伊勢(~54-5)
―――来たか。
遠くでざわめきが聞こえ、思わずこぼれたのは小さく乾いた哄笑だった。
駿河まで落ちてくる時点で、こうなる事はわかっていた。
きょとんとした、邪気のない目を思い出す。夭折した息子のように、理知的な言葉遣いをする童子だった。
あの目で「何故」と問われたらどう答えよう。
若者に昔話を語るような、見苦しい真似はしたくない。
正直にすべてを吐露するつもりはなく、むしろ乗り越えるべき壁として立ち塞がりたかった。
……壁か。無意識のうちに再び乾いた笑いがこぼれる。
放っておいても自壊するような代物を、あの童子が壁と感じるわけもない。
たった数か月前には、捻り潰すのも簡単そうに見えた子供は、あっという間に大きな翼を広げて天高く羽ばたいていった。猛禽の子は猛禽だと自ら証明してみせたのだ。
たった十の子供がこんなことを成し遂げると誰が思う?
いや、いつの間にか後手に回っていると気づいた時に、こうなる事はおぼろげに察してはいた。
あの童子のほうこそ大きな壁だ。
二十年かけた野望を打ち砕き、押しつぶそうとしている。
雨音だけが聞こえる静けさの中、伊勢は遠い過去を振り返る。
あの時踏み出せていれば勝てていた。十年、十年遅かった。
理性で感情を押し殺し、確実を徹底したが故に破綻した。
脳裏に浮かぶのは、物言わぬ躯と化した息子の顔だ。元気な頃の笑顔など思い出せない。
早くに正室が先立ち、ぎくしゃくとした親子関係となっていたので、最期まで碌な会話を交わすこともなかった。
あの時あれほど後悔したのに。
学ばない己は慎重になりすぎて、確かにあった先へ続く道ではなく、わざわざ破滅へと至る道を選んでしまった。
ふっと息を吐き出した。込み上げてくるのは笑い。二十年のすべてをあっけなくひっくり返された間抜けな自身へ対してだ。
後悔はしていない。むしろなぜもっと早く決断できなかったのかと、慎重すぎたのを悔やむだけだ。
だがもはや、慎重を期す必要はない。取れる手段は限られていて、そのどれの行く末も見届ける事はできないだろう。
再び、小さな童子の顔を思い浮かべる。
死んでしまった嫡男よりもずっと年下なのに、何故か面影が重なって見えた。
―――そんな顔をするな。
十年たってようやく、心の中の息子に語り掛ける事を許した。
―――復讐というには片手落ちだな。
政争だった。おそらくは同程度の被害を管領殿も負っている。
伊勢の望みは傀儡化した幕府を打ち倒すことと、細川京兆家当主を失脚させることだった。
病でなど死なせはしない。何もかもを失い、失意の中絶望に染まるその顔に、嘲笑のひとつでもくれてやりたかった。
私怨と笑いたくば笑え。その為だけに、長い年月を耐えたのだ。
雨が降る。もうずっと雨が降り続けている。
静かな奥殿の空気に、よりはっきりと喧噪の音が混じる。
―――そうか、今日か。
自身の命の期限が来たことを、唐突に悟った。
静かな諦観と同時に、妙に白々と周囲が見通せる。
あの時、小童ひとりと見過ごしてしまったのがいけなかった。
確実にその息の根を止めていたら、今頃は伊勢氏が大きな勢力を築き上げ、新たな幕府を打ち立てていただろうか。
……いや。そんな余計な野心が今回の失態を招いたのだ。
二兎を追うものは一兎をも得ずとはよく言ったもの。より優先度の高い目的だけに邁進していたら、おそらくはこんなことにはなっていなかった。
「……ふはは」
小声で失笑すると、傍らの義宗殿がびくりと身じろいだ。
手立ても持たぬのに、分不相応な野心を抱くのが実に足利一族らしく、扱いやすい駒だった。
だが口が大きい割に、肝の座らない若者だ。ことこの期に及んで命を惜しんでいるのが垣間見え、興ざめする。
ふと、強い視線を感じて顔を上げる。
この状況でもなおうっすらと笑みを浮かべた若い僧侶は、用済みの駒よりもずっと肝が据わった食わせ物だ。
僧籍にあるにもかかわらず野心家で、その手腕に余計な情もためらいもない。
だが若いだけにわかっていない。人生はあまりにも短く、何もかもを手に入れる事は不可能だ。
この男の望みが北条の栄華なのか、もしかすると自身で成り代わる気なのかは知らないが、そこまで到達するのは難しいだろう。
隣国今川家には大きな翼をもつ麒麟がいる。属国だった北条がそれに成り代わるには、あの壁をまず乗り越えなければならない。
視線が交わり、どこかかつての伊勢自身と似た青年の視線がいくらか険しくなった。
いいだろう長綱殿。ここまで連れてきてくれた対価に機会をやろう。一連のすべてを挽回できる数少ない機会だ。
わざわざ言葉にして教えてやるほど親切ではないから、自力で悟り、盤面をひっくり返してみるがいい。
遠くから大勢が近づいてくる足音がする。
伊勢はそっと脇息に肘を預け、大きく息を吸いこんだ。
死ぬことは恐ろしくはない。妻に、父に、何より亡き息子にまた会える。
部屋に入ってきた童子は相変わらず小さく、吹けば飛びそうに小柄で……それでも、こちらをまっすぐに見返す視線に怯みはなかった。
この子の目に、己はどう映っているのだろう。
ふと頭をかすめたその考えに、最期に自身がなすべきことを悟る。
トントン、と扇子の先で床を叩いた。
「……ようやく来たか」
これまで画策してきたすべてが無に帰すわけではない。
奇しくもこの場にいる三者はすべて伊勢氏の者であり、いずれが生き残ってもそれでいいのだ。
この遠征により、幕府は莫大な借財を負うことになる。それを払い終えるまでに五年、いや十年は必要だろうか。
細川家がそれを支え続ける事は難しい。何故ならその細川家自体が、斜陽の兆しを見せているからだ。
畿内は大きく荒れるだろう。
五年? 十年? その頃にはすでに管領殿はこの世にいない。
そして目の前の童子は……
結果を見届ける事は出来ないが、想像すると沸き立つものがあった。
幕府は倒れ、細川は滅ぶ。
その為に必要なひと押しをする。
きっと己は、この時のために生まれてきたのだ。
この世に完全な悪人などおらず、誰もが善悪の両面を持っています。
敵にも敵の事情があり、成し遂げたい目的、守りたい立場や人がいるのです
同情も理解も不要ですが、敵にとってはこちらが悪者なのだと知る事は重要です




