62-1 東三河 吉田城 転機
快晴だった。
気持ちが良いほどの青空と、さわやかな風、チチチと鳴く小鳥の声。
もはや血の臭いも、大量の死人が出た気配もない。
うららかな春の陽気が、何事もなかったかのような平和な雰囲気を醸し出している。
数えきれないほどの命が消え、大地に鮮血が染みわたっても、世界は無常なほど変わらぬ時を刻むのだ。
勝千代の心は陰鬱に沈んでいた。
続々と届く知らせを聞く周囲の者たちも険しい表情だ。
「……わかりました」
勝千代は長い沈黙の末、静かに言った。
何故かそれを聞いて、朝比奈殿がぎゅっと顔を顰めたのが印象的だった。
「お任せいただければ、我らで曳馬城を落としてまいります」
その力強い言葉には返答をせず、勝千代はうっすらと唇に笑みを刻んだ。
「予想を言いましょうか」
チチチとけたたましい声で鳥たちが鳴き、青空を大きな翼の影が過った。
動物の世界も弱肉強食、肉食の大型種が頂点に立っている。
勝千代は追われて飛び立つ小鳥たちから目を逸らし、静まり返った室内に視線を戻した。
「我らが曳馬城に到着した頃には、北条兵はすべて撤退していると思います」
大広間に居並ぶ者たち全員の目がこちらを向いていた。
見ている、というのは控えめな表現だ。強い凝視。迷いのない熱量のこもった視線。
「北条が簡単にあきらめるでしょうか」
朝比奈殿の問いに頷き返しながら、勝千代はぎゅっと腹に力を込めた。
面倒ごとを押し付けてきた御屋形様への怒りは、そのまま自身の見通しの甘さに跳ね返ってくる。
「当初から、それが目的だったのでしょう」
それ。つまり御屋形様の命。
勝千代は明言を避けたが、聞いていた誰もが察しただろう。
「我らが曳馬城に攻め込んだとします。おそらく謀反は我らの方だという噂がまことしやかにささやかれ、今川館はそれを信じるでしょう」
正確には、それが真実だという事にしようとするだろう。
「……そんな」
「更には逆臣福島勝千代を討つべしと駿河衆を扇動し、河東から今川館に攻め上ってくる可能性もあります」
「河東には父がおります」
そうはっきりとした口調で言ったのは井伊小次郎殿だ。
もちろん井伊殿が勝千代に敵対するとは思わないし、やすやすと北条を通すわけもない。
だが、今川軍の内部にその話が伝わり、不安が蔓延するのは避けられないと思う。
そうなった場合に、兵力的に大差があるわけでもない現状、今の戦況が維持できるかといえば……正直わからない。
「井伊殿は戦線を維持しようとするでしょう」
だがそれは、大きな損害を伴うものかもしれない。
勝千代は不安で揺れた小次郎殿の視線を真正面から見返した。
「無理をせず通せと知らせを送ります」
「父が勝千代殿の信頼を裏切るなどありえません」
「裏切りではありません」
小次郎殿が、はっとしたように息を飲んだ。それに頷きを返し、勝千代は言葉を続ける。
「心配せずとも、河東の北条軍は動きませんよ」
動くとするなら、伊豆にいる駿河衆だ。
おそらく今頃、今川館の某所から大量の指示書が伊豆に送られているだろう。
彼らを伊豆から撤退させるために、今回の策は組まれたのだと思う。
「……では、どうする」
父の低く太い声が勝千代の背中を押す。
退くなど許さない。そう言われているとしか思えない強い口調だ。
「こんなことを考えるのは長綱殿でしょう」
勝千代はぐっと一度奥歯を噛みしめてから、ふうと長く息を吐いた。
後の国交の事を考えて、今川館で捕らえた時に首を撥ねなかったことを今更ながらに後悔する。
実弟を殺した相手と再び手を結ぶなど、ありえないだろうと考え手控えたのだ。
だがこんなことになるのなら、確実に息の根を止めておくのだった。
「……船ですね」
勝千代の言葉に、父はその太い眉をググっと寄せた。
「船」
「曳馬城は海に近い。北条は船で兵を運び、船で撤退するつもりのはず」
あいにくと、こちらに手持ちの船はない。今最寄りで船を所有しているのは……
「おいまさか」
父はやはり察しがいい。勝千代が意図することをすぐに理解したのだろう、盛大に顔を顰めている。
勝千代は頷き、つがいで制空権を行使している二羽の猛禽に目を細めた。
「三好殿と少し話をしてみようかと思います」
ザワリと大広間の空気が揺れた。
うららかな日差しが斜めに大広間に差し込んでいる。今は昼間の陽気だが、すぐに日差しは傾き夕方になるだろう。
そうなる前に、動かなければ。
「北条軍が撤退する前に、曳馬城を攻め落とします」
言葉にすることにより、覚悟が決まる。
たとえ謀反人だと言われようとも、今更退くことはできない。
今川家に忠実な興津が死んだ。家臣の忠心をあのように無残に踏みにじる者たちなど、もはや敵以外の何者でもない。
「父上」
勝千代は、声が震えないよう細心の注意を払って呟いた。
「逆臣と呼ばれても、退くことはできないでしょう」
誇り高い福島の名を、こんなことで穢すことになるのだろうか。
そうなる前に、今川姓に戻るべきかもしれない。
「お勝」
分厚い大きな手が伸びてきて、勝千代の頭を撫でようとして躊躇った。
勝千代はその手をじっと見返して、ぐっと口角を上げて微笑む。
「じいじと呼ぶ日が来たのでしょうか」
「馬鹿を言うな」
父の表情が憮然と歪んだ。
「余計なことを考えるな。まずは目の前の難事を乗り越えねばならぬ」
「はい」
分厚い手のひらが、そっと勝千代の頭を撫でた。
まだこの人の息子でいられることに、心の底からほっとした。




