佐吉(23-5)
陣幕の隙間から現れたのは、紺色の直垂を身にまとった幼い若君だった。
周囲の武骨な鎧武者に比べると、いかにも小さく頼りない。
だが誰もがこの御方を守るために神経を尖らせていて、幼くとも重要な立ち位置にいるのが見て取れる。
―――殺せるか?
いつものようにそんな事を考えながら、表面上はしおらしく見えるよう身体を小さくして項垂れた。
一瞬、刺すような殺気が首筋に届いた。護衛の武士たちと……福島家の風魔忍びだ。
羨ましい事に、奴らは福島の直臣だそうだ。お抱えの忍びというのは珍しく、大概は雇われで、かくいう佐吉もそのうちのひとり。忍びは時と場合によってあちらこちらの陣営を移動するので、余計に嫌われるのだとわかっている。
距離は近い。懐に潜めた暗器で一気に迫ればいけるか。いや、懐に手を入れた段階で首が飛ばされそうだ。あらかじめ手に針を潜ませておけば、あるいは……
佐吉が忍びだと知っている者からは相応の、同業者からはさらに厳しい凝視。それは警戒というには度を越した、殺気交じりのものだった。
たとえ友好的な立ち位置にいたとしても、忍びの扱いなどそんなものだ。
佐吉は余計なことを考えるのをやめ、なお一層深く頭を下げた。
ひとしきり胃に悪い話をした後に、反応を伺うべくそろりと顔を上げると、またも殺気が飛んで来た。いや実際に刀の柄に手を置いている者もいる。
本気で若君の御命を狙ったわけでもないのに、冗談の通じない連中だ。
こんな猪武者ばかりを率いるのは大変だろう。
佐吉はそんな内心の思いなど微塵も面には出さずに、神妙に小心者を装い、粛々と頭を下げ続けた。
「佐吉」
その声はどこかぼんやりしていて、何か別の事を考えているような口ぶりだった。
「……はい」
佐吉は両膝を付いたまま顔を上げ、小柄な若君の腹のあたりに視線を据えた。
直接目を合わせる事などできない。顔を上げただけでも、周囲から鋭い視線が飛んでくる。
「そのほう、どこかの専属でないのなら、我が福島家に雇われる気はないか」
「えっ」と大きな声を上げそうになるのをギリギリで堪えた。
驚愕は隠し切れず、ひゅっと息を飲む音はこぼれてしまったし、すぐに返答することもできなかった。
「そのほうを紐をつけず放置しておくのは恐ろしすぎる」
若干疲れた様子でため息をつき、ごしごしと拳で眉間を擦っている若君は、まじまじと見ると目の下にくっきりと隈を作っていた。
寝不足なのでは。
そう思った瞬間、まっすぐに視線が合ってしまい、今度こそひやりと肝が縮んだ。
その真後ろに、憤怒像がごとき表情の逢坂様。さらに遠くにいる朝比奈様もじっとこちらを見ている。
「難しく考える事はない。優先してその手の話を持ってくるように言うているだけだ」
……何と答えるのが正解だ?
普段は滑るように舌が回るのに、つっかえたように言葉が出なかった。
「問丸と馬借らが米をため込んでいる倉庫は見つけたが、その米をどうするか迷っている。商人として最善の手を考えよ」
少年の甲高い声は幼げで、ともすれば舌足らずにも聞こえる。
だが佐吉を見下ろすその目。
重要な、これ以上ないほど重要な事を話しているのに、感情の揺らぎがなく凪いでいた。
……これは、何だ。
「やり方は任せる故に、あの方の濡れ手に粟な状況にならぬようにしてくれればよい」
ジワリと背中に汗が伝った。込み上げてきたのは怖れだ。
百戦錬磨とまではいえなくとも、それなりの修羅場を潜り抜けてきた自負のある佐吉をして、目の前にいる理解しがたい存在に抱くのは抑えがたい畏怖だった。
一呼吸、息を吸おうとして、ひくりと喉が鳴った。
思考は停止した。佐吉にしてはひどく珍しいことだ。
だが次の瞬間、再びどっと全身に血の気が巡り、込み上げてくるものを必死でのみ込んだ。
「お任せを」
はっきりした声で、そう答えずにはいられなかった。
知らず上がっていた口角を隠すのが精いっぱいだった。
御前を下がってしばらく。
「そのような恐ろしい顔をなさらないでくださいよ」
佐吉の真後ろに立った長身の男は、忍びのお手本のように気配もなく、影の中にいた。
その表情は完全なる無。恐ろしいと言ってはみたが、怒気のようなものが浮かんでいるわけではない。
ただ周囲に漂うパチパチと音がしそうな気配は、まぎれもなく殺気だ。
「……どういうつもりだ」
福島家風魔忍びの頭領、常森段蔵。界隈ではかなり有名な男だ。
本家の北条風魔一族の後継者争いで、一歩及ばず小太郎の名を逃したが、二番手というにはあまりにも優れた腕前の忍びだった。
初対面ではない。
特に関係が深くなったのは四年前からだが、以前から名前だけは知っていたし、それなりに友好的な関係を築いてもいた。
これまでは、警戒の目を向けられてはいたが、ここまでの殺意はなかった。
いや違うな、殺意を向けられたことはあったが、それはあくまでも牽制の為であり、実際に首を切り落とされそうになったのは初めてだ。
「朝倉家に雇われているのだろう」
ど真ん中に突き刺さった問いかけに、佐吉は思わず「ははは」声を上げて笑った。
「……なにがおかしい」
「いえ、わたくしめも同じことを思うておりましたとも」
直臣というわけではないのだが、長年朝倉家の為に仕事をしてきた。
縁あって福島家に関わることも増えたが、それもあくまでも仕事の一環だった。
現役を引退するまで立ち位置を変える気はなかったし、慣れた戦場のほうがやりやすいのはわかりきったことだ。
それを、たった数語でひっくりかえされた。
「おそろしい御子だ」
佐吉は「ふふ」と抑えきれない笑みをこぼし、口元を手で覆った。
「幸いにも、京での諜報が主でございます。仕事の中心を駿河遠江に据え替えるのも難しい事ではございませぬ」
いうほど簡単でないのは、お互いにわかっている。
それでも佐吉の唇には笑みが張り付き、油断すると大声で笑ってしまいそうだった。




