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春雷記  作者:
断章

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383/397

愛姫(12-3以降、堺にて)

 人柄がにじみ出た柔らかい筆跡に、そっと触れてみる。

 まなの事が書かれているわけでもなく、それどころか、彼女に宛てたものですらない。

 それでも、胸に込み上げてくるものは否定しがたく、鋭い痛みを伴っていた。

―――いややわ。

 痛みと同時に涙がにじみ、これまでは通り一遍、見よう見真似でしかなかった祈りの言葉を、繰り返し胸中で唱えた。

 神にも仏にも縋りつき、助けてくれと懇願したかった。

 死んでしまうのかもしれない。そう思うだけで、涙があふれてくる。

 穏やかな笑顔と、優しい口調と。武士だというのに荒事とは全くの無縁に見える、頼りなさのある子供だった。

 とびかかって抱き着いただけで尻餅をつき、困惑していた。

 宥めるように背中を撫でてくれた手は、細く小さく繊細だった。

―――いやや、いややわ。

 死ぬの? おもうさまもあにさまも死んでしまうの?

 父の心配はまだ理解もされるだろう。

 だが兄と呼んでいるが兄ではない武家の子を、そこまで気に掛けている場合ではない。

 許嫁の皇子が重傷を負い、立って歩くこともできない有様だと聞く。愛はそちらの心配をするべきなのだ。そんなことはわかっている。

 誰もがそう言うにちがいなく、幼いながらにそれは理解しつつも、本心をおもてに出せない事がまた苦しかった。

 抑えようとすればするほど胸が痛み、涙がこぼれそうになる。


 京の都で戦が起こる。

 ずっと屋敷の奥深くで守り育てられた愛には、生涯関わることのない遠い話のはずだった。

 将来は皇子に嫁ぎ、ゆくゆくは皇后位につくのかもしれない。

 誇らしくも重圧の掛かるその立場は、彼女には別の意味での戦いへの覚悟だった。

 だが京を離れる間に感じた刺々しい空気は、自身がただの守られ、甘やかされた子供であることを否応もなく悟らされた。

 こんなことで皇子の妻になれるのか。

 真っ先に否定の思いが込み上げてきて、自己嫌悪に見舞われる。

 その否定は、幼馴染の許嫁に対する裏切りだ。

 ひくりと嗚咽が喉を震わせる。

 再び目に飛び込んできた書簡の文字に、「あにさま」と声に出しそうになる。

―――くるしい、たすけて、いやや、いやや。

 両目から涙がこぼれ、指先に落ちた。

 滴が書簡に染みないように慌てて手を引き、ごしと頬を拭う。

「ひいさま」

 女房の佐予が几帳越しに声をかけてきた。ここは堺の商家で、公家屋敷ではないが、調度品などは一通りそろっており不自由はない。

 ただ、手狭なのはいかんともしがたく、何が起こっているのかは聞き耳を立てているだけで察しがついた。

 堺に到着して五日。そろそろ土佐に発つ準備が整ったのだろう。

「そろそろお時間にございます」

「おたあさまは?」

「御準備は整っておられますが……」

 ここ堺の港からは毎日毎時に船が出ていく。その多くに公家が乗り、縁者を頼っての避難だ。

 愛もまた、母と弟たちとともに本領である土佐に発つときを待っていた。

「すぐに」

 とうとう畿内から離れる時が来たのだ。

 文机に重ねられた書簡に手を伸ばし、少し考えてから一番上と下を入れ替えた。

 父の字を見ながらそれを手にして、手のひらに当たる書簡に思いを馳せる。

 この生木を裂かれるような胸の痛みは、口に出してはいけない。

 もう一度頬を濡らす涙を拭ってから、数通の書簡を大切に文箱に入れた。

 最後まで荷物に詰める事ができなかった文は数通ある。父からのものも、東の宮様からのものも、東雲様からのものも。

 肌身離さず持っていよう。そして彼らの無事を毎日祈ろう。

 愛にできることはそれだけしかなく、そんな非力な己が口惜しかった。


「おたあさま」

 そっと呼びかけると、美しくたおやかな、愛にとっては理想の権化のような母がそっと薄い瞼を開けた。

 体調を崩しているのは、心労が祟ってのことだろう。

 見た目よりずっと気丈だと娘である愛は知っているが、所詮は蝶よ花よと大切に育てられた公家の娘だ。荒事には向かないし、今回の事が相当に堪えているのは理解できる。

「愛」

 細い声で名を呼ばれて、愛はぎゅっと唇を引き締めた。

 その弱々しい、今にも消えてしまいそうな風情に、強い共感と同情を覚えた。

 これから戦が始めるそのただ中に、夫を置いて行くのだ。どれほどお苦しいだろう。

「おたあさま、船の時間やそうです」

 この人を守る。その決意に気持ちを奮い立たせた。

 愛はまだ幼く非力だが、家族の手を握りしめて寄り添うことはできる。

「万千代も香も待っておりますよ」

 生まれて間もない乳飲み子の妹の名を聞いて、母ははっと身体を起こした。

 そのほっそりと冷たい手を握りしめ、少しでも体温を移そうとさすった。

 この先、堺衆が船便で土佐まで送り届けてくれることになっているが、瀬戸内を通っていくので海賊が出るらしく、安全だとは言えないようだ。

 侍従らが幼い愛の耳には届かないよう相談しているが、筒抜けだった。

 大勢の公家が避難しているから、おそらく小さな船から狙われるだろう、堺衆は避けようとするのではないか、そんな話が伝わってくる。

 楽観をしてはいけない。何が起こるかなどわからないのだから。

 愛は母の手を握りしめながら、彼女が兄と呼ぶ武家の少年を思い出していた。

 あの子も幼く非力な子供だった。それでもその非力を恥じず、常に堂々としていた。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 まっすぐに顔をあげ、せめて気構えだけは負けまいと、腹の底に力を込めた。

あ、あれ?

一発目から思ったよりも甘酸っぱい雰囲気に……

予定では、愛姫が奮い立ってお母さんたちを土佐まで守る! という路線で行く予定だったのですがw


ちなみに、この時代の公家の女子の名前は定かではありません

ですが○○子のように子がつく名前が多かったようです

つまりまな姫はおそらく一条愛子あいこ

赤ちゃんこう姫は一条香子かおるこになります

後の方は、表には出てこない偉です。つまり裳着(男子で言う元服)の頃にその名になります

公家女性の諱は誓紙とかでたまに出てくるのですが、通称なんてまったく出て来ないので、あくまでも想像です

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― 新着の感想 ―
[良い点] このまま皇子と結婚することが愛姫にとって幸せなのか気になりますね… 現代医学でも背骨をおることは大怪我ですしこの時代ならそれ以上に大事でしょう。まともに歩けなくなるもしくは下半身不全なん…
[一言] 勝千代君、女性に対してトラウマあっても仕方ないレベルで女難の相出てるから愛姫と幸せになって欲しい気がする... 今川家当主なら愛姫夫になれるんじゃないかな...
[気になる点] 歴史知識皆無なんで見当違いのこと言ってたらスルーして下さい 4-2で「まな」ってルビをふっていたのでまな姫だと思っていたのですが、これは誤字なのかお勝ちゃんたち部外者だから「まな」って…
2024/02/06 17:25 退会済み
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