62-6 遠江 曳馬城2
大声を出し思考を真っ白にしていた勝千代だが、グン! と勢いよく左に引っ張られて息を詰まらせた。
考えるより先に、覚えのある感覚……命の危機だと察知する。
音はしなかった。いや、したのかもしれないが、激しい炎と木材が燃え落ちる音とで耳には届かなかった。
視界に縞模様の矢羽を捕えてようやく、罠にはまったのだと気づいた。
更に大量の矢が降ってきて、皆がそれぞれ遮蔽物に身を隠す。
待ち伏せされていると予期していたのに。
あまりにも人の気配がなく、怪しむ余地も十分にあったのに。
勝千代の目の前で、父の腕に矢が刺さった。
それでようやく、カッと頭に血の気が巡った。
勝千代は、こういう荒事になるとまったくもって役には立たない。だからこそ思考を止めてはならない。何があろうと、考え続けなければならない。
完全に炎に埋め尽くされた回廊を、再び見上げた。
もはやそこに人の姿は見えない。だが、かろうじて何かが動いているのはわかる。
人間だ。燃え上がった木材か何かのように見えて、意志を持って動く人だった。
御屋形様が、全身に炎を纏った御屋形様が、何かを回廊の外側に放り投げたのだ。
その何かが、もんどりうって土の斜面を滑り落ち、地面にバウンドして止まった。
まだいくらか燃えている。人だ。おそらく上総介様だ。
「……っ! 父上!」
至近距離で、矢襖のようになった遮蔽物にも火がついていた。その熱で、勝千代の肌もチリチリと痛む。
父は腕に刺さった矢もそのままに、勝千代を小脇に抱えて走り出そうとしていた。
「上総介様が落ちました!」
その言葉に、父を含め数人が足を止め、後方を振り返った。
助けに行く余裕はないかもしれない。それほど火と矢の勢いは強い。
それでもじっと目をこらし、やがて見つけたその場所を指さした。
「伏兵!」
横たわる上総介様の更に向こう側に、そそり立つ土塁。矢はその上から射掛けられている。
煙で目が痛い。涙がボロボロと流れ落ちる。
勝千代は燃え盛る炎の向こうになお目をこらした。
幸いにも上総介様が倒れているのは壁際の茂みの影だった。矢からの遮蔽にはなっているが、いつ火がつくともしれない場所だ。
まだくすぶっている上総介様のもとまで数名が駆け寄る。
その上から、なおも大量の矢が降り注ぐ。
相手は弓兵だ。こちらからの攻撃はどうやっても届かない。どうすればいい? このままだと全員狙い撃ちだ。
素早く周囲を見回して、まだ燃えていない通路があることに気づいた。
燃えるものがないから、そこだけぽっかりと火が伝っていない。
「あの石階段を上って下さい!」
だが、弓兵がいる土塁とは真逆の方角だ。
父は一瞬迷ったが、勝千代が指さす方向に体の向きを変えた。
遮蔽物がない場所なので、一気に矢が降り注ぐ。
幾人もの身体に針のように刺さったが、誰ひとりとして足を止める者はいなかった。
勝千代の頭の中にあるのは、かつて見た曳馬城の縄張りだ。
たしかこの先には古い櫓がある。その裏手には松の木。石段をさらに上った先をぐるりと迂回すれば、伏兵の潜む土塁につながっているはずだ。
燃え上がる炎が本丸を嘗め尽くす。バキバキと柱が折れる音がする。
城が落ちる。四年前からずっと、興津が精魂込めて整備してきた城だ。
人の好さげな丸顔が脳裏に過る。同時に、炎に巻かれてこちらを見た御屋形様の表情も。
……ここで死ぬわけにはいかない。
勝千代は、煙に痛む目を見開き、喉がひりつくのも構わず大きく息を吸った。
「その先を左!」
目的の櫓も燃えている。だが、その背後の特徴的な松の木は記憶の中のそのままの姿でそこにあった。
あそこで興津と城の縄張りについて話をした。
間違いない。ちゃんと覚えている。
土塁の上にたどり着き、しばらく走ると伏兵を視認できた。
刀を抜いた父らが怒声を上げ、弓兵たちが怯んだようにこちらを振り返る。
特徴のない装束の弓兵たちだった。旗指物などもない、主張の強い鎧兜の者もいない。
だが、彼らが北条兵だというのははっきりとわかった。
何故なら、その中に長綱殿がいるからだ。
視線があった。
まっすぐにこちらを見るその童顔が、やけに楽しそうに見えたのは気のせいか。
弓を手にした伏兵は百人ほどだった。五百いると聞いたが残りはどこだ。ここ以外のどこかに兵を伏せさせているのだろうか。
相手は弓兵で、勝千代らの数の方が多い。だが有利にはならなかった。何故なら、土塁の上という狭さと相手の武器の方にまだ長があるからだ。
海からの風が吹き上げ、ゴウとひときわ強く火花が舞った。
ミシミシと木が軋み、ドシン! と一際大きな轟音が振動とともに伝ってきた。本丸の建屋が本格的に倒壊したのだ。
土塁の足元もグラグラと揺れる。父が勝千代の頭を手で覆う。土壁の一部が崩れ、太い柱が倒れてきた。
これ以上この場所にいるのは危険だった。
それは北条側も同じ意見のようで、長綱殿が何やら命じて反対側へと兵を引いていく。
「追え!」
父が命じ、全員がまた走り出す。
だが壁の崩壊がさらに進み、結局は行く手を遮られてしまった。
「目と口を閉じておれ」
父の声がやけに遠くに聞こえた。
建物が崩れる轟音で聴覚が埋め尽くされ、煙と土埃で目と喉がひどく傷む。
だが、勝千代は最後まで両眼を開け続け、呼吸を止めようとはしなかった。
意識をしっかりと手元に手繰り寄せ、すべての惨状をその目と心に刻み続けた。
その日、曳馬城は燃え落ちた。
今川家九代目当主、今川氏親の命と供に。




