしいかと」
勝千代の小声の進言に、一同そろって一条家ご家族がいらっしゃる方向を見る。
「佐吉、今なら船は出せるのだな?」
「確保できているのは二隻だけです。詰め込んで五十名といったところでしょう」
答える佐吉の声も小さい。
漏れ聞こえてくる楽し気な御一家の笑い声に、水を差したくないと感じるのは誰しも同じだ。
北条軍はおそらく、京街道を塞ぐのが主目的だろう。
つまりは、阿波の御方の関係者、あるいは軍勢を京まで上らせたくないのだ。
出ていく分には大丈夫だというわけでもない。
京を逃げ出そうとする身分ある者たちには人質としての価値があり、特に一条家の方々は権威付けとして押さえておきたいところのはず。
懐にそういう御身分の方を抱えておけばおくほど、京への直接攻撃は控えようという気運になるだろう。攻め込めば逆賊と言われる可能性があるからだ。
「猶予はありません」
勝千代の言葉に、大人たちは険しい表情で頷いた。
大軍が動くには時間がかかる。とはいえ、これだけ近い距離だと備えができる間があるとは言えない。
下京から伏見まで、徒歩で数時間といったところだ。一千の軍隊であったとしても、半日も掛かるまい。
北条軍が街道沿いに南下するのであれば、伏見を通らないわけがなく、要所のひとつとして押さえに来るだろうとは予測できた。
早ければ今この時にも、斥候が様子を見に来ているかもしれない。
それを考えれば、もはや一刻の猶予もなかった。
「すぐに船を出せるように用意いたします。この話が町に流れれば騒動が起こり、安全に乗船できなくなるかもしれませんので、お急ぎください」
佐吉がそう言いおいて、静かに席を外した。
土居侍従がため息をつき、眉間を揉む。
せっかく少し落ち着けるかと思いきや、すぐにまた出立しなければならない。普段ずっと屋内に引きこもっている公家女性には特に厳しい状況だろう。
「北の御方の体調がすぐれないとお伺いしました」
勝千代がやつれ果てて見えた北の御方の顔を思い起こしながらそう言うと、小次郎殿も眉を垂れさせ、声を潜めて頷く。
「……起き上がる事すらお辛そうです」
その状態で川を下り、更には土佐まで? 体力的にもつのか?
「どこかこの近辺で、安全にお休み頂けるところがあればいいのですが」
安全な場所などありはしない事は、この場にいる誰もが理解していた。
畿内の勢力は入り組んでいて、どこかが突出して強大な力を持っているということはなく、正直なところどこも安全とはいえないのだ。
今はとにかく、京から離れる事を主眼に動いた方が良い。
「遠回りかもしれませんが、いったん堺にお寄りになってください。あそこに限って言えば、武家の勢力より商家のほうが強いので」
「……やはりご一緒頂けませんか」
懇願するような口調でそう言ったのは土居侍従だ。
勝千代は苦笑し、「五十であれば、全員は乗れませぬ。一条家の方々が優先でしょう」と首を振る。
「数はこちらで調整します。勝千代殿がいらしてくだされば、皆様安心なさいます」
「席が空くのなら、藤波家の方々を乗せてください」
はっとしたように顔を上げたのは東雲だ。
実は勝千代の書道の師である東雲の兄のご一家も、ここ伏見まで避難してきているのだ。
ついでに言えば、伏見より一つ先の宿場町に、逢坂家の騎馬隊がいる。
合流できれば、福島の兵数は単独で七十を超える。小規模ながら立派な軍勢だ。
子供がひとり勉学のために京に向かっただけなのに、何故騎馬隊がついてくるのか。
陸路であればまだわかるのだが、大型の船と人通りの多い街道を使っての旅にそれだけの護衛が必要だとは思わない。
万が一の場合だと逢坂老は言う。まさにその万が一の事態を引き当てたわけだが、大きな戦になろうという時に騎馬隊がうろついていると悪目立ちするだろう。
事が収まるまでこっそりそのあたりに身を潜めていることが難しくなってしまった。
「もちろん我々もすぐに出立します。途中邪魔が入らずにすんなりいけば、一日ほどで堺に到着します」
ちなみに、ここ伏見から堺まで一般的な大人の歩行速度で約二日。騎馬で約一日。十石船で河を下ると半日だ。
「日向屋の腕に覚えのある者が出迎えてくれるそうです。その者たちに、堺に寄りたいと申し付ければ取り計らってくれるはずです」
土居侍従はまじまじと勝千代を見つめ、ひとつ嘆息してから頷いた。
「すぐに出立の準備に取り掛かります」
権中納言様は同行されるのか気になったが、問わずともその答えはわかる気がしたので、黙って頷いて老侍従を見送る。
はたして北条軍が伏見に到着するまで猶予はどれぐらいあるだろう。
罷り間違えば今生の別れになりかねないひと時を、少しでも長く心穏やかに過ごしてほしいと思う。
すでに夜は明けている。
勝千代らが伏見に到着したのは昨日の昼過ぎだから、まだ丸一日も経っていない。
ゆっくり休めたとは言えず、手足にまだ疲れがかなり残っている。
見下ろした通りを行き交うのは、京から逃れて幾分ほっとした表情の人々だ。
多くが長居する予定ではないだろう。街道沿いに南下するか、舟の順番を待つかだ。
誰もが急いでいるが、命の危険を察知している風はない。
逆に、命を拾った安堵の雰囲気だ。
勝千代はぶるりと身震いし、両手で腕をさすった。
覚えのあるピリピリとした感覚。
これは、北条軍が迫っている事を知っているからか。
それとも、迫りくる危機を察知したからか。
勝千代がそっと目を閉じるのと、空気にわずかな埃っぽさを感じるのとはほぼ同時だった。
いや、まだだ。
通りを行き交う大勢の人々が立てる砂ぼこりかもしれない。
斥候隊の騎馬が立てるものだとは限らない。
だが閉じた瞼の向こうで、逢坂老らが腰を浮かせ刀を握るのが分かる。
時間は、こちらの都合で動いてはくれないようだ。
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