1-4 上京 藤波邸跡
徒歩で上京下京を横断しても、それほど時間はかからない。
町自体が非常に小さいのと、かつての区画整理の恩恵で、道がまっすぐ直線でつながっているという理由もあるだろう。
翌日早朝、宿を出た勝千代は、日がまだ高くならないうちに藤波邸の前まで来ていた。
土井の言っていた「藤波邸の消失」というのは正確な表現ではない。
藤波邸を含む、公家屋敷の一帯が瓦礫と煤とで廃墟のようになっていた。
かなり深刻な被害で、遠くは御所の方まで延焼が続いているようだ。
「……これはひどい」
一年前の風景を覚えている三浦が、すっかり廃墟街と化した通りを見回す。
敷地のあちこちに雑草が伸びていて、火事からそれなりの日数が経過しているのが分かった。
にもかかわらず、炭化した柱と崩れた屋根と、見るからに危険な半壊状態のまま、何ら修繕の手が入れられた様子はない。
「藤波家の方々はご無事なのか?」
勝千代の問いに、土井が小さく首を上下させる。
「はい。御分家のお宅に避難なさっているそうです」
全員無事ならいいのだが。
この正月に御所に火付けがあったという話は聞いていた。まさかその時からずっと、瓦礫の片付けもせずそのままにしてあるのだろうか。
あるいはそれとはまた別に、これほど大規模な火災が起きたのだろうか。
木造建築なので、いったん燃え上がると消火が困難で、大火になってしまうというのはわかる。
だが、炭化した柱の撤去もままならないこの状況は、そうしたくてもできない、つまりは公家の困窮が根底にあるのではないだうか。
「実は御所の方もかなりひどくて、そちらの修繕が始まらないうちは、半家が先にというわけにもいかないようです」
ああ、日本人的な配慮というやつだな。
だが、焼け出されてしまった方々はさぞお困りだろう。
京へ出立する前、寒月様にも挨拶をしてから来たのだが、特に何も話はなかった。
これだけの被害だ、知らないはずはないから、余計な気づかいをしないよう黙っておられたのかもしれない。
まあ確かに、勝千代にできることは多くない。
せいぜい見舞金を包むとか、大工の手配をするとか。いや、土井の言うように御所の方が先だと皆が修繕を控えているのであれば、そういう事もかえって迷惑になるのかもしれない。
「もし」
「あっ」
不意に女性に話しかけられるのと、土井が驚いた声を上げたのとはほぼ同時だった。
焼け跡に気を取られて気づかなかったが、勝千代の護衛組が距離を詰めてきていた。一番遠くにいるのは谷だが、さりげなく刀の柄に触れていて、いつでも抜けるよう警戒しているのが分かる。
「柚葉さま!」
土井が裏返った声で女性の名を呼んだ。
にこりと上品な笑みを浮かべたのは、勝千代も知っている、藤波邸の使用人だった。
公家の使用人だからといって、公家だというわけではないのだが、どうにも京の人間は武家を格下、あるいは野蛮なものとして遠巻きにしてくるきらいがある。
藤波家でもそれは例外ではなく、あるじ一家は良くしてくれても、屋敷の使用人まで同様の扱いだったわけではない。
そんな中、柚葉はいつも福島家の面々に優しく親切にしてくれていた。
「ご無事でしたか!」
土井の相変わらずの声量に、柚葉はちょっと驚いた様子で目を見開き、次いでその目を三日月形に綻ばせた。
……ふうん。
勝千代はちらりと土井の顔を見上げた。
柚葉は、京女らしく垢抜けた美しい人なので、男たちにとっては高根の花的存在だろう。
夫に先立たれ、幼い娘を育てながら、夫がかつて仕えていた藤波家に世話になっているのだと聞いたことがある。
地方の武士である土井と、公家に仕える柚葉とがどうこうなるとは思えないが、面白い取り合わせではある。
「福島の若さんも、えらいお久しゅうございます」
このはんなりとした喋り方がいいんだろうな。
すっかり鼻の下を伸ばしている土井を横目に、ニヤつきかけていた唇を引き締めて頷く。
柚葉は、藤波の北の御方(奥方)に頼まれて、庭に毎年咲く花を摘みに来たらしい。小者を幾人か護衛に引き連れている。
茶花にするのか? それとも生け花か。小者が腕に抱えているのは紫色の都忘れと、たくさんのつぼみを着けた山吹の枝だった。
「先生は御在宅かな。先ぶれと、お見舞いの品をお渡ししたいのだが、御迷惑にならないだろうか?」
公家の多くが武家を厭うているので、勝千代と関わりがあると知れるのは困るかもしれない。
「……そうですなぁ」
柚葉はちらりと、勝千代の物々しい護衛たちを横目で見た。
軽い一瞥なのに、臈長けた流し目に見える。
「一度戻りましてお伺いしてまいります。若さんはどちらに御滞在でしょうか」
下京の宿の名前を言うと、こくりと頷きすぐに使いをやりますと返される。
「最近このあたりも物騒なようなので、近くまで送らせよう。土井」
「そんな、御迷惑はかけられません。まだ昼前ですし」
固辞されたが構わず土井の顔を見る。
真っ赤な顔の土井が背筋を伸ばして「はいっ」と、また馬鹿でかい声で返事した。
「どう思う、偶然か?」
勝千代がそう問うと、「いいえ」と即座に返答があった。
弥太郎の存在には慣れている側付きや護衛たちだが、それでも、谷以外は唐突なその出現にいつも驚く。
谷は……もしかしたら忍びの動向をも察知しているのかもしれない。なかなか勘の鋭い男だから。
「藤波には常に忍び衆が目を配っています。そこから伝達が行ったのでしょう」
思い出すのは、鶸と呼ばれていた東雲付きの忍びだ。
奴だけではなく、複数の灰色の狩衣を着た者たちが東雲を守っていた。
「どこの忍び? 伊賀甲賀ではないだろう」
「古くから公家に紐づいている者たちです。表にはほとんど出て来ません」
今の世が武家の時代で、それとは別に公家の社会があるように、忍びにもそういう住み分けというか、区別があるのだろう。
「鶸につなぎをつけた方が良かったな」
勝千代は手でもてあそんでいた扇子で、そっと口元を覆った。
何故なら、これまで遠巻きにしていた武士風の身なりの連中が、じわりじわりと周囲を取り囲み距離を詰めているからだ。
勝千代ですら少し前から気づいていたこの異変に、あの土井がまったく触れもしなかった。たいした事ではないと思ったのだろうか。
まさか、鼻の下を伸ばし過ぎて気づかなかったなんてことは……ないと信じたい。