11-7 伏見7
「ひっ」
首に切っ先を付きつけられ、悲鳴を上げたのは崇岳だ。
吉祥殿を連れて逃げ出そうとした坊主らの動きは、予測していた。
少なくとも夜までは待つだろうと思っていたのに、まだ日も沈まない夕刻、さっそくやらかしてくれた。
ちなみに宿を抜け出した崇岳らは十人ほどの僧侶とたちと合流しており、彼らは皆すぐにでも旅に出る事が出来る支度を整えていた。
「わ、若君」
崇岳は上ずった声で勝千代に縋り、地べたに転がされた仲間たちを絶望の目で見ている。
「どうか御助けをっ!」
勝千代は、ウトウトしかけていたところを起こされて機嫌が悪かった。
すぐに動きそうだったから、せいぜい手と足を洗ったぐらい。ゆっくり休みたかったのに、まだまともに食事もできていない。
なにもかも、こいつらのせいだ。
さて、どう言い訳する?
勝千代は欠伸をかみ殺し、青ざめた大小の坊主どもではなく、悠然と立っている男前を見ていた。
「そのほうだけ逃げ出すにしては軽装だな。見つかるとわかっていたのか」
「ご容赦ください。若君がこの御方を手に掛ける前にと」
こんな時ににっこり笑うな。怖いんだよ。
「……それで、我らから逃れてどうするつもりだった?」
拳を口に当て欠伸をかみ殺した勝千代を、崇岳は信じがたい者を見る目で見ている。
砂ぼこりのたつ地べたに座り込んだ吉祥殿も、同様にぽかんとした表情だ。
また込み上げてきた欠伸を飲み込む。
「若」
苦笑したのは逢坂老だ。
すまんな、緊張感がなくて。ずっと気を張っていたから眠いんだよ。
「こちらは片しておきますので、お休みになられては」
「そうも言っておれぬ」
片す、の言葉で真っ青になった吉祥殿がぶるぶると震え始める。
奥歯がガタガタと鳴り、その目の奥にあるのは本格的な死への恐怖だ。
これまで微塵も疑っていなかったのだろう。
己が人生の勝者になることを。
「刀を引け」
勝千代はそう言って、欠伸で滲んだ涙を拭った。
命令ひとつで、寸分たがわぬタイミングで刀が僧侶たちの首筋から離れる。
「……若君」
真っ青な崇岳が、ずりずりと膝たちで勝千代の足元まで這い寄ってきた。
シャリと鋼が滑る音がして、ひと際切れ味がよさそうな刀が崇岳の目前に付きつけられた。
「ひっ」
小柄な谷とはいえもちろん勝千代よりは大きいので、立ちふさがれたら前が見えなくなる。
諫めようかどうしようかと迷っているうちに、「ひいいいっ」と更に悲鳴が上がって、崇岳は尻餅をついてじりじりと引いた。
見れば谷の刀の切っ先に、墨色の法衣が引っ掛かっている。
怪我はさせるなよ、ややこしくなるから。
「用意は」
「できております」
勝千代の問いかけに答えたのは弥太郎だ。
彼が小脇に抱えているのは、くすんだ色合いの布の塊だ。一見、汚れ物をただ丸めて抱えているだけのように見える。
勝千代はちらりとそれを一瞥してから頷いた。
夕暮れ時の往来。
誰ひとりとして人がいないなどという事は当然なく、もちろんこの連中もそれを見越しての逃走計画なのだろう。
ひと目があればこちらも荒っぽい事は手控えると思ったのだろうが、その思惑とは別の意味合いで、特にそれが不都合なわけではなかった。
「連れて行っていただいて構いませんよ」
「……えっ」
言われた言葉の意味が分からなかったのだろう。崇岳が細く疑問の声を上げる。
勝千代は若干声を潜め、通行人には漏れ聞こえない程度の音量で囁いた。
「ただし、そちらの御方は本日ここで死んだことになります。今後名乗り出るのは勝手ですが、騙りだと言われ誰も信じませぬ故そのことはご留意を」
この時代、顔認証どころか写真もないし、精密な似顔絵もない。指紋による識別やDNA検査なども当然ないわけだから、現代ほど血統の証明は簡単ではない。
特に吉祥殿はこれから成長期を迎え、容姿も大きく変わるだろう。
幼い彼を見知っている者がいたとしても、本人だと明言することは難しくなるはずだ。
「御坊がお持ちになられていた書付も、こちらで引き取らせて頂きました。駿河に戻っても、その御方の御身分に証を立てることはできません。騙りの片棒を担いだと言われるだけです」
「……っ」
