愛姫(12-3以降、堺にて)
人柄がにじみ出た柔らかい筆跡に、そっと触れてみる。
愛の事が書かれているわけでもなく、それどころか、彼女に宛てたものですらない。
それでも、胸に込み上げてくるものは否定しがたく、鋭い痛みを伴っていた。
―――いややわ。
痛みと同時に涙がにじみ、これまでは通り一遍、見よう見真似でしかなかった祈りの言葉を、繰り返し胸中で唱えた。
神にも仏にも縋りつき、助けてくれと懇願したかった。
死んでしまうのかもしれない。そう思うだけで、涙があふれてくる。
穏やかな笑顔と、優しい口調と。武士だというのに荒事とは全くの無縁に見える、頼りなさのある子供だった。
とびかかって抱き着いただけで尻餅をつき、困惑していた。
宥めるように背中を撫でてくれた手は、細く小さく繊細だった。
―――いやや、いややわ。
死ぬの? おもうさまも兄さまも死んでしまうの?
父の心配はまだ理解もされるだろう。
だが兄と呼んでいるが兄ではない武家の子を、そこまで気に掛けている場合ではない。
許嫁の皇子が重傷を負い、立って歩くこともできない有様だと聞く。愛はそちらの心配をするべきなのだ。そんなことはわかっている。
誰もがそう言うにちがいなく、幼いながらにそれは理解しつつも、本心を面に出せない事がまた苦しかった。
抑えようとすればするほど胸が痛み、涙がこぼれそうになる。
京の都で戦が起こる。
ずっと屋敷の奥深くで守り育てられた愛には、生涯関わることのない遠い話のはずだった。
将来は皇子に嫁ぎ、ゆくゆくは皇后位につくのかもしれない。
誇らしくも重圧の掛かるその立場は、彼女には別の意味での戦いへの覚悟だった。
だが京を離れる間に感じた刺々しい空気は、自身がただの守られ、甘やかされた子供であることを否応もなく悟らされた。
こんなことで皇子の妻になれるのか。
真っ先に否定の思いが込み上げてきて、自己嫌悪に見舞われる。
その否定は、幼馴染の許嫁に対する裏切りだ。
ひくりと嗚咽が喉を震わせる。
再び目に飛び込んできた書簡の文字に、「あにさま」と声に出しそうになる。
―――くるしい、たすけて、いやや、いやや。
両目から涙がこぼれ、指先に落ちた。
滴が書簡に染みないように慌てて手を引き、ごしと頬を拭う。
「ひいさま」
女房の佐予が几帳越しに声をかけてきた。ここは堺の商家で、公家屋敷ではないが、調度品などは一通りそろっており不自由はない。
ただ、手狭なのはいかんともしがたく、何が起こっているのかは聞き耳を立てているだけで察しがついた。
堺に到着して五日。そろそろ土佐に発つ準備が整ったのだろう。
「そろそろお時間にございます」
「おたあさまは?」
「御準備は整っておられますが……」
ここ堺の港からは毎日毎時に船が出ていく。その多くに公家が乗り、縁者を頼っての避難だ。
愛もまた、母と弟たちとともに本領である土佐に発つときを待っていた。
「すぐに」
とうとう畿内から離れる時が来たのだ。
文机に重ねられた書簡に手を伸ばし、少し考えてから一番上と下を入れ替えた。
父の字を見ながらそれを手にして、手のひらに当たる書簡に思いを馳せる。
この生木を裂かれるような胸の痛みは、口に出してはいけない。
もう一度頬を濡らす涙を拭ってから、数通の書簡を大切に文箱に入れた。
最後まで荷物に詰める事ができなかった文は数通ある。父からのものも、東の宮様からのものも、東雲様からのものも。
肌身離さず持っていよう。そして彼らの無事を毎日祈ろう。
愛にできることはそれだけしかなく、そんな非力な己が口惜しかった。
「おたあさま」
そっと呼びかけると、美しくたおやかな、愛にとっては理想の権化のような母がそっと薄い瞼を開けた。
体調を崩しているのは、心労が祟ってのことだろう。
見た目よりずっと気丈だと娘である愛は知っているが、所詮は蝶よ花よと大切に育てられた公家の娘だ。荒事には向かないし、今回の事が相当に堪えているのは理解できる。
「愛」
細い声で名を呼ばれて、愛はぎゅっと唇を引き締めた。
その弱々しい、今にも消えてしまいそうな風情に、強い共感と同情を覚えた。
これから戦が始めるそのただ中に、夫を置いて行くのだ。どれほどお苦しいだろう。
「おたあさま、船の時間やそうです」
この人を守る。その決意に気持ちを奮い立たせた。
愛はまだ幼く非力だが、家族の手を握りしめて寄り添うことはできる。
「万千代も香も待っておりますよ」
生まれて間もない乳飲み子の妹の名を聞いて、母ははっと身体を起こした。
そのほっそりと冷たい手を握りしめ、少しでも体温を移そうとさすった。
この先、堺衆が船便で土佐まで送り届けてくれることになっているが、瀬戸内を通っていくので海賊が出るらしく、安全だとは言えないようだ。
侍従らが幼い愛の耳には届かないよう相談しているが、筒抜けだった。
大勢の公家が避難しているから、おそらく小さな船から狙われるだろう、堺衆は避けようとするのではないか、そんな話が伝わってくる。
楽観をしてはいけない。何が起こるかなどわからないのだから。
愛は母の手を握りしめながら、彼女が兄と呼ぶ武家の少年を思い出していた。
あの子も幼く非力な子供だった。それでもその非力を恥じず、常に堂々としていた。
大丈夫。きっと大丈夫。
まっすぐに顔をあげ、せめて気構えだけは負けまいと、腹の底に力を込めた。
あ、あれ?
一発目から思ったよりも甘酸っぱい雰囲気に……
予定では、愛姫が奮い立ってお母さんたちを土佐まで守る! という路線で行く予定だったのですがw
ちなみに、この時代の公家の女子の名前は定かではありません
ですが○○子のように子がつく名前が多かったようです
つまり愛姫はおそらく一条愛子
赤ちゃん香姫は一条香子になります
後の方は、表には出てこない偉です。つまり裳着(男子で言う元服)の頃にその名になります
公家女性の諱は誓紙とかでたまに出てくるのですが、通称なんてまったく出て来ないので、あくまでも想像です




