上総介(62-5~)
振り下ろした刀の先で、初めて目が合った気がした。
パッと飛び散った血が、上総介の頬を濡らす。
冷たい人だと思っていた。
だがその鮮血は、燃えるように熱かった。
「……さすがは若君! 見事なご決意にございます‼」
耳障りな声が、羽虫の音のようにぶんぶんと聞こえる。
しきりに飛び交うその音は、父の冷ややかな一瞥で掻き消えた。
常に遠い存在の父だった。
巨木のようにそこにあり、揺らぎもしないと思っていた。
だがしかし、過去これまでにないほど近くで見ると、その顔には血の気がなく、骨と皮だけのように痩せ衰えている。
「浅い」
上総介の手首をつかんだ指にも肉はなく、枯れ枝のように細い。
「首を取りたいのならもっと力を込めよ」
だがその力は強烈で、逆に手首が折られそうだった。
「……あ」
上総介は、その強さに怯んだ。
刀を取り落としそうになったが、強く手首を掴まれているので叶わない。
「いったんやると決めたからにはやり抜け」
それは謀反に対してではなく、今この場で臆した事への叱責だった。
父は刃を肩で受けたまま、脇息を腕で払った。勢いよく飛んだ脇息は、煌々と輝く蝋燭台にぶつかった。
そこかしこで悲鳴が上がる。
蝋燭台は灯明の油が入った皿をひっくり返し、炎が油に燃え移ったのだ。
すぐに消せば、多少のボヤで済んだのかもしれない。
だが、今の御屋形様に近づくことができる者はいなかった。
炎はあっという間に畳敷きの広間を嘗め尽くしていく。はじめはパチパチと、次いでごうごうと音をたてながら。
熱が肌を焼き、上総介の口からも、知らず悲鳴がこぼれた。
「……っ」
ぐっと引き寄せられ、おそらく生涯で初めて、父の腕の中にいた。
父は広間の外に上総介を連れ出した。欄干のそばまで行くと冷涼な外気を感じたが、それも一瞬だ。
ごうごうと燃え盛る炎が、とうとう袴にまで届く。
上総介はとっさに、直垂についた火を消そうとした。
その時の、父の肩から刀が抜ける感触は、火傷の痛みよりなお強烈に記憶に残っている。
上総介は喘ぎながら目を覚ました。
なおも耳にはごうごうと燃え上がる炎の音が聞こえている。
父の「其方では無理だ」というお言葉に、聞いたその瞬間我を忘れたが、今思えばあれは温情だった。
佞臣に踊らされ、危うく今川を割りそうになった能無しに、逃げ道を用意してくれたのだ。
思い出すたびに胸が締め付けられ、叫びだしたくなる。
だが声にならない。
悔恨の叫びが喉を突いて出る寸前、己にはその資格などないと思うのだ。
身じろぐだけで全身に激痛が走る。
だがこの痛みは、甘んじて受け入れるべき罰だ。
父を殺した。この手に掛けた。到底許されることではない。
痛みに滲む涙も、苦痛に漏れる声も……親殺しの業深き者には不相応だ。
「……上総介様」
ただひたすら天井を見て痛みをやり過ごしていた上総介の耳に、そっと自身の名を呼ぶ幼い声が聞こえた。
「お目覚めですか? うなされておられたようですが」
正直会いたくない。だが勝千代は馬鹿正直に毎日来る。
いや毎日どころか、数刻おきに部屋に来て、数刻居座ってからいつの間にかいなくなっている。
「何もお食べになられないと聞きました。重湯などはいかがでしょう」
そして、柔らかな口調でそう語り掛け、上総介を生かそうとする。
何故。何のために。
父が今川家の後継者にと決めたのは、心配そうにこちらを見ている小柄な子供だ。
武家の子というには線が細く、荒事に向いているようには見えない。
いやそれは上総介とて同様だが、人並みな成長をしている上総介にくらべて、勝千代はひどく小柄で、実際身体もそれほど強くはないそうだ。
そんな子を何故贔屓にするのだ……と、かつては思っていた。
だが炎の中で聞いた、配下に命じる声を覚えている。
三万の兵に、きっと尻尾を巻いて逃げ出すのだと思っていた。
そうしても許される年齢であることが、いくらか羨ましかった。
だが、あの一瞬の声だけで、上総介は己が思い違いをしている事に気づいた。
……ああ、父が望んだのは「これ」なのか。
父が上総介に「無理」だと言い、弟福島勝千代を選んだ理由を悟った。
「……なぜ」
この期に及んで何故生かそうとする。
上総介は、かすれた声でそう尋ねた。
おそらくは苦痛の呻き声以外で、初めて発した声だったかもしれない。
勝千代は少し首をかしげて考えてから、静かな口調で言った。
「死にたいですか?」
そうだ。死にたい。
これ以上の恥をさらしていたくない。
一刻も早くこの命を手放して、父に詫びに行きたい。
「ですがお身体は生きようとなさっておられます」
勝千代が膝立ちで近づいてきて、だらりと垂れた手の、火傷のないほうを持ち上げて胸の上に置いた。
小袖の合わせの下で、息を吸うたびに胸が上下する。一瞬も止まらず、息を吸って吐き続ける。
……なんと無様で、なんと生き汚い。ここまできてなお生きようとしている己に、吐き気すら覚えた。
「人の血肉の半分は母から、半分は父から授かったものです」
勝千代は何を思ったか、そんな上総介の手をぐっと握った。
「あなた様が生き続ける限り、御屋形様の血も生き続けます」
父とよく似た顔立ちだった。
涙の滲んだ目でぼんやりとその顔を見上げて、そこに確かに父の血を見た。
「それでもなお死にたいとお望みなら……どうかご自身の手で」
その顔が、一度として父からは向けられたことのない穏やかな笑みを浮かべる。
父もそんな風に笑うことがあったのだろうか。
親子なのに、そんな事すら知ろうともしなかった。
今上総介の胸の内にあるのは、後悔よりもなお深い、引き返せない現実への絶望だった。




