11-2 伏見2
知らんぷりしたい。
その顔を見て猛烈に浮かんだ感情を、ギリギリで飲み込んだ。
理由はいくつかあるが、その一番大きなものが、必死に吉祥殿を引き留めようとしている僧形に見覚えがあったからだ。
今川家と吉祥殿には直接関係はないはずだ。
少なくとも血縁でないことは確かだと思う。もし少しでも関係があれば、隠し事などできそうにない吉祥殿が何も言わないわけがない。
勝千代の視線を受けて、こわばった表情の僧形が渋い顔で俯く。
いかにも、まずい相手に見られたと言いたそうな表情だ。詳しい話を聞かなければなるまい。
ずんずんと足音も荒く近づいて来た吉祥殿は、これだけの数の護衛に囲まれた勝千代をどうしようというのだろう。
彼自身に従う者はその僧形の男だけで、見た所武士などの付き人はいない。
鼻息も荒く距離を詰め、屈強な男たちに威圧されることなく攻撃的なままでいるのは、怖いもの知らずと言うべきか、メンタルがワイヤーロープ並みだと言うべきか。反撃にあい害されるかもしれないなど、想像もしていないのだろう。
「おのれ! のこのことワシの前にあら……」
だが、怒鳴ろうとしたその声は中途半端なところで途切れた。
その視線が向く先は、案の定、水干姿の愛姫だ。
頭から薄布をかぶり、外向きには顔を晒さないように隠していた。
女房殿たちだけではなく、一条家の武士たちも幾重にも取り囲み、余人にはその奥まではうかがい知れないという状態での伏見入りだった。
しかし、周囲をどんなにガードしていても、吉祥殿は愛姫の存在に気づいたらしい。
隙間から少しだけ見えたのか? あるいは怒り交じりの唸り声でも聞こえたのか?
聞き間違いでなければ、不躾に勝千代のフルネームを呼んだ吉祥殿に向けて、愛姫は嫌悪と怒りの悪態をついている。
公家の箱入り御姫様の悪態なので、可愛らしいものだなどと思ってはいけない。
誰に教えてもらったのか、聞き間違いかと耳を疑う程に鋭く、けっこうしっかり目な悪口だった。
勝千代は一条家の方々に倣って、聞こえなかったふりをした。
「……そこな御坊」
そして目の前にいるのが、公方様を手に掛けたと噂されている吉祥殿だと周知させるわけにもいかない。
「何か御用がおありであろうとも、往来でそのように喚きたてるとは非礼、無作法というもの」
勝千代は意図的に、姫君ではなく東雲の前に立ちふさがった。
もちろん、やじ馬たちの目を愛姫たちから逸らせるためだ。
意をくんだ佐吉が小次郎殿を促し、人ごみに紛れるように一条家の方々を移動させる。
吉祥殿の視線がずっとそれを追いかけていたのが、ものすごく……いや、取り繕っても仕方がないな、正直なところ、粘度が高すぎるその凝視は「気持ち悪い」としか言えない。
「御覧の通り、我らは今伏見に到着したばかり。……下がられよ」
化学反応を起こすかの如く、即座に激怒するかと思っていたのだが、そんな事はなく、吉祥殿はしばらくぼーっと武家とは毛色の違う集団を見送った。
たぶん、勝千代の言葉など聞こえていなかったのだろう。
「……えらい気ぃ悪い小坊主やな。どこの者や」
パチリ、と扇子を開け閉めした東雲の声が、ざわつく往来に響き渡る。
人ごみに消えた一行から気を逸らさせるためだろう。
東雲の、いかにもやんごとなき御身分とわかる立ち居姿は健在で、簡素な装いの小坊主などまともに張り合えるようには見えない。
だが、勢いよく息を吸う音がこの距離でも聞こえてきて、吉祥殿が大声で何か余計な事を叫ぼうとしたのはわかった。
「お待ちくださいませ!」
しかしその寸前、遠く記憶の隅に押込めていた声が耳に届いた。
「どうか、某の顔に免じてどうか!」
勝千代は、ものすごい勢いで駆け寄ってきた武士たちの一団に顔を顰めた。
抗おうとした吉祥殿の口を塞ぎ、強引に抱え上げ、この場から連れ去ってくれたのはまあ良い。
どうしてこの男がこんなところに居るのだとか、その恰好はなんだとか、言いたいことは山ほどある。
まるで殿中にでも上がるかのような、余所行きというには上等すぎる直垂。烏帽子もこの男の身分にしてはかさ高過ぎるし、明らかに相応しくない身なりだ。
百歩譲って、個人の趣味でやっているのなら「金掛かるだろうに」とあきれるだけで済むが、こんなところでそれはない。
装いひとつで身分を判別する周囲は、さぞかしこの男を特別な目で見ているだろう。
そんな男を往来で土下座させ、額に土を着けさせている勝千代を、人々がどう受け取るかも問題だった。
東雲がその相手だと思ってくれるといいのだが。
やじ馬たちの興味深そうな視線がますます増え、この場をどうさばくべきかと思案する。
ずっとこのままでいるわけにもいかず、ため息をついてから逢坂老に目配せした。
「奥平殿」
逢坂老が勝千代に代わって口を開く。
「立たれよ」
さりげなく福島家の者たちが、残っていた武家たちを取り囲んでいた。
奥平以外も皆、旅の汚れや火にまかれた様子もなく、不相応に高そうな直垂を身にまとい、いかにも身分ありげな見た目だ。
彼らは戸惑い、不安そうな表情ながらも、特に逆らおうとはせず棒立ちだった。
武家だが武官ではなく、文官よりなのかもしれない。
更には、勝千代の事を見知ってもいるのだろう。
微塵の敵意も感じないところか、むしろほっとした様子なのは何故だ。
おずおずと顔を上げ、こちらを見た男の目がうるうると潤んでいる。
待て待て。
特に親しくもない仲だろう。派閥的には敵対しているはずだ。
「若君っ」
望外なところで主人に巡り合ったかのような顔をするな!
これが意図しての事ならば、大した役者ぶりだと言わざるを得ない。




