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春雷記  作者:
三河編

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61-2 東三河 吉田城周辺 決戦2

 割れるような怒号が世界を揺らした。

 鼓膜が馬鹿になっているので高周波の耳鳴りしか聞こえないが、振動が空気を伝ってびりびりと震えるのがわかる。

 勝千代もまた大声を上げていた気がするが、きっとそれは悲鳴だ。

 跳ねる馬の背から振り落とされないようにするのに必死で、接敵する瞬間もわからなかったし、それに対して怖れを抱く暇もなかった。

 この時代、馬は貴重で高価なものだ。名馬一頭と屋敷を交換できるほどに。

 故に戦場で前線に馬で出る事はなく、武士は下馬して戦う……小学生の頃には確かにそう習ったし、実際にその通りなのだ。

 だが父が特別なのか、馬が別格なのか、人馬一体状態が解除されることはなかった。

 後方にいるのならまだわかる。だがここは最前線だ。肉が裂け鮮血が飛び散る激戦区で、馬に乗っているのは父だけだ。

 総大将がこの位置にいるのは問題だし、雑兵を踏み潰し蹴りあげる馬の存在も大問題だ。

 見ろ、敵の指揮官らしき鎧武者ですら、あきらかに真っ青な顔をして引いているじゃないか。……あ、逃げた。

 馬に乗っていると目立つので標的になるだろうに、父からはむしろ逃げ出す者のほうが多い。

 指揮官が逃げ出すと、もちろんその配下の者たちも右に倣う。

 更には鬼の如き形相で長槍を振り回し始めたので、とうとう周辺の敵のすべてが蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 今回は細川京兆軍の横腹を突くという、威嚇を担う部隊ではなかったのか。

 いや、これこそが正しい威嚇なのかもしれないが。

 今川軍の先鋒たちが大声を上げて突撃する。

 総大将たる勝千代が、ほぼほぼ先頭にいる是非はまあ置いておいて、その位置にいるからこそ、「敵が逃げる」という状況の意味が理解できた。

 恐怖は人間から理性を奪う。そしてそれは人から人へと伝播して、雪だるま式に膨れ上がる。

 視認できない先で起こっていることなど知るすべもない時代、誰かが逃げ出し始めたら、理由がわからずとも皆がそれに続く。

 むしろ、正体がわからないからこその恐ろしさもあるだろう。正体を知れば、なお恐ろしいに違いないが。

 ただ一つだけ言えることがある。……もう二度と父とは馬に乗らない。



 もともと戦の決着はほぼついていたので、士気の低い京兆軍を追い立てるのは難しいことではなかった。

 統率が取れていない軍ではあるが、逃げる方向だけはわかっているようで、ある者は川に飛び込み、ある者は単身で豊川の上流方面へ急ぐ。

 京兆家に従ってきた他国の国人領主たちは、もっと早い段階で兵をまとめ、この混乱に巻き込まれないよう兵を引き始めていた。

 その一団に紛れ込むのが、もっとも生存率が高い方法だろう。

 阿波軍も、そちらに手を出そうとはしなかった。

 ただ残兵を狩れとは命じられているようで、逃げ惑う京兆軍の兵は手当たり次第討ち取られていく。

 どういう伝え方をしたのか、阿波軍の者たちがこちらに向かってくることはなかった。

 やけに遠巻きなのは、いまだ戦場の熱冷め切らぬ父が、憤怒像のようにメラメラと何かを燃やしているからだろう。

 高らかな法螺貝の音が鳴り響いた。

 北から聞こえたその音が、四方八方に伝わって、そこからまた法螺貝が鳴らされ遠くにまで伝わっていく。

 ばさり、と吉田城に翻っていた京兆家の旗が落とされた。

 まだ耳はよく聞こえなかったが、阿波軍の兵士たちがいたるところで拳を天に突きあげて、勝ち鬨を上げているのがわかる。

 終わったのか。

 勝千代は疲労困憊の身体に鞭打って、改めて周囲を見回した。

 じんわりと汗ばむほどの陽気で、青空と草木の緑のコントラストが爽やかだ。

 そこだけ見れば、美しい日本の自然風景といった感じなのだが、いかんせん……臭い。

 血と脂と贓物と、武具のすえた臭いと。

 爽やかな風が吹くたびにそれらが鼻を突き、また多くの命が失われたのだと告げている。

 それにしても、ものすごい死体の量だ。この後始末は誰がするのだろう。


 もはや剣戟の音も怒号も消え失せた草原に、生臭い風が吹く。

 そんな中、兜を脱いだ鎧姿の男が近づいて来た。

 見たところ槍などは持っていない。もちろんそれだけで安全を判断するわけにはいかないが……どうやら見覚えのある男のようだった。

 今川軍の警戒などものともせず、徒歩で歩いて寄ってきたその男は、二十メートルほど先でいったん足を止めた。

「申し上げる!」

 よく通る声だ。それだけ言ってこちらの反応を待つ様子に、おかしなところはない。

「渋沢」

 父がそう命じると、いつの間にか馬の左隣にいた特攻男が「はっ」と硬い声で応えた。

 見えない側なのに、渋沢がいる事は把握していたらしい。

 前に出た渋沢は、その男に警戒しながら近づいて、二言三言なにやら言葉を交わしてから、こちらを振り向いた。

 父が頷き返すと、男を先に行かせ、不審な動きをすればすぐに排除できる位置を保って近づいてくる。

 間違いなく、三好殿に同行して石巻城まで来ていた側近だった。

 目に付いたのは、その鎧を彩る鮮血の量だ。臼灰色を基調にしているので、かなりの量の返り血を浴びたのが見てとれる。

 男は親書を携えていた。三好殿から勝千代に向けたものだ。

 受け取る前から、それは正式な書簡であり、いわゆる外交文書に類するものだというのがはっきりと分かった。

 元服もまだの子供が受け取ってもいいものか。迷ったのは一瞬だ。

 そもそも勝千代を総大将に任じたのは御屋形様ご自身なのだから、問題になどなるわけがない。

 父の側付きを介して手元に来た親書を受け取って、封書の表裏にざっと視線を向ける。

 ここで気を緩めるわけにはいかない。

 約定を結んだが口先だけのものだし、今川軍は三千、対する阿波細川軍は一万はいる。まともに戦える兵差ではない。

 例えば今、彼らがこちらに敵意を向ければ、また大勢の兵を失う羽目に陥るだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 上総介パパ無双 [気になる点] 斯波勢に軽装備で単騎で突撃して、軍勢を突っ切り、大将を吹き飛ばし、さらに斯波勢の将を蹂躙した男 という情報が京兆家軍にも入ってるでしょうから、京兆家の武将…
[良い点] 元服したら黒王号のjrに跨る
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