8-7 山科本願寺7
「……待たれよ」
その沈黙を破ったのは、ひどく乾き力のない声だった。
寸前までの飄々とした、笑みを含んだ口調でも表情でもない。
「こちらへ参られよ」
「兄上!」
こいこい、と手招きした宗主さまに、老僧Bが悲痛な声色で叫ぶ。
見ればいつの間にか興如が一段高い畳の上に宗主さまを横たえ、頭の下に己の袈裟を丸めて差し込んでいた。老僧Bが遠ざけられているわけではないが、永興が宗主さまと興如とを守るように老僧Bとの間にいる。
「福島勝千代殿」
宗主さまが再び勝千代の名前を呼び、手招く。
仕方がないので、腰を浮かせると、連動して谷も腰を浮かせた。
お前は駄目。ここに居なさい。
目でそう指示すると、あからさまに不服そうな顔をされた。
勝千代だって近づきたくないが、宗主さまがお呼びなのにいかないでいられる雰囲気ではない。
後で何を言われるかわからないので、作法通りに丁寧に一礼してから動く。
二度ほどにじり寄り、様子を見ればまだ手招かれているので、仕方がなく腰を浮かせた。
近づくと、宗主さまの顔色の悪さが更によく見て取れた。
肌も唇もかさつき、先程までのにこやかな好々爺じみた顔つきではなく、さながら息を引き取る寸前の老人のようだ。
大人が手を伸ばせばギリギリ届きそうな距離まで近づく。
こちらを手招く手が、ぶるぶると痙攣するように震えていた。
その血の気の失せた唇がかすかに動き、力なく、しかし誰の耳にもはっきりと届く声で言葉を刻んだ。
「実淳は破門にする」
「あ、兄上?!」
「本願寺派宗主の名において、二度と僧籍に戻ることはない」
勝千代は、生気の失せた宗主さまの顔をまじまじと見下ろし、これは交渉なのか、本心からそう言っているのかといぶかしんだ。
「そろそろ御仏の世に旅立つ年寄りに免じて、勘弁してはくれんか」
それは、本願寺派へ向く権中納言様の怒りをなんとかしてくれということだろうか。
「兄上っ!」
老僧Bの声はほとんど怒声に近かった。
その肉付きの良い手が拳に握られ、じゃらりと数珠が鳴る。
ほとんどの僧侶たちは、真摯な表情で宗主さまを見つめていた。
だが勝千代は、おそらく永興も、迫ってくる拳の影を気配で察知していた。
永興は興如と宗主さまを守るためにその身体を挺し、勝千代は微妙に身をよじってその手が己に向かっていることを冷静に見極めてから、横たわっている宗主さまを背に老僧Bをまっすぐに見上げた。
見ようによっては宗主さまを守ろうとしたようにも見えるだろう。
だが正確には、吹き飛ばされる方向を調整したと言うべきか。
顔を上げると、思いのほか近い距離で目が合った。
血走った、瞳孔がすぼまった目だった。
「若!」
谷の声が鼓膜を掠めた。
だが同時に、大きな手が勝千代の細首をむんずと掴み、それ以上の騒ぎは「キーン」という耳鳴りに消えた。
「ああああああああっ」
一瞬気を失っていたようだ。
我に返ったのは、老僧Bの大絶叫のおかげだ。
血の匂いがして、谷がやったのかと諦観の念を抱きながら目を開けると、勝千代を守るように小次郎殿がいて、谷の背中も見えた。
老僧Bは顔面を押さえながら激しく転げまわっていた。
その肉厚の手の隙間からぼたぼたと血がこぼれ、床を血まみれにしている。
かなりの出血量だがそれは鼻血のようで、一瞬手が離れた時に鼻が変な角度に曲がっているのが見えた。何かをぶつけられたな。非常に痛そうだ。
痛そうではあるが致命傷とは程遠い怪我に安堵していると、次いで、バタバタバタっと連続して襖が開く音がして、四方から真夜中のひんやりとした風が吹き込んできた。
遠ざけていた福島家と一条家の武士たちが、ものすごく恐ろし気な表情で部屋を取り囲んでいた。
確かに僧侶の数は多く、護衛役も屈強な若い僧たちだ。
だがしかし、前線を駆け回った経験のある武士の集団と対峙して、数に勝ったとしても有利にはならない。
灯籠のあかりを反射しギラギラときらめく刀身を前にして、形勢は一気に傾いた。
いや、つばぜり合いのようなものがあったわけではないのだ。
お互い、刃が届く範囲にも入らなかったと思う。
ただ、戦い慣れた福島家の男たちは幾度となく血を吸った刀を所持しており、僧侶たちはほとんど無手だった。
その差は大きい。
「……ご無事で」
小次郎殿に抱えられるようにして首に手を当てた勝千代に、そう声を掛けたのは逢坂老だ。
その手には抜き身の長槍が握られており、室内でどうやって振り回すつもりだったのかと問い詰めたくなる。
それに答えようとして、うまく声が出なかった。
軽く数回咳払いしてから「ああ」と頷く。
勝千代は、背後にいる面々に怪我がないかと振り返った。
そして、この状況などまったく見てはいない興如の姿に……状況を察した。
大至急寝間の用意をさせた。
火鉢をあるだけあつめ、湯を沸かす。
宗主はなおもしばらく息をし続けた。意識もしっかりしていた。
引継ぎと、遺言と、誰もが横槍を入れようもない指針を遺した。
そして夜明け。
勝千代と同い年だという跡取りの孫に看取られながら、静かにその生涯を閉じた。