崇岳はパタパタと懐を叩くような仕草をしてから、こわばった表情で勝千代を見上げた。
この男がどういう思惑でこの件に関わっているのかはわからないが、練っていた計画が大きく崩れたことは確かだ。
悔しそうなのは、使命を果たせなくなったからか。
なにがしかの野望が潰えそうだからか。
「それでは、名もない御方。今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます」
勝千代がそう言うと、殺されないと察したのか、吉祥殿は露骨にほっとした表情になった。
次いで、剃り上げた頭の先まで真っ赤になり、地べたについていた両手を勢いよく叩きつける。
「……おのれっ」
腰が抜けて立ち上がる事すらできない。
数え十の子供であれば、大量の刀を向けられそうなってしまうのも仕方がない事だが、吉祥殿にはそれがかなり屈辱だったらしい。
己の無様さに全身をぶるぶると震わせ、せめて一矢でも報いようと転がっていた小石を握り締めたところで、その目前に再び抜き身の切っ先が付きつけられる。
「無礼な真似をするな小坊主」
そう脅しをかけたのは、普段人当たりの良い三浦兄だ。
礫を握り締めた吉祥殿は、反射的に「無礼な!」と言おうとしたのだと思う。
だが、見下ろしてくる男たちの冷ややかな視線にひゅっと鋭く息を飲んだ。
もはや誰も、吉祥殿を足利の若君だと見ていない。
それを如実にわからせる敵意であり殺意だった。
「よろしいのですか?」
転がるようにして去って行く坊主どもの一団を見送って、逢坂老が気がかりそうな声で問うてくる。
言いたいことはわかる。
今後の憂いを絶つためにも、吉祥殿を確実に処分した方が良いと言いたいのだろう。
「逆に聞くが、あの調子で生き延びる事が出来ると思うか?」
我儘な子供だ。自己を抑制することも、他人を慮ることもできない子だ。
おそらく遠からず、あの僧侶たちも手を焼いて、世の中にひとり放り出される事になる。
仮にそこを生き延びたとしても、二度と足利を名乗れないという事実を受け入れることはできず、忠告を無視するだろう。
そうすれば、あっという間に誰かがあの子を殺しに来る。
「いいえ。そもそも明日の食べる物や寝床にすら困るのでは」
「……そうだな」
生まれた頃から誰かの世話を受けて生きてきた子だ、ひとりきりになったら、たった一日でも生き延びる事が出来るか怪しい。
「天が味方すれば、泥水をすすってでも生き延び、立ち上がるだろう」
「泥水をすするような気概があるようには見えませんでしたが」
逢坂の容赦のない言葉に勝千代はふっと口元をほころばせ、同意はしなかったが、否定もしなかった。
「ところで、御坊は行かずとも良かったのか」
佐吉が用意してくれた宿に向かおうかと踵を返す前に、ずっと気になっていた男に声を掛けた。
男前僧侶は、周囲からの警戒など気にも留めずその場に立ち続け、逃げ去る同輩たちを見送っている。
「ええ。もとより、御屋形様に呼ばれて駿河に戻る途中でございましたので」
「御屋形様に?」
勝千代はまじまじと長身の僧形を見上げた。
「末の若君の教育係としてお声を掛けて頂いたのですが、申し訳ないのですがずっとお断りしております」
「……芳菊丸さまか」
御台様がお産みになられた末の男子で、勝千代より三つ四つ年下だ。
今川家は代々臨済宗を菩提寺にしているので、仏門に入ると決まっていて、既にその居を寺に移していると聞く若君が、そこの僧侶を師とするのにおかしなところはない。
だがなんとなく、ものすごくなんとなく……微妙な気持になった。
こいつが教育係って、大丈夫なのか?
「そう言えば、御坊の名を聞いていなかったな」
「ああはい。申し遅れました。九英承菊と申します。今は臨済宗建仁寺で学んでおります」
建仁寺? 崇岳の頼りっぷりから、同じ妙心寺の僧侶なのだとばかり思っていたが。
もう一度まじまじと見上げると、ガツンと音が出るほど強く視線が合って、またもにっこりと、異様な圧のある笑みを返された。
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