6-7 三条大橋 脱出7
京に兵が配された。治安維持という名目だろう。
火事場泥棒や強盗への抑止力としては良いことかもしれない。
自衛隊の災害地派遣のように、人道的な働きをするのであればいう事はない。
だが、川を境に槍を構える歩兵を見るに、そんな感じからは程遠かった。
とはいえ、言い訳など無数に立てることができる。
恐れ多くも帝やその他高貴な方々をお守りするため。将軍家をお守りするため。
今のこの、すべてを焼き尽くしていく勢いの大火を見ていると、あながちそれが的外れではないと思えてくる。
だがしかし、ギラリと光る穂先がこちらに向いている。
あれが飾りではなく、実際に人の命を奪い取る武器なのだと、この時代に生きている誰もが知っている。
怯える人々とは真逆に、谷の視線は川岸の槍兵を舐めるように見ていた。
やめなさい、その涎を垂らしそうな目つき。あれはお前の獲物じゃないから。
「早く移動しましょう」
若干の残念さをにじませた声に、ため息をつきそうになる。
きっとあの槍兵たちとやりあう状況を想像したのだろう。
「皆と合流した方がよさそうです」
だが安心してくれ。川のこちら側にもお前の「獲物」はいる。
谷は勝千代よりも先にそのことに気づいていて、既に鯉口を切っていた。
もちろんこんな混雑の中で刀を抜いたりはしない。相手への威嚇のためだ。
いつの間にか勝千代を取り囲もうとしていた無頼者たちが、身構えた谷と松永を推し量るように見ている。
つい忘れそうになるが、勝千代は身なりがよく小柄で攫いやすそうな子供なのだ。悪人どもは真っ先に、こういう非力な者に目をつける。
もちろん勝千代自身を狙ってくる刺客の存在も忘れてはならない。
誘拐犯か、刺客か。
そのどちらにせよ、状況に気づいていない町人たちを巻き込むわけにはいかない。
どうしたものかと迷っていると、ふっと、薄汚れた身なりの男たちが倍量に増えた。
「……」
松永はますます警戒し、谷は……つまらなさそうに刀から手を離してしまった。
「いやぁ、奇遇ですな」
奇遇なものか。
雑踏の中から茶エノキこと、田所弟がのそりと姿を現し、例のあの物臭な口調で「ははは」と笑った。
……まさか、叔父上がいるとか言わないよな?
ついキョロキョロと周囲を見回してしまったのは、この男の本来の仕事が志郎衛門叔父の護衛だからだ。
「偶然我らも京見物に来とりまして。いやあ、とんでもない事になりましたな」
兄程ではないが癖が強いこの男の顔を見るのは一年ぶりぐらいだった。
あり得ない言い訳をする田所弟は、相変わらず主持ちの武士には見えないだらしのない身なりをしていて、浪人どもに混じってもまったく違和感がない。
「……お知り合いで?」
松永青年が胡散臭げな表情をするのも無理はない。
知らないと言ったら駄目だろうか。
「お勝さま!」
人ごみを縫って三浦兄の声がした。
最後に見た時には山吹色の打着を頭からかぶっていた三浦兄は、別行動をしていたはずの弟と更に五人ほどを引き連れていた。どこかで出会って合流したのだろう。
三浦兄弟もはじめ田所弟に胡乱な目を向けたが、すぐに気づいた。
特にパッと表情を明るくしたのは三浦弟だ。
歳は離れているが、弟同士ということで気が合うのかもしれない。
……いや待て。いたずら者でやんちゃな三浦弟と田所弟? 余計な化学反応が起こりそうとしか思えないぞ。
「三条大橋が閉ざされました。まずいですよ」
その声が特に大きかったわけではないが、周囲の一般の者たちまでもはっと息を飲み、今しがた渡って来たばかりの橋に視線が集中する。
橋の上にはまだ大量の人がいて、悲鳴や怒声が聞こえてきていた。
閉鎖されたのはまさか、こちら側?
すでに橋の上にいる人たちは、あの状態の京の町に戻らなければならないのだろうか。
いや、この状況でそんな事をしたら……
「暴動が起きるぞ」
そう呟いたのは誰だったか。
事態が動いたのは直後だった。
ひょいと抱え上げられて、それが三浦兄だということを認識してすらいなかった。
あわあと叫ぶ群衆の声。時折聞こえる女性の悲鳴。
ドゴンドゴンと重いものがぶつかるような音。
ギシギシと、不気味に何かがきしむ音。
何もかもが怒涛のように一度に起こり、頭が真っ白になってしまった。
万が一あそこに白玉殿達がいたら? 巻き込まれてしまえば、多少の護衛を連れていようがどうにもならない。
「まっ……」
待てと言おうとしたのだ。
だがすでに、勝千代にどうにかできる状況ではなかった。
三条大橋が崩落した。
「ああ……」
その場を離脱する三浦らを、止めることすら思いつかなかった。
遠ざかっていく現場で、折れた橋から人々が川に落ちていく様子が見える。
夜なので、落ちた先がどうなっているのかこの位置からはわからない。
確実に言えるのは、大勢が死ぬだろうという事だ。
何故橋を封鎖した?
誰がそんな命令を出した?
別の所からそう命じられたか、あるいは町に軍が配備された事実に気づいて、状況を把握しようとしたのかもしれない。
封鎖を命じた者は、こんな事態になるとは想像もしていなかったはずだ。
たったひとつの間違った指示で、大勢が死ぬ。
今目の前で起こっているのはただの事故でも災害でもなく、人災だ。
橋を通る人数に気を配れる者もいたのに、おそらくはひとり。ただひとりが封鎖の命令を出したが故に、こんな大惨事になってしまった。
あそこだけで、どれだけの被害が出るだろう。
百や二百ではない。しかも、女子供や老人も含む、無辜の民だ。
すでにかなり距離が離れてしまったが、まだ悲鳴が聞こえている。
今まさに、命がすり潰されていく。
涙は出なかった。
見開いた目に砂ぼこりが入り、ひりひりと痛んだが、それでもなお一粒の涙もこぼれなかった。
中途半端に伸ばした手を、ぎゅっと握る。
こみ上げてきたのは涙ではなく、怒りだった。




