6-6 三条大橋 脱出6
松永青年の背中に押されて、大きくよろめいた。
弥太郎が支えてくれなければ、そのまま転んでいたかもしれない。
何事、と思ったのは勝千代だけではないだろう。
前が見えない小柄な者なら、そのほとんどが状況を分かっていなかったのではないか。
人数制限されているはずの橋の中央から、まるで海が割れるかのように人がはけた。
至近距離で話さないと声など聞こえないほど騒がしかったのに、一気に沈黙がその場を支配する。
状況が飲み込めず、皆は何を見ているのかと首を伸ばして確かめようとした。
しかし、松永の脇から顔を出す前に、谷に首根っこをつかまれ脇に抱えられた。
谷は一見小柄で華奢なのだが、鍛えてあるのであちこち硬い。筋肉か骨かに思いっきり鼻をぶつけ、痛みに目をつぶってしまって、近距離を通り過ぎた「ざっざ」という草履の音の主たちを真正面から見る事が出来なかった。
うおんうおんと低い掛け声のように聞こえていたのは、男たちが交互に独特の抑揚のある何かを口ずさむ声だった。
時折混じるチリンという鈴の音と、暗い色の編み笠、墨色の法衣に、胸の前の小ぶりな四角い袈裟。……どこかで見たことがある。
勝千代はその後ろ姿を見送って、得心した。
ああ、托鉢僧だ。
だが、かつて見た静かに祈るスタイルではなく、太く武骨なつくりの松明を高く掲げ、足取りそろえて歩く姿は、修行中の禅僧というには荒々しく物々しかった。
一般人のことごとくが遠巻きにしているので、それは勝千代だけの印象ではないのだろう。
ずらずらと続く彼らの列が、街を囲う土壁と木戸がある方へ消えるまで見送って、周囲の者たちが一斉に安堵の息を吐く。
人の流れはすぐに元に戻ったが、橋の上の人々はこれまでのように騒ぐことはなかった。
一刻も早くこの場を去りたいとばかりに、より深刻さを増した表情で町から遠ざかる方向に足を早めている。
勝千代は、見えなくなった法衣の集団を幾度となく振り返った。
己が何に気づいたのかもわからないままに、これで更に状況は厳しくなったと感じていた。
橋を渡り切り、本来であれば先を急ぐべきなのだろうが、勝千代はそのまま避難民たちと並んで、この距離からでも見える火災の広がりにじっと見入った。
ここで白玉殿らを待つのは悪手だ。
そうわかっているのに、先程の集団への危惧が頭から消えない。
「天龍寺派です」
口にもしていない勝千代の疑問に答えたのは松永だ。
それがどういう流派なのかさっぱりわからなかったが、彼がそうとわかっていて勝千代を庇ったということは、どう解釈しても味方とは言えないのだろう。
仏徒らが好んで公家を敵に回すとは思えない。
つまりは公家の敵ではなく、幕府寄りの宗派なのだと思う。
「方々の御顔を知っていると思いますか?」
「……それよりも、幕府の動向が気になります」
気になるのなら戻ると言うかと期待したが、その気はないらしい。
何やら思案しながら顎をこすり、勝千代を見下ろした。
「足利将軍家の菩提を弔ってきた御宗派です」
何かを期待しているその視線に、顔を顰めそうになる。
つまりは、将軍家に不幸があったのかもしれないと言いたいのか?
いや、橋を渡っていく僧侶たちの背中は、不幸を弔いにいくという雰囲気ではなかった。むしろそれより……
勝千代は首を横に振り、変わらず夜空を赤く染めている炎をじっと見つめた。
月明かりの下の鴨川は存外明るい。川岸には一定間隔で篝火が焚かれ、役人たちがおのおの松明を掲げ、上京の方角をみれば、燃え上がる炎で空が赤い。
それは、周囲に迫る夜の静謐とは対照的で、ひどく幻想的で美しくすらあった。
だがあの炎が舐めて行った先で、どれだけ命が失われるだろう。
どれだけの怨嗟と悲しみを生み、どれだけの財産を奪っていくだろう。
雨は降らないだろかと、請うように空を見上げるのは勝千代だけではない。
こんな日に限って夜空に広がるのは雲一つない満天の星、丸く大きな月だ。
「御仏の慈悲を説く僧侶であるなら、きっと困っている人々を救いに行ったのでしょう」
彼らが誰かを命がけで救おうとしているのなら、対岸の火事と眺めているだけの勝千代に文句を言う筋合いはない。
だが、どうにもそうではない気がする。
こんな災禍の中で、栗を拾おうというのか? あるいは、漁夫の利を得ようと?
……もしそうなら、そういう連中とは一生関わり合いになりたくはない。
「あれは」
空を見つめていた勝千代は、谷のそのつぶやきを聞き逃してしまった。
だが一秒もしないうちに、周囲のあちらこちらから「ざわざわ」とまとまりのない騒ぎが沸き起こる。
いくら周囲が明るくとも、今は夜だ。
川の対岸は町の外であり、篝火がたかれておらず、見えにくいという事もあった。
だが、幾人かの目のいい者がそれを見つけ、見間違いであってくれと顔を青くしていた。
己の目を疑ってしまうようなものが、川岸に沿って数を増やしていたのだ。
「ひいっ!」
ひとりがとうとうその恐怖に耐え兼ね、叫び声をあげた。
また何かが起こったのかと、あっという間に周囲に恐慌が広がる。
「に、逃げろ!!」
誰かがそう声を張った瞬間に、ぱっと対岸にも篝火がともった。
鴨川の岸に沿って、鎧兜の一軍が整然と並び、こちらに向かって槍を構えていた。
誰も予想などしていなかった。
対岸の火事のはずだった。
自分たちは無事に炎からは逃げる事が出来たのだと、安堵すら感じていたはずだ。
呆然と立ち尽くし、誰の目にも明らかなその状況に意識が追いつくのを待つ。
……キャア! というか、うわあぁ! というか。
河原で街を見ていた皆が一斉に叫んだ。
対岸にバタバタとはためく指物の旗。
見慣れないその色と家門がはっきりと目に焼き付けた瞬間、身に覚えある感覚がぞわりと鳩尾を焼く。
勝千代はもっとよく見ようと身を乗り出した。
さっと伸びてきた手が左右から腕をつかむ。
川に落ちそうになったわけではない。人々が一斉に動き出したので、その人波に飲まれるとひとたまりもないからだ。
「どこの軍だ」
「六角です」
「もうひとつの青い方は」
「伊勢様ですね」
わあわあと周囲の叫び声が鼓膜を破りそうで、問いかける勝千代の声は大きかった。しかしどういうからくりか、答える弥太郎の声は通常通りだ。
勝千代はひそかに悪態をついた。
よりにもよってこんな時に挙兵だと? いや、こんな時だからこそチャンスだと思ったのか?
思い出すのは、伊勢殿の理知的な平凡顔だ。左馬之助殿がそれなりの数の兵士を連れていたのは、この時の為だったのか?
だとすれば、吉祥殿の件で伊勢殿を呼んだことが、怪しまれず挙兵する手助けになってしまったのかもしれない。
さっと振り返り弥太郎を仰ぎ見る。
「六角の兵がどうやってここに来たのか調べろ」
六角家が兵を起こす予兆があれば、細川殿も京の警戒をもっと厚くしていたはずなのだ。
管領家やその他に動きがあれば、こちらも何がしか異変を感じ取れていた。
何もないのは、どこぞの誰かがうまくやったから。
恐らくそれは……伊勢殿だ。




